87話

 温い毒に侵されるような奇妙な感覚は、夜が明けても、日を置いても、完全に消えてはくれなかった。あの日以降、ロレッタがリューズナードの帰宅時間まで起きていることはなかったが、暗い室内の一番奥で、彼女の呼吸に合わせて上下する寝具の膨らみを見ていると、いつの間にか肩から力が抜けているのだ。


 そんなことが、昼夜問わず起こるようになってきて、いよいよ自分の正気を疑った。あの奇妙な感覚は、やはり毒の一種だったのだなと改めて認識する。ただ、とても厄介なことに、解毒方法が分からない。


 毒に侵された体を引き摺りながら子供たちの相手をしていたところ、


「なんか、今日のリュー、ふわふわしてる」


 と言われた。雰囲気が柔らかいというか、穏やかというか、なんだか漠然と、ふわふわしているように見えるのだそうだ。


 ふわふわ、とは一体。真意は謎だが、この毒に浸った状態を「ふわふわ」と呼ぶのが正しいのならば、リューズナードはあの夜、ロレッタの前でも終始ふわふわしていたことになる。彼女も自分を見て「ふわふわしてるな」と感じていたのだろうか。ふわふわ、ふわふわ。


 対処できずにふわふわしたまま歩いていた時、同郷出身の友人であるゲルトに呼び止められた。


「なあ、リュー。ちょっと良いか?」


「なんだ」


「最近、ロレッタちゃんが遠出する支度をしてるらしいな。しかも、サラの話だと、行き先は水の国アクアマリンだって言うじゃねえか。水の国アクアマリンって、ロレッタちゃんの故郷だろ? お前、何したんだ?」


 大人しく聞いていたものの、それまでの文脈と最後の一言だけが上手く繋がらず、リューズナードの頭上に疑問符が浮かぶ。


「??? ……何故、俺に聞く?」


「お前に愛想尽かして、実家に帰ろうとしてんじゃねえの? 皆そう言ってるぜ」


「は……?」


「嫌われるようなことした心当たり、ないのかよ?」


「いや、俺は特に何、も……」


 ふと、彼女と出会ってからこれまでの、自分の行いが脳裏を過った。


 ――睨んで威嚇した。足にペンを投げ付けた。刀を向けた。斧も向けた。黙って家事をやらせていた上に、用意された食事を突き返した。敵兵の腕を切り落として怖がらせた。握られた手を振り払った。


 ……心当たりが多過ぎて、もはや特定できないレベルである。


 それに、だ。思わずスルーしそうになってしまったが、ロレッタが水の国アクアマリンへ行こうとしている、なんて話も初耳だった。


 ここへ来て以来、彼女にはミランダと連絡を取り合ったり、不審な行動を取ったりしているような様子は一切ない。彼女は姉の指示で動いているわけではないはずだ。ということは、自発的に戻ろうとしているのだろうか? 今さら、どうして。なんの為に。


 そして、日常生活の困りごとだけでなく、そんな重大なことまでも、彼女は自分に言ってこないのか。国へ帰る計画自体は、他の住人たちには話していたのに。恐らく最も事情が伝わりやすいであろう、自分にだけ。


 ……モヤモヤする。

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