86話

「……そうですね。嫌いな私が近くに居たのでは、リューズナードさんも落ち着いて就寝できないでしょうから、普段から外で眠る、というのも、良いのかもしれません」


 居間だとか、寝室だとか、そんなことは関係なく、きっと自分の傍が嫌だったのだろうと思う。一抹の淋しさを抑え込んでそう呟くと、ウェルナーがぽかんとした表情を浮かべた。


「……うん? あいつが、君を、嫌い?」


「はい」


「えっと……なんでそう思ったのか、聞いても良いかな」


「それは……」


 姉の横暴を止められず、村を危険に晒して、リューズナードの人生の一部をも捻じ曲げてしまった。その贖罪をロレッタは果たせていない。彼の中で、自分は未だ敵のままなのだ。少しだけなら会話をしてくれることもあるが、他の住人たちへの接し方とは明らかに違う。


「……世間知らずの私でも、彼の普段の言動を見ていれば、さすがに理解できますよ」


 気を遣わせたくなくて、笑顔を作ったつもりだったが、上手く笑えただろうか。


 しばらく黙りこくった後、ウェルナーは珍しく静かな口調で応えた。


「……そっか。うん、とりあえず、テントの件は俺のほうでも考えてみるよ。少し時間ちょうだい。ごめんね」


「いえ。お忙しいところ、申し訳ありませんでした。よろしくお願い致します」


 ペコリと頭を下げて工房を出る。


 結論として、テントをすぐに用意するのは難しそうである。布団を担いで長距離移動できる体力を身に付けるのと、一人でテントを制作できる技術を身に付けるのとでは、どちらが早いのだろう。他にもまだまだ、考えなければならない問題がありそうだ。ロレッタは頭を悩ませ続けた。



――――――――――――――――――――



 ふわふわ、ふわふわ。


 視界の端に彼女の姿が映ると、なんとなく視線がそちらへ持っていかれる。そして、視界の中心に彼女の姿が収まると、数日前の夜に発現した奇妙な感覚が蘇る。




 ――家に帰ったら、明かりが点いていて。薄っすらと食欲を唆る香りがして。優しく名前を呼びながら、迎え入れてくれる相手がいる。


 そんな、家庭によってはごく当たり前の光景が、当たり前であった試しなどない人生を送ってきたリューズナードは、返事の仕方が分からずに、ただロレッタを見詰めてしまった。


 脳だか、心臓だか、自分の体のよく分からない部分で、ジリリ……と熱の灯る音がする。しかし、今度は一気に焼き尽くす炎のような熱さではなく、じんわり広がって侵食していく毒のような温かさだった。肩に入っていた力を削ぎ落し、鼻の奥をツンと刺激してくる、遅効性の猛毒だ。


 育った環境柄、食に対して選り好みなどしないし、美味いと感じる範囲が他者より広い自覚もある。ただ、そんな自分の嗜好を除いたとしても、彼女が作る食事は美味いのだと思う。七年の月日を過ごす中ですっかり舌に馴染んだ、リューズナードが好きな、この村由来の味だった。


 食事は冷めているのに、胃へ流し込む度、灯った熱の温度が上がっていく気がして、心身の具合がおかしくなる。貰える物は大人しく貰っておけば良い、だなんて友人は気軽に言うけれど、冗談じゃない。こんな物を際限なく受け取り続けていたら、いつか自分は気が触れてしまう。

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