第2話 霊護の家
春辻家は里山に住まう、
霊護とは昔ながらの生活を営み、先祖より受け継ぎし強い霊力を保持し続ける家のこと。
霊護の家は最盛期は百を数えていたが、今では全国に僅かしかいない。
家を継ぐ者がいなくなって絶家になっていたり、本来の使命を忘れて里を捨てたり、いつからか高い霊力を失っていたり、と理由はさまざま。
明治の世になって尚、里山で生活を続ける春辻家は珍しいと同時に、高い霊力を子々孫々に渡す、貴重な家になってもいた。
だからこそ、霊力を求めてやまない家門は是非に、とも春辻の血族との縁戚を望んだ。
――しかし、まさか勅使がいらっしゃるとは……。
客間である。
下座についた春辻家の当主、家政、妻の八重、娘の薫子は、深々とひれ伏す。
帝の遣いである勅使としてやってきたのは、五十代を過ぎたほどの口ひげの立派な男。
明治を迎え、帝が率先して髷を切り、洋装を着こなすのに合わせ、勅使も従来の衣冠束帯を捨てて、スーツにネクタイという洋装。
「帝は、春辻の娘がいい、との思し召しでございます」
ひれ伏したまま、家政は答える。
「それは非常に光栄なことでございますが、嫁ぎ先は……」
「天華である」
はっとして家政は顔を上げる。
「て、天華とは……あの?」
「左様」
「しかし天華家は……」
天華はこの国の柱石をになう家の一つだったが、数年前に悲惨な事件に巻き込まれているはずだ。
「当主である天華景虎の妻、である。帝におかれては、古来より朝廷に仕え、狩人(かりびと)の名門が絶えることを気にされておられる。景虎はすでに勅命を受け、婚姻することを承諾している。あとは、相手だけ」
狩人。それはあやかし狩りを生業とする武門の末裔。
古くは鬼を束ねる
明治という新時代を迎えても、あやかしが消え去ることはない。
むしろ彼らの出番はより増えたといえた。
なぜなら、鎖国をとりやめたことでこの国の流儀を知らぬ異人たちが多数この国に入って来たことで、この国の人々が守ってきたあやかしの住まう異界との垣根を越えることが多くなってきたからだ。
「では、分家のものに……」
「ならぬ」
「は?」
「帝におかれては、妻には春辻の本家の娘であるとのご意向であらせられる」
「しかし、薫子にはすでに許嫁がおります」
「まだそういう話がある、ということだけのはず。結納はすませておらぬだろう。とにかく、これは勅命である」
「ははっ」
家政はひれ伏す。
勅使を見送るや否や、勅使を迎えるために、新しくおろしたての着物姿の薫子は
「お父様、あれは一体どういうことですか!」と癇癪を爆発させた。
肩までかかった波打つ髪に、二重のぱっちりとした目元、十五歳という実年齢よりも幼く見える。
「そうです! 『ははっ』だなんて!」
娘以上に感情を露わにして、目をつり上げている妻の八重は、性格のきつさが顔の端々に現れている派手な顔ダチの美人である。
「では何と言えばいいんだ。勅命には逆らえん」
「でも、薫子には、百瀬さんというれっきとした婚約者がいらっしゃるではありませんか!」
「結納はまだだろう」
「嫌よ! 狩人なんてあんな薄気味の悪い連中に嫁ぐなんて! あんなのに嫁ぐのであれば、異人に嫁いだほうがまだましだわ!」
「あなたは、娘の幸せがどうなっても構わないと言うの!?」
「だが、春辻家の娘は古来より、狩人に嫁ぎ、強い霊力を持った後継者を産んできた。これは我が家の伝統でもあり、そのための霊護の家でもある」
「文明開化のご時世ですよ。そんな古くさい伝統を守るだなんて馬鹿げております! だいたい狩人があやかしを退治してきたっていう話もただの迷信でしょう。あやかしだか妖怪だか幽霊なんて、でたらめに決まってます!」
八重は吐き捨てるように言った。
彼女は田舎から都に出て花柳界で押しも押されぬ人気のある芸者。それを見初めて後妻に迎えたのである。そんな彼女は田舎暮らしはある程度我慢できても、あやかしとかそういうもに対する理解は全くなかった。
勅命の重さすら、どれほど理解しているかも怪しい。
「お父様は八重が不幸になってもいいと仰るのですね、ひどいわ!」
薫子は八重に泣きつく。八重は「可愛そうに」と声を震わせ、娘の頭を撫でる。
そんな芝居がかったやりとりに、家政はため息をつく。
「薫子。分かってくれ。私もお前に無理強いはしたくないが……」
「しておりますわ!」
「お前も春辻の娘なのだ。ここは我慢して……」
薫子ははっとして顔を上げた。
「そうよ! 化け物を嫁がせればいいんだわ!」
名案だと言わんばかりに薫子は言った。
娘を抱きしめていた八重も、はっとする。
「その通りよ。薫子、名案だわ!」
彼女たちには、春辻の本家にもう一人、いや、一匹、いることをすっかり失念していた。
「あの化け物も、立派な春辻の娘よ! あれを嫁がせればいいのよ!」
「そうですよ。あなた、あれにはもう私たちだけでなく、使用人たちもほとほとうんざいりしているのです。おまけに、女中の話だと、一人きりだというのに誰かと話しているそうです。気がおかしくなったのですよ。あんなのをいつまでもうちで飼うなんて、それこそ春辻の家名を傷つけます!」
家政は顔を顰めた。
「しかし」
八重は目を見開き、飛びかからんばかりに夫の襟を掴む。
「まさか、この期に及んで、あれを愛しているのだと言わないですよね!」
必死に形相に、家政はぎょっとしてしまう。
あれ、とはそう、沙苗のことである。
前妻である操との間にできた、春辻の長女。
「だ、だが……沙苗は」
「沙苗? 誰のことです?」
八重は目を見開いたまま、夫に言う。
「あんなのを、まだ名前を呼ぶのですか!? あれは人ではなく、化け物! だからこそ、あなたはあれを幽閉しているのでしょう!?」
家政は呻きをこぼす。
「どうなんです。答えてください。あれと薫子、一体あなたにとってはどちらが大切だと言うのですか!?」
「む、無論、薫子に決まっているだろう! だが……だがな……あれは、操の命の引き替えに産まれたんだ……」
家政は八重をふりほどくと、妻と娘に背中を向ける。
家政にとって、高嶺の花とも言うべき美しい女性だった。
今も目を閉じると、春の陽向のように柔らかく微笑む妻の姿を思い出せる。
操は、春辻と同じく、霊護の家の生まれ。
家政の一目惚れだった。そして八重樫としても自分たちに匹敵する霊護の家系との縁談は望むところで、両者の思惑が一致し、婚姻となった。
政略結婚ではあるものの、家政からすれば恋愛結婚も同じだった。
二人の夫婦仲は良かった。
最初は素っ気なかった操も、家政の愛情にほだされ、少しずつ距離が縮まっていった。しかし夫婦生活は長くは続かなかった。
操が臨月を迎えた頃、あやかしに襲われ、その身を噛まれたのだ。
操はあやかしに襲われたことで錯乱しながらも、『沙苗だけは絶対に生かして……』と家政に訴えた。
『さくら、こ?』
『この子の名前……お願い。私の命よりもこの子を』
『……分かった。絶対にお腹の赤ん坊は救う!』
子どもならまた作ればいい、と喉元まで出かかったが、半死半生の操を前にそんなことはとても口にできなかった。そして沙苗と彼女が名付けた家政の長女は、母親の命と引き替えに、産声をあげた。
しかし生まれた子どもは左目が金色に輝き、黒い一本、縦の筋の入ったあやかしの目を持っていた。あやかしに噛まれたことで、産まれた子にあやかしの力が入り込み、半妖として生まれたのだ。
よりにもよって操の命と引き替えに。
その不気味な目に誰もが恐れおののく。
家政は怒りに駆られた。
こんなもののために最愛の妻は死ななければならなかったのか。
許せぬ、と強い衝動にかられた家政は、赤子を離れで育てることにした。
殺さなかったのは、半妖といえども、操の腹から出て来た子どもだったから。
「もし、このまま薫子を犠牲にすると言うのなら、私たちは出ていきます!」
「な、何を馬鹿なことを!」
「馬鹿はあなたです!」
「しかし考えてもみろ。狩人へ半妖を嫁がせるなんて……ありえないことだ」
「隠して嫁がせるに決まってるでしょう。病弱だとでも言えばいいんです。それに、あれにだって忌々しいけれど、春辻の血が流れているのは間違いないんだから。とにかく、よーく考えてください! 私は別れても、頼むべき人たちはたくさんいるんだから!」
しかしあなたは違うでしょう、と八重は言いたいのだ。
それは最後通牒。八重は別れると臭わせたのだ。
妻の激しい気性に辟易しながらも、薫子を百瀬家に嫁がせられないのは、春辻の家にとっても打撃である。
春辻はたしかに名家だ。しかしそれはただ単に歴史が長いというだけ、とも言える。
江戸であればいざ知らず、今は明治。
霊力などという前時代的なものよりも、今必要とされるのは生き馬の目を抜く世界で生き残る才覚。端的に言って財力である。
伝統や格式だけでは到底、渡れぬ世。
爵位をもっていようとも、財力がなければ生きてはいけない。
春辻の家もまたその家計は火の車。
その主な原因は八重と薫子にあるのだが。
八重が帝都を離れることを納得したのは金銭的な不自由は決してかけぬと、家政が誓ったからだ。彼女は本当に湯水のごとく金をつかった。
妻でありながら家計には無頓着に。
これまでは先祖伝来の土地を切り売りして急場をしのいできたが、それも限界。
だからこそ、薫子にはどうしても百瀬家に嫁いでもらわなければ困る。
百瀬の財政支援を受けられなければ、近いうち、破産は免れない。
だが勅命には背けない。時代が変わろうとも、帝の権威は不動。
いや、武士の世でなくなったからこそ、余計にその重みが増したとも言える。
――仕方がない、か。
沙苗が半妖でさえなければ、操のように愛することができたのに。
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