第3話 父

 その日は、一月というのにとても温かかった。


 窓辺で沙苗は、日射しを浴びて目を細める

 木霊たちはうつらうつらしている。

 その姿はとても微笑ましく、戯れに右手の人差し指で木霊の頭をちょんっと小突く。

 はっとした木霊はびっくりしたように当たりを見回す。そして犯人が沙苗だとしると、人差し指にしがみつき、ぶらんぶらんとぶら下がって見せた。


「ふふ、ごめんなさぁい」


 沙苗は鈴のころがるような声で、可憐に微笑んだ。

 こんななにげない瞬間が、沙苗にとっては宝物のように貴重だった。


 ガランガラン。


 その鈴の音にはっとした沙苗は木霊を指から離すと、いつものようにひれ伏す。


 ――こんな真っ昼間から何の用?


 昼ならばついさっき出された。めさしの干物と粟、具のない味噌汁。どれもこれも作って時間が経っていて、まるで砂を噛むようだった。


 食事が粗末なのは今にはじまったばかりではない。座敷牢に閉じ込められて育ったから空腹などほとんどないから、それで十分とも言えるのだが。


 足音が近づいてくる。


 ――誰?


 女中ではない。女中のものよりもずっと重たい。

 足音が座敷牢の前で止まった。


「沙苗」

「!」


 顔を上げた。


「お父様……」


 一体いつぶりだろうか。思い出せないほど久しぶりだった。

 久しぶりに見た父の顔はいくらか、老いているように思えた。


 沙苗の記憶に残る、最後に見た父の顔はもっと若々しかったように見えるが、今は髪や口ひげに白いものがまじり、目尻の皺まで深い。


「久しぶりだな」

「は、はい」


 喜びは、ない。そんな気持ちはとうの昔に凍り付いていた。

 なぜ自分が閉じ込められているのかは女中が噂しあっているから分かっている。


 沙苗が人間ではなく、あやかしに穢れた半妖だから。

 そんな娘が、父にとっての最愛の人を犠牲にして生まれてしまったから。

 すべて沙苗にはどうしようもないことだ。


 沙苗はじっと父を見つめる。

 無言で見つめてくる娘に、父は目を背けた。


「……何かご用でなのでしょうか」

「う、うむ。実はな、お前に縁談がきた」

「縁談? どちらですか」

「天華という名門の方だ」

「そちらの方は、私がどんな状況なのかご存じなのですか?」

「いいや。だから、お前が半妖であることはばれないようにするんだ。これは家のためだ。お前をこれまで育ててやった恩を無駄にするな。分かったか」


 ――育てた恩? これまでひどい仕打ちをしてきたくせに……。


 しかし胸の中にある不満などぶちまければ、どんな目に遭うかもわからない。


「……は、はい」


 錠前の鍵が外され、扉が開けられる。


「この離れで花嫁修業をおこなえ。必要なものがあれば女中たちに言え」

「出てもよろしいのですか?」

「部屋にいては、花嫁修業もままならないだろう」


 ――座敷牢を部屋って……。


 心の中で突っ込み過ぎて、少し話しただけなのに疲れてしまう。

 しかし家の中だけとはいえ座敷牢から出られるのは朗報に違いない。


「ではまた様子を見に行く」

「お父様、お相手のお名前は?」

「天華景虎様。狩人だ」


 狩人という言葉に、木霊たちが怯えたようにブルブルと震えた。


「狩人というのは、どういう人なのですか?」

「あやかしを斬るのを生業にしている。つまり、お前の敵だ。これで分かっただろう。お前が半妖だとばれれば、斬って捨てられるぞ」


 背筋に寒いものが流れていった。


「……そ、そんな人に嫁がなければいけないのですか?」

「そうだ。薫子をそんなやつに嫁がせるわけにはいかないからな」


 父は当然という顔でそう言った。


「嫁ぐのは、分かりました。でも一つお願いが」

「なんだ」


 父は煙たい顔をする。早くここから立ち去りたい、と顔に書いてある。


「お母様のお墓にお参りを――」

「調子にのるな!」


 突然の剣幕に、沙苗は「申し訳ございません!」と頭をかばい、ビクビクと体を震わせた。


「お前のような半妖が操の墓に参るなど! お前が母を殺したも同然なんだぞ! 図にのるな! お前みたいな穀潰しの半妖、殺されないだけありがたく思え! お前が嫁ぐのは当然の責務で、何かを要求するなど百年早い! こんどまた同じことを言えば、罰を与えるからそのつもりでいろ!」


 ひどい剣幕で罵られ、父はその場をあとにしていく。


 恐怖で涙を流し、「ごめんなさい、ごめんなさい……」と沙苗は譫言のように呟き続けるしかなかった。

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