半妖の私が嫁いだのは、あやかし狩りの軍人でした

魚谷

第1話 座敷牢に住まう少女

 春辻沙苗は三畳ほどの座敷牢にいた。ここが彼女の生きる世界のすべて。

 唯一の外界との接点が竹で出来た格子で覆われた丸窓。


 沙苗はそこから空に浮かんだ三日月を眺める。月には薄雲がかかり、青ざめた月明かりは地上には届かず、暗い夜だった。


 座敷牢は漆喰で塗り固められ、汚れの浮いた灰色の壁に、冷え切った板張りの床。


 沙苗はできるかぎり肌と床が接触しないよう膝立ちだった。

 一月の身を切るような冷たい空気の中、沙苗は薄手で、ところどころほつれたり、破れたりしている着物姿。

 沙苗は今年、十八歳。腰まで届く黒髪に、長い前髪が左目を隠している。

 右目は円らで、艶やかな焦げ茶。潤みがちな瞳な見るものをはっとさせるような美しさをたたえていた。

 小顔で、鼻筋は通り、唇は鮮やかな赤みが差す。

 美人と名高い母の生き写しであると言われているが、沙苗は母を知らない。

 母は沙苗を産むと同時に亡くなってしまったからだ。

 しかしそれはいいことなのだと思う。こんな囚人同然の娘の姿を見なくてすんでいるのだから。


 丸窓に頬杖をついた沙苗はくすりと微笑む。

 まるで彼女には見えない誰かが本当にそこにいるかのよう。

 いや、実際、そこにはいた。

 沙苗の髪の毛で隠された左目には、丸窓の縁に腰かけている緑色の小人が見える。

 彼らは人の体に、丸だったり、三角だったり、四角だったりと色んな形の頭を持ち、鮮やかな緑色をしている。

 目鼻や口はないけれど、何となく感情というものが読み取れるような気がした。

 彼らは、ここ、春辻の里にある山に住まう木霊という名の精霊。


 こうして一人寂しく軟禁されている沙苗の話し相手として、幼い頃からやってきてくれる。

 はじめて来てくれたのはいつ頃だっただろうか。

 まだ十にも満たない頃だったかもしれない。

 家族はもちろん、女中たちでさえ沙苗を気味悪がり、必要以上に近づこうとしない。

 それでも沙苗の心が歪まず、明るく育ったのは木霊たちのおかげかもしれない。

 木霊は友だちであると同時に、先生でもある。


 座敷牢に閉じ込められているせいで、沙苗はまともな教育を受けたことはないが、木霊たちはこの世界にあやかしという存在があることだったり、この国には帝というとても偉いお方がいることなど、色々なことを教えてくれた。

 他にも彼らが住み処にしている古木のある山のことなんかも。


 沙苗は山の話が一番好きだ。あやかしとか帝とかは自分の世界とはかけ離れていることもあって現実感がないが、里の山はすぐそこにあるものだ。たとえ窓から見えなくとも。


 あそこではどんな木の実が採れて、どんな動物が住んでいて、どんなことが起きているのか。それを想像するだけで、ぐっすり眠ることができる。


「……そう、遠くのお山では雪がそんなに積もったのね」


 寒さのせいで、喋ると白い息が出た。


 木霊は他の山に住まう木霊と頻繁な情報交換をしているらしく、そこから得たことも教えてくれる。

 沙苗の家も田舎にあるが、山中というわけではないから、雪が降ってもそこまでは積もらない。

 木霊たちは、雪の積もった山はとても美しく、一面の銀世界だという。


 ――一度は見てみたい。


 雪山だけではない。

 夏の深緑に輝く雄大な山々や、空を白く切り取る入道雲。

 秋の真っ赤に紅葉する峰、落ちた紅葉で深紅に染まる川。

 春は、そう、やっぱり桜。桃色に染まった花びらが風に舞い散る様が息をのむほど、らしい。


 座敷牢の丸窓からは、猫の額ほどの苔むした庭しか見えない。

 それも風情があるといえるのかもしれないが、ここに長らく閉じ込められた沙苗からすると、そんな呑気なことは言ってもいられなかった。


「私? ううん。最近は先見はぜんぜん見てない。昔から見る、あの方のことだけ……」


 沙苗には昔から未来予知の力がある。

 それを、沙苗は『先見』と呼んでいた。

 夢という形で、自分や自分の周囲にまつわる未来が分かる。

 しかし、いつ、どこで、と詳細までは分からない。

 ただ普通の夢ではありえないような生々しい現実感、そこにいる人の息遣いや存在まではっきりと伝わってくるのだ。


 最初はそれが未来のことであるとは知らず、里の誰それが亡くなる、日照りが来るという話を、女中たちにしていた。

 そしてそれがことごとく当たるのだ。


 女中たちはより一層、沙苗のことを気持ち悪がり、「お前に流れるあやかしの血が不幸を呼ぶんだ!」と父からは竹の杖で殴られた。

 それからは未来が見えても、口を閉ざすようになった。


 しかし沙苗が見続けているにもかかわらず、やってこない未来が一つだけある。

 それが一人に男性に関する先見。


 美しい白髪を背中に流し、二重の切れ長の深紅の双眸を持つ異相の人。

 すらりとした細身に黒い軍服姿。その顔立ちは女性である沙苗ですらはっとさせられるほどの美形。

 その人はどこか遠くを見て、切なげな横顔を見せる。


 他の未来は先見を見てから一ヶ月以内には訪れるはずなのに、その男性とは今まで巡りあえたこともなく、その人のことを見続けている。


 沙苗にとってその人は支えだ。どれだけ苦しい思いをしようとも夢の中で、その人と会えるかもしれないという予感で、こらえられた。


 ガランガラン!


 沙苗の肩が小さく跳ねた。


 それは、訪問者を伝える鈴の音。

 沙苗ははっとして丸窓から離れると、四つん這いになってひれ伏す。

 足音からしていつもの女中だ。


「まったく、本当にどうして私がこんなことしなきゃいけないのよ……気持ち悪い。私まで呪われたら……」


 ぶつぶつと文句を言いながら重たい足音が、座敷牢で止まる。

 沙苗は畳に額を擦りつけんばかりにひれ伏し続けている。

 ジャラジャラと金属の擦れるのは、鍵束。

 ガチャン、と座敷牢の錠前が外され、ずいっと水の入った木製の桶と手ぬぐいが差し出される。


「さっさと体を拭きなさいよ! こっちも忙しいんだから!」


 邪魔くさそうに言われた沙苗は顔を上げ、「はい」と木霊たちと話していた時とは打って変わったか細い声で応じた。


 立ち上がると、柄のない白い着物、そして肌襦袢とを脱ぎ落とし、手ぬぐいを水につけてよく絞る。

 それから体を拭いていく。


 一月の水は身を切るように冷たい。

 全身の鳥肌という鳥肌が立ち、体がすくんだ。

 下唇を噛みしめながらも、肌をぬぐう。

 地獄のような時間。


 いつか水ではなく、ぬるま湯でもいいのでと下手に口にしたばかりに、殴られてからは我慢してじっと耐えることしかできなくなった。


 ――早く春になって欲しい。


 春になれば、多少は水温が上がってくれる。

 一番水浴びが気持ちいいのは夏だ。夏ならば水温を気にしなくて済む。


「まだなのっ?」


 女中がこちらに背を向けたまま、邪魔くさそうにぼやく。


「も、もう少し、です」


 何度か水を絞り、体を拭き終えると、急いで肌襦袢と着物を着る。

 濡れた体を拭くものがもらえないのはいつものこと。寒さもあいまって、歯の根が合わなくなるくらい寒い。

 先程と同じように平服する。

 桶が外に出され、扉が閉められ、錠前がかけられる。

 足音が遠ざかっていく。


 丸窓の障子を閉め、しきっぱなしの布団に潜り込む。

 しかし繕いがところどころある薄布一枚程度の布団にどれだけもぐりこもうが、この身を切るような寒さはとても誤魔化せない。


 そこへ木霊たちがぴょんと丸窓から飛び降りたかと思うと、沙苗にぎゅっとしがみついてきた。

 すると、木霊たちが自分たちの霊力で沙苗を温めてくれる。

 これもいつからか、してくれるようになったことだ。

 寒さのせいで顔を青ざめさせていた沙苗の頬に赤みが戻っていく。


「……温かい。みんな、ありがとう」


 呟きがこぼれる。

 木霊たちはむぎゅむぎゅと沙苗の体にしがみつき、温めてくれる。

 彼らからしたら遊んでいるだけかもしれないが、それでもありがたい。

 話し相手になって寂しさを紛れさせるだけでなく、こうして温めてくれる。


 その優しさに沙苗は感謝しながら、目を閉じる。

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