彼女はサンタクロースを当てにしない

緋色

第1話

「こんなときは、やっぱり鍋かな」

 身を切るような寒さに身体を震わせながら、近江おうみ恵介けいすけは呟いた。

 すれ違った女子高生の一団がその声を聞きつけて首をひねったのが見えた。

 しまったな、と思いつつも彼はそのまま逃げるように足を速めた。後ろからくすくすとした笑い声や同意の声が聞こえたがもはやどうでもいい。一刻も早く目的地に向かう。

 やがて見えてきた商店街のアーケードに避難とばかりに身体を滑り込ませる。何が変わるというわけではないけれど、露出した肌をたたく風がないだけでもずいぶんと気が楽になる。

 ここでようやくこわばっていた身体をほぐしていつものペースで歩みを進める。

 クリスマスはまだ一ヶ月ほど先だが、はやくもアーケードはクリスマス気分で一色である。気が早いな、と思いつつも恵介自身なんとなく気分が浮き立っているのを自覚していた。

 彼の目的地はこの商店街の一角にある手芸店だ。老夫婦の営むこじんまりとした店ではあるが、大型のデパートに行くには電車を使わなければならないし、たいてい望むものがおいてある上、なにより雰囲気が暖かい。

「近江君じゃない」

 馴染みのそこを尋ねた途端、声をかけてきた人物がいる。

「美作先輩」

 恵介はその女生徒の名を呼ぶ事で挨拶に代えた。

 美作蓮みまさかれん

 ボブカットと切れ長の瞳がきつい印象を与え、その実その通りの性格の才媛、というのが恵介の抱いている感想だ。多くの男子生徒を袖にしてきた経歴を持つ彼女だが、恵介にとっては師匠の一人で一年上の先輩に過ぎない。

「学校帰りにこんなところで会うなんて、奇遇ね」

「同感です。よく来るんですか、この店?」

「ううん。近江君も知ってるでしょ? 私の家が駅二つ向こうだって言うの。いつも寄るお店はその近くなんだけど、今日はなんとなくこっちに足を伸ばしてみたの。そしたらばったりっていうわけ」

「それは本当に奇遇ですね。僕、この店には二週間に一度ぐらいしか来ませんから、すごい確率ですよ?」

「そうなんだ」

 蓮はにこりと屈託のない笑みを浮かべた。

 この人、こんなに自然に微笑むこともできるんだ、と恵介は一瞬感慨にふけった。

 この先輩は撃墜王の異名を取るほどに男子生徒に人気がありながらも、実際には浮いた話はひとつもない。その所以を知って以来、恵介は急激にこの先輩に対する仄かな憧れを摩滅させ、現在は師匠として先輩として敬意を払うにとどめている。

「それで? 我が手芸部の期待の星、近江恵介君は、いかなる目的があってここを訪れたのかな?」

「それはもちろん」

「それはもちろん?」

「秘密に決まってます」

 恵介は澄ました顔で、かけていた銀縁眼鏡の位置を整えた。その反応を見て蓮は不満そうに唸った。

「もったいぶるね」

「そういうわけではないですよ。出来上がるとも限らないので大きな口を叩きたくないだけです」

「何を言っているんだか、私に出藍という言葉の意味を教えた次期部長候補が」

 さほど悔しそうでもなく蓮は肩をすくめて見せた。

「そういう部長殿は何を作ってるんです? 部費で購入した筈の黒のカシミアのほとんどを強奪して行ったというのは知ってますが」

 言いながら、やぶ睨みの視線になるのを抑えられない恵介だった。彼にとってもほかの部員にとっても非道という他ない所業である。きっちり釘をさして再発防止をしておかないと、クーデターの画策に発展する。指摘され、蓮はばつが悪そうに表情をゆがめた。

「あれは悪かったってば。椿つばきに似合うリブタートルセーター作れるな、と思ったら勝手に手が動いちゃったのよ。想像してみなさい。いつもは清楚で慎ましい椿が、身体のラインをくっきりだすセーターを着込んでいるさまを。しかも黒よ、艶かしい黒! ああ、やっぱり想像しちゃだめ。って、いやらしい表情してるんじゃないわよ!」

「してませんよ! 先輩こそ危ない発言はよしてください! あと、よだれ拭いて!」

「だ、誰が……あ、ほんとだ」

 この病気がなければいい人なんだけどな、と恵介は内心で溜め息をついた。

 美作椿とは、恵介にとっては話すこともあるという程度のクラスメイトの一人に過ぎないが、蓮にとっては大事な妹であり溺愛の対象であった。彼女が絡むと蓮の知性は星の彼方に吹き飛び、暴走を撒き散らす。シスターコンプレックスという言葉が本来の意味を表さなくなって久しいが、彼女の場合、メジャーになった表現こそが相応しいらしい。

「……落ち着きましたか?」

「な、なんとか。ごめんね、醜態晒して」

「いえ。いつものことですし」

 後半はなんとか口内で押しとどめた恵介だった。こんなとき自分一人なのが悔やまれる。部室ならフォローに回ってくれる女生徒も何人かいるが、この状況では援軍は望むべくもない。

「でもねえ……」

 半ば現実逃避しそうになっていた恵介は、なにやら地獄の底からの鳴動を聞いたような気になって、先輩に視線をめぐらせた。

「最近、その椿にちょっかいをかけてる奴がいるみたいなのよね……」

 いつの間にか蓮の両手に握られていた毛糸の束が何者かの首のように捻られたのを、恵介は確かに見た。そんな恵介に、さながらゴーゴンのような瞳が向けられる。

「近江君は知ってるよね? 君の隣のクラスの上原拓海うえはらたくみ

「上原ですかっ!」

 なんて大それたことを。恵介の心中を満たしたのはそんな感想だ。前々から軽率な所のある奴だとは思っていたが、今回は極め付けだ。よりによって「あの」美作蓮の妹に手を出すとはいったい何を考えている!

 自首を勧めようか、混乱した表情でそんなことを考え始めた恵介を見て、蓮は少し落ち着けたらしい。頭一つ分背の高い恵介の顔を覗き込むように蓮は首をかしげた。

「もしかして初耳だった?」

「当たり前です!」

 全力で肯定した後、ここが店主も客もいる店頭であることを思い出し、声のボリュームを引き下げる。

 もっとも恵介の気遣いは杞憂だった。店内の視線はすでに二人占めとなっていたのだ。恵介はそれに気づくと店主の老夫婦に軽く頭を下げた。にこやかに笑みを返してくる二人に安堵しつつも、蓮の手にある物体の惨状に気が気でない。ちょいちょいと恵介がそれを指し示して見せると、財布の中身を思い出して思わず蓮は涙目になった。

 レジで清算を済ませた蓮だったが、恵介はまだ用事を終えていない。目当てのものを探しつつ、隣に立つ先輩に視線を走らせた。蓮は真っ向からその視線を見返す。

「言っておくけど、事情聴取はまだ終わってないからね?」

「僕は何も知らなかったですよ。もし知ってたらとめてます。美作さんだけはやめておけと」

「ほほー。椿のどこに文句があるっていうのよ?」

「胸倉を締め上げるのは勘弁してください。美作さん本人には一切の非はありません。個性的に過ぎるお姉さんがいるというただ一点を除いては」

「……しょうがないでしょ。あの子は人が良すぎるところがあるから、私が注意してあげないと変な男にひっかかっちゃう」

 自分の行動が行き過ぎたものであることは理解しているらしい。ただ、ここで問題なのは人は感情と本能の生き物に過ぎないという単純明快な事実だった。その内心を汲みつつも、恵介としてはあまり愉快な心境ではいられない。彼だって感情に引きずられる生物なのだ。

「先輩の言いたいことはわかるつもりですけど、上原のやつは……まあ、多少軽薄なところはありますが、決して無闇に女の子を傷つけるような奴じゃありませんよ」

 これだけはきっちり言って置こう、恵介は義務感に駆られてやや早口で友人を弁護した。しかし蓮はその言にまったく感銘を受けず視線を鋭くするだけだった。

「やけにかばうね?」

「友人ですから弁護ぐらいします。それに、先輩だって妹さんの悪口を言われたら腹が立つでしょう? それがよく知らない人物の口から出たならなおさら」

「む」

 自分で気づかないほど語気を強めてしまった恵介だったが、蓮は敏感にそれを感じ取った。それ以前に、蓮にとってこの後輩はいつも無口と言う印象が強い。その彼のいつにないほどの多弁は蓮の頭を冷ますに十分だった。そうすると、いつも通りに頭が回る。

 蓮は時折、近江恵介と上原拓海が二人でいる所を見る。その光景は確かに友人同士仲が良さげに見えた。しかし、そうして直に目にしてはいても、この真面目を絵に描いたような後輩と、あらっぽい言動が表に出すぎる上原拓海という組み合わせはどうにもしっくり来ない。

 蓮は唐突に不敵な笑顔を浮かべた。

 恵介は我知らず一歩下がった。

「ちょっと。どうして下がるの?」

「そういう美作先輩はどうして肉食獣のような笑みを浮かべてるんです?」

「失礼ね、こんな美人に向かって」

 言うと、彼女は髪を撫で付けて笑った。そんな台詞も仕草もまったく嫌味にならず、むしろ女優のように見えてしまうのは天の授けた一物のせいだろう。恵介は内心でそう評価を下した自分を自賛した。なるほど、スクリーンの向こうの人物の性格はとにかく美化しすぎる傾向にある。

 彼女は、今度はいたずらっぽく笑って見せた。

「君の言葉を立証してもらうだけよ」



「うくくくく、ささ、寒い……!」

 作戦開始五分を過ぎたところで蓮は全面敗北、もしくは撤退寸前の状態に陥っていた。

「し、失敗したかな。やっぱり喫茶店で張り込めばよかった……ううっ!」

 突風じみた寒風が襲い掛かり、蓮の独り言を悲鳴に変える。それでも視線はターゲットをロックオンしたままだ。

 今の蓮からしてみれば別世界のような、吹き抜けの連絡通路の喫茶店。そこに彼女の妹、美作椿がいた。そしてその対面には仇敵、上原拓海。二人は終始にこやかに穏やかに、ゆったり時が流れているかのような雰囲気を振りまいている。しかしその光景は蓮の気分を逆なでするだけだった。

「も、もおー! 何、二人だけの空間作り出してんのよ、上原の奴! 絞め殺してやろうかしら……! 椿も椿よ、お姉ちゃんがこんなに心配してこんなに震えてるってのにぃっ。久しぶりに一緒にお風呂入って成長具合を確認してやるんだから!」

「……なんですかその量刑の格差は」

 次第にヒートアップしていく蓮を止めたのは、後ろから近づいてきた恵介であった。蓮はその声が耳に入った瞬間、猛烈な勢いで振り返った。そのままの勢いで伸ばした手でがっちりと恵介の胸倉を捕まえ、前後に大きく揺さぶる。

「遅いわよ、近江君! 今まで何してたのよ、遅刻よ遅刻! 女の子をこの寒空の下、二十分も待たせるなんてどういうつもりなのよっ!?」

「り、理由はちゃんと説明しますから、落ち着いてもらえませんか! ほら、あんまり騒ぐと上原も美作さんもこっちに気づくかもしれませんし!」

 必死の言い訳は蓮に理性的な行動を取らせることに成功した。しかしその行動が正しく評価されることはなく、恵介は近くの茂みまでマフラーごと胸倉を引っつかまれて連行された。

「ここなら風も防げるしあっちからも見えにくいわね。さっさとこうすればよかった……何してるの?」

 やっと理知的な表情を取り戻した蓮の視界の隅では、恵介が固く締まったマフラーを解いて首をさすっていた。被害者は加害者を軽くにらみつけた。

「生きている喜びを噛み締めてるんですよ」

「う、ごめん」

 確かにさきほどの振る舞いは見境がなさすぎた。蓮は素直に謝る。恵介もそれほど腹を立てていたわけではなく、その謝罪を「まあ、いいですけど」と軽く受け入れた。その反応に内心ほっとした蓮は今度は素朴な疑問を投げかけた。

「それで、どうして遅れたの? 一人で寒かったんだから」

「僕は時間丁度に来ましたよ」

「え?」

「誰かさんが変装なんてしているから、探すのに手間取っただけです」

「……あ」

 半ば唖然とした呟きが蓮の口から漏れた。

 恵介が変装というのも無理はない。黒縁の伊達眼鏡や口元までを巻くマフラーはともかく、腰まで届くロングヘアのウィッグとイメージとは違う黒のキャスケットは蓮を別人に見せるには十分であった。それでいて普段見ない私服とロングコート、そして人通りの多い駅前という悪条件。恵介が蓮を見つけ出せたのは、たまたま視線の先に挙動不審な人物を発見できたからだ。そんな姿ですらお忍びのアイドルの変装を連想させるのだから、世の中はまったく不公平という他はない。自分がこんなに理不尽な目に遭っているというのに。

 ふつふつとこみ上げてくる怒りを噛み砕きながら、恵介は言わずにはいられなかった。

「まったく、変装してくるなら言っておいてくださいよ。電話も通じないし、おかげでこの寒空の下、汗をかくほど探し回ったんですから」

「うう……ほんと、ごめん……」

 感情の波やら寒さやらで受信を伝える携帯電話に気づくことなく、また、先ほどから醜態を演じていたこともあり、今度もやはり素直に謝る蓮だった。確かに、恵介を軽んじていたのは間違いない。妹と上原拓海から身を隠すことばかりが頭にあり、待ち合わせた人物のことはまったく考えていなかったのだから。

「ほんと、ごめんね」

「……まあ、いいでしょう。今回はだけは許してあげます。でも仏の顔も三度までといいますからね。今度やったら問答無用で帰りますよ」

「え? 三度まで許してくれるんじゃないの?」

「仏ですら三度までなんですよ。狭量な人間はそう何度も許しません。それで? ターゲットの動向はどんな感じです?」

「う、うん。あそこ」

 不機嫌さを綺麗に消して半ば事務的な口調に切り替えた恵介に、蓮は戸惑いつつも喫茶店を示して見せた。

「暖かそうなところにいますね」

「ほんとね。まったく、羨ましいったら、もお」

「まあ、もう少しで出てくるでしょう。それまでこちらもティータイムといきましょう。もっとも、コーヒーですけれど」

 言うと、恵介はコートのポケットから缶コーヒーを取り出して見せた。恵介はどちらかというと紅茶党なのだが、こんな寒空の下では余計にトイレが近くなる。そんな配慮は口にはしなかった。目の前にいるのは一応女性であるので。

 恵介の差し出した二本の缶コーヒーの内、甘いほうが蓮の手の中に転がり落ちる。手袋越しにじんわりと感じられる温もりが、ほのかに手のひら以外の何かを暖めた気がした。

「……ありがと」

「どういたしまして」

 缶コーヒーを両手で大事そうに胸元で抱きかかえる蓮の姿に、恵介はなんだか子供のような微笑ましさを感じてくすりと笑った。もっともそれは蓮に気づかれない程度の控えめな表情だった。

 恵介は手の中のコーヒーをカイロ代わりに転がしながら、蓮を道端の植え込みのほうに誘った。そこはレンガで形状を作ってあって、腰掛けるには丁度いい高さなのだ。周りには同じようにしている人たちがいて、植え込みの影であることも手伝ってターゲットからのいいカモフラージュになる。

 あいにく恵介は座る場所にハンカチを広げるほどの気障ではなかったが、蓮はそんなことには頓着せず、恵介の隣に腰掛けた。そしてがたがたと震えながら手袋を外し、缶コーヒーのプルタブを引き開けると、口をつけた。ほうっと息をつくと一瞬だけ視界が白く染まる。

「ふわ……。なんだか生き返った気分」

「それはよかった」

 満足そうな蓮の横顔を眺めた後、恵介も同じように、こちらはブラックのコーヒーを味わう。やっぱりブレンドにするべきだったかな、と舌を刺激する苦味に少々の後悔を感じていた恵介に、蓮が僅かに身を寄せる。

「ところで近江君。今更だけど、ほんとによかったの? せっかくの日曜日なのに」

「構いませんよ。昨日はああ言いましたけど、上原の奴のことも気になりますし」

 恵介は苦笑を浮かべた。

 昨日、手芸店で恵介が蓮にされた提案とは、二人の動向を調査すること。

「先輩、ストーカーは犯罪って知ってます?」

「黙らっしゃい」

 恵介の抗議は蓮の一言で切って捨てられ、どこからみてもデートを追跡する怪しい二人組みとなってここにいる。もちろん上原拓海の行動が不埒なものであれば、片方は即座に非情な暗殺者に変貌し、もう片方は一時的に聖職者となって冥福を祈るだろう。

 そんなことになってはかなわないと、恵介は心中を説明する。

「先に言っておきますが、気になると言っても上原の奴が何かしでかすとかそういう事じゃありませんよ。ブレーキの壊れたダンプカーが突っ込む危険性を考えただけです。友人の危機を見逃すのは、さすがに人としてどうかとも思いますし」

「……もしかして、そのダンプカーって私のこと?」

「他に誰か心当たりでも? ちなみに断っておくとブレーキって言うのは僕のことです。残念ながら」

「……むう」

 真顔で言ってのける恵介に、さすがに蓮は顔をしかめた。先ほどは許したと言っていたが、それは言葉だけのことではないのか。ここぞとばかりに反撃されているような気がする。

「近江君って、歯に衣着せない人なんだね」

「人を見ているだけですよ。曖昧な表現だと曲解されそうですし、こういうはっきりとした物言いを嫌う人でもないと見ました」

 蓮は言葉に詰まった。図星でもあったし、嫌いでもない。しかしなにより、案外自分のことを理解している点について、なんだかむず痒いものを感じてしまったのだ。それに少々悔しく感じるところもある。先ほどから恵介は蓮の思考を先読みするように理屈を説いている。それは蓮の性格を把握していないとできないことだ。なのにこちらは近江恵介という人物がこのような性格であることすら知らなかった。もっともこの時、彼女の内心を占めたのは「後輩にやりこめられて黙っていられるか」という単純な反発である。すなわち、面白くない。

 どうしてくれようか、と思案にふける蓮を尻目に、恵介は唐突に手の中のものを飲み干した。

「近江君?」

「目標が移動を始めるようですよ」

「えっ」

 報告されて蓮も慌てて、もったいなく思いつつも缶コーヒーを一気飲みする。混雑する連絡通路とはいえ恵介と蓮の行動は目立つものだったが、幸いターゲットである二人はこちらをまったく気に留めた風はない。ばれなくて安心するやら互いしか見ていないことに腹が立つやら、蓮は複雑だった。

「……やっぱり締め上げようかな」

「まだ証拠不十分ですよ」

 やっぱりついてきてよかった、と内心の安堵を隠しながら恵介は今にも暴走しそうな先輩を嗜めつつ立ち上がると、自分と先輩の手の中にあった空き缶を近くのゴミ箱に投げ入れた。スチール缶だというのに形が少々変わっていたが、もはや恵介は気にしない。代わりに気になったのは、蓮が呟いた独り言だ。

「絶対、尻尾を掴んでやるんだから」

 彼女の眼差しは、上原拓海の茶色に染められた後頭部を貫いていた。




「……まずは映画か」

 蓮は猛禽類を連想させる眼差しでその建物を見上げた。腕を組んで仁王立ちするそのさまは道場破りにも見えた。

「先輩、そんなところにいると邪魔になりますよ」

 良識的な同行者がいなければ、の話だが。指摘されて、蓮が渋々脇へ寄った途端、阻害されていた人の波が正常に流れ出す。

「何してるんですか、さっきから」

「ふんだ」

 ため息をつきながらの恵介の質問に、蓮はそっぽを向くだけで返答しない。

 先ほどから蓮は目立つ行動ばかりしている。そのたびに恵介がフォローして行動を抑えているのだ。つい先ほどなど上原拓海と美作椿の目の前を横切って、恵介の肝を冷やしたものだった。もっとも、結果的にその行動はものの見事に失敗に終わった。二人の視界に入るには、二人の間に割り込むしかなかったからだ。

 腕を組んで映画館の壁にもたれて会場待ちしている蓮は、先ほどから大層ご立腹である。恵介にはなんとなくその内心が読めていた。

 こんなに思っているのに、妹の視界に姉は映ってはいない。それが無視されたようで悲しくて悔しい。だからこそ気づいてほしくて目立つような行動をする。もはや主題が置き換わっているのだ。

 そこまで考えて、とりあえず恵介は気分転換にと手に持っていたパンフレットを蓮に差し出した。

「はい」

「いきなりなによ」

 蓮は無愛想に仏頂面を返した。思わず苦笑で答える恵介。

「せっかくだから楽しまないと損ですよ」

 恵介は言って再度パンフレットを差し出した。なんだか子供を宥めるような恵介の視線に蓮は不満を募らせたが、ここでむきになって言い返すのは自分が子供であることを認めたようなものだ。それがわかっていた蓮は半ばひったくるようにパンフレットを手に取り、ぱらぱらとめくる。

「なに、アクション映画?」

「アクション映画ときましたか。割と有名な作品ですよ?」

「私が言ってるのはそういうことじゃなくてね。なんでデートにアクションなのかってこと」

 蓮は深々とため息をついて見せた。

「こんなときはラブロマンスと相場が決まってるでしょうが」

 パンフレットに皺を作る蓮を見て恵介は思った。ラブロマンスにしたところで「なに気取ってんのよ」と文句をつけるんだろうな、と。しかしそれを言ったところでますます機嫌を悪くするだけだろう。別のことを言うことにしよう。

「上原の趣味ですね。美作さん、上原に合わせましたか」

「……あー、確かに椿は引っ込み思案で優しいからその可能性もあるけど。むしろ椿は大喜びかも」

「は?」

「大好きなのよ、ガンアクション。後、大爆発と殺陣も」

 なにやら蓮は呆れたような表情で両手を挙げて見せた。お手上げ、と言わんばかりに。

「へえ、意外ですね」

「でしょ」

 言葉どおりの表情で恵介は視線を行列の十メートルほど先に投げかけた。そこにいるのは終始笑顔を浮かべた華奢な少女である。腰まで伸ばした髪を首の後ろと先でリボンでまとめた、おとなしめの女の子。それが今までの恵介の印象であったが、それはまさしく印象でしかなかったようである。

「まあもっとも、それは単に自分が運動音痴で憧れに昇華されてるから。……のはずなんだけどね……」

 蓮の表情に影がさす。

「何か問題でも?」

「……なんか、モデルガンの雑誌買ってた……」

「あー……」

 恵介は目を逸らしながら頬をかいた。

「憧れが昇華されすぎましたか」

「何とか止めるわ。お姉ちゃんの威信にかけて」

 ぐっと拳を握り締め、蓮は自分を鼓舞した。そうでないとあの雑誌を見ているときのうっとりとした表情に打ち負けてしまいそうだった。

 蓮はちらりと恵介を見上げた。

「ところで近江君。さっきと同じようなことを聞くけど、割と出費を強いてるんじゃない? ここ、私が奢るよ?」

「別に構いませんよ。僕も見たかった映画ですからね。ですから割り勘でお願いします」

「そこは大事ね」

 蓮は思わずくすりと笑った。



 人が長蛇の列を為し、足並みをそろえて街に吐き出されていく。その中に、微妙な表情の恵介と難しい顔を崩さない蓮の姿もあった。恵介は白いため息をつくと、たった今見た映画の批評を簡潔に述べた。

「まあ、二作目ですからね」

「あの監督は、もう終わりかしらね……」

 蓮の評価はより辛らつだった。二人の表現の厳しさの差はそのまま落胆の差だったわけで、周りで囁かれる声は似たり寄ったりなものであった。見ると、先を行く二人も苦笑いを浮かべている。

「悪徳弁護士を論破するシーンは爽快だったし、アクションシーンも文句なかったんだけど……」

「ちょっと演技に問題がありましたね……」

「ちょっとどころか……」

 蓮はがっくりと肩を落として見せた。しかし一瞬後にははっと気を取り直して見せる。

「いけないいけない。テンション下げてどうすんの。近江君、椿は?」

「ああ、あそこに……あれ?」

 恵介は指差してみたが、そこに目標は見当たらなかった。

「あああっ!? つ、椿、椿がさらわれ……!?」

「人聞きの悪いことを言わないでください!」

 いつもの気丈な態度を吹き飛ばし、軽い恐慌状態に陥った蓮はひとまず置き、恵介は急いで周りを見渡す。彼の行動は的確だった。人ごみのはるか向こうに二人を見つけたのだ。

「いましたよ、先輩!」

「あっ」

 恵介は周りに対する配慮を考えて小声で叫ぶと、蓮の手を取って駆け出した。とっさに空いている左手でウィッグが落ちないようにキャスケット越しに頭を押さえたのは、彼女の生来の反射神経とかすかに残っていた理性の賜物だった。しかし現状を理解したとき、全ての事象が彼女の頭の中から吹き飛んだ。正確には、手のひらから伝わる手袋越しの感触に、全ての感覚が集中していた。とくん、と心臓の鼓動が直接耳に響く。

 蓮の内心の動揺も長くは続かなかった。

 ほんの五十メートルも走らないうちに目標の二人を視界に収められる位置につくことができた。気づかれた様子もない。そしてなにより友人を危機的状況に追い込むことがなかった恵介としては上出来である。彼は先輩を振り返った。

「とりあえずは追跡続行ですか」

 進言するも、返答はなかった。彼女は困ったような表情で視線を上下させるだけだ。恵介は先輩の視線の先を追う。そこにはつながれた手と手。

「うわっ」

 恵介は現状を認識すると身体ごと飛びのいて蓮の手のひらを解放した。彼からしてみれば単なる反射行動だったのだが、こういう反応を返されると蓮としては面白くない。

「ずいぶんな反応ね」

「いえ、つい恐怖で身体が勝手に動きまして」

 意図した発言ではなく単なる失言だったのだが、当然のごとく蓮の眉は角度をつけた。

「あー……。すいません」

「……いいわよ、もう。君が割りといい性格なの、よくわかったから」

「褒められても困りますが」

「褒めてないっ」

 一歩踏み込んできた蓮に対し、恵介はごまかし笑いを浮かべつつ同じだけ一歩下がった。さながら熊に相対するように。

 蓮は恵介の態度にまだ不満だったが、優先すべきことがあるのを思い出してそちらに意識を振り向けた。危機を脱した事を悟った恵介も同じく前に視線を向ける。

「とりあえず今は任務優先ね」

「了解です、隊長」

 澄まして恵介は返す。その横顔を見て、蓮は言葉に出さず表情だけで唸った。さっきからいいように言いくるめられている。なんとか困った表情を引き出せないだろうか?

 考えた時間は一瞬だった。唐突に閃いた事があったのだ。その実効性をシミュレートし、決断するのに更に一秒。さっそく企みを実行に移す。

「えい」

「はっ?」

 蓮は恵介の腕を抱え込んだ。俗に言う「腕を組む」と言う行為に、恵介と蓮の顔が近づく。

「ちょ、あの、先輩? ど、どうして?」

 蓮の予想通り、恵介は狼狽した。逃げ出そうとあがきながら視線を逸らす恵介、ますます腕に力を込める蓮。結果、ますます互いの距離は短くなる。

 蓮からしてみればこんな近くで男の人の顔を見るのは、父親以外では初めての経験だ。覗き込むと気づいたが、まつげが驚くほど長い。他は適当にセットした髪、野暮ったい眼鏡、顔の造詣はありきたりと来ているのにそれだけが自分にない物でなんだか悔しい。更に腕に力を込める。熊の抱擁をイメージして。

 一方恵介は混乱の極みにあった。いわゆるパーソナルスペースが広い彼は他人との距離を無意識に多く取る。だからこれほどまでに自己の範囲を侵食されたことなど前例がない。しかもその相手が年頃の女の子で、分厚いコートを通してまでも身体の柔らかさを伝えてくるとなれば動悸が激しくなるのは必然と言えた。故に彼は必死で逃げ場を求める。さながら溺死寸前のように。

 蓮は、ようやく普通の男の子みたいな反応を示した後輩に、してやったりと笑みを浮かべた。少々恥ずかしいが、それを軽く上回る愉快さだ。

「どうしても何も、私たちはあの二人を追跡してるんでしょうが」

「だから、どうしてですか」

「怪しまれないために装うのは当然じゃない。回り見てみた? 同じような人たちばかりよ?」

「え」

 言われて恵介は言葉通り周りを見渡した。確かに、多い。むしろ自分たちのように距離を開けて歩いている男女は少数派といっていい。

「け、けど困りますよ! 美作先輩と腕を組んで歩いてたなんて知られたら!」

 明日の朝日は拝めないかもしれない。あってほしくない未来を想像してしまった恵介に、蓮は会心の笑みを浮かべた。

「大丈夫。私は今日変装してるから誰とは、ばれない。近江君が女の子と腕を組んで歩いていたという噂が流れるだけだよ」

「うええ……!?」

 恵介は二の句が告げない。反論できる材料がないこともそうだが、腕を包み込む弾力豊かな感触が理論的な思考の組み立てをことごとく阻害する。

 あからさまに慌てる様子に、ますます蓮は気をよくした。笑みが自然と深くなる。

「さ、いくわよ。任務続行!」

「か、勘弁してくださいよ~」

 恵介は情けない悲鳴を上げた。今日という一日はとてつもなく長くなりそうだと予感して。



「ったく、遅いな、恵介の奴」

 上原拓海はひとり呟いて、紅茶を啜った。

 ここは彼のお気に入りの喫茶店だ。最初はタイプの違う二人のウェイトレス目当てで足を踏み入れたのだが、そのとき頼んだ紅茶があまりにも美味しかったのでそれ以来くつろぎの場として時々通っている。

 友人である近江恵介に、落ち着ける場所で話しをしたいと呼び出されたのは昨日の事。その改まった態度に拓海は張り切った。あの堅物にも、とうとう季節外れの春が来たか、と先達として色々冷やかしやらアドバイスやらをしてやろう、とわくわくしながら待っているのだが、待ち人はいまだ来ない。もっともまだ待ち合わせ時間を一分少々過ぎただけである。近江恵介という人物は待ち合わせの時間十分ほど前に来るのが常だった。拓海もそうであり、彼らの間では待ち合わせの時間は文字通りの指針に過ぎない。

「あいつは遅れるなら連絡入れるよな……なんかあったか?」

 言いながら拓海はポケットから携帯電話を取り出した。ディスプレイは着信がなかったことを示している。

「近江君なら来ないわよ」

 不安になりかけた拓海の精神を、それ以上に不吉な暗雲が塗りつぶした。降って来た声をぎこちない表情で仰ぐ拓海。

 そこにあったのは美作蓮の笑顔。彼女は着ていたロングコートを手に、セーターとパンツという軽快な姿でそこにいた。理想的な身体のラインは元来とても魅力的なはずなのに、見えるのは捕食者としての濃厚な気配だけだ。

「お、お姉さん!?」

「誰が姉だー!!」

 思わずのけぞって悲鳴を上げた拓海に蓮の一喝が飛んだ。その声に打たれ、逃亡の動きを止められた拓海の視界に入ったのは、蓮の後ろに佇んだ想い人が驚いている姿だ。口に手を当て、思いもかけない人物に出会ったことに戸惑いを隠せていない。拓海は呼吸困難に陥りながらも、ごまかしに走る。

「あ、あ、美作先輩? 奇遇ですね! 妹さんとご一緒ですか!」

「下手な芝居はよしなさい」

 蓮の絶対零度の声と視線が拓海の舌を凍らせた。明らかに知っている者の態度だ。何を? 拓海に思い当たる事は一つしかない。舌がもつれる。

「つ、椿ちゃん? もし、もしかして、ば、ばれ……」

「つ・ば・き・ちゃ・ん? へえ、ずいぶん馴れ馴れしいんだ」

「はあっ!?」

 喫茶店の中は暖房で暖かいというのに、寒風が吹きすさぶ。拓海は押されたかのように全面敗北の体で腰を落とした。その態度は正しい。有史以来、荒ぶる自然現象に対して人間はあまりにも無力なのだ。

 目の前の光景にひとまず溜飲を下げた蓮は椿に座るように示した。ただし、拓海の隣ではなく斜め前にである。そうしておいて、いざという時の捕縛用ネットとしての活躍をし損ねたコートを傍らに、蓮も椿の隣、拓海の前に腰掛ける。拓海は鑑賞においてなら目の保養になる姉妹の前面に位置することになる。

「さて、洗いざらい喋ってもらいましょうか」

「お姉ちゃん、それじゃまるで取り調べ……」

「そうだけど、それがなに? まあ、それだけじゃなんだし何か注文しましょうか。あ、上原くんはカツ丼でいいわね?」

「勘弁してください……」

 心底嫌そうに拓海は俯いた。さながら犯行を認める容疑者のように。

 注文をとりにきたウェイトレスは卓の雰囲気と対照的に朗らかに応対した。しかしその後注文したものが来るまでの数分間は会話が発生せず、たった一つの席だけに針の筵が出現したかのような幻影を、椿だけが見ていた。

 ようやく蓮のコーヒーと椿の紅茶がテーブルに辿り着き、立ち上る芳香が卓上の重い毒素を少しだけ浄化する。

 蓮は足を組みかえるとコーヒーに口をつけた。その表情が軽い驚きに染まる。

「あ、美味しい」

 その単純な評価に、拓海と椿は好機を見た。二人そろって身を乗り出す。

「いいっしょ? そんじょそこらの喫茶店と違って、ここは本格的ですから!」

「そうそう、美味しいよね! コーヒーだけじゃなくって紅茶もすごく美味しいんだよ、お姉ちゃん!」

「なに必死になってんのよ、あんたたち?」

 蓮は冷えた口調と視線で無理やり上げたテンションに答えた。一過性の熱気はその凍てつきに耐えられず、一瞬で鎮火させられた。

 蓮はコーヒーカップが伝えてくる温もりを一通り堪能すると、それをソーサーに戻した。陶器と陶器の触れ合う音に、俯いていた拓海と椿の肩がびくりと跳ねる。その様を見て、蓮は脅かしすぎたかと堪え切れない笑みを浮かべる。そのとき、意を決した拓海が顔を上げて想い人の姉を見た。

「美作先輩! お、俺、いや僕は決していい加減な気持ちではなく、真剣に妹さんと!」

「そうなの、お姉ちゃん! わたしだって拓海君のこと!」

「あー、ストップ」

 声を上げた二人に対し、蓮はやけにのんびりとした口調と動作で二人の言葉を遮った。

「立ち上がって大声出さないの。ほかのお客さんに迷惑でしょうが」

 迷惑どころか、客もウェイトレスも全身を耳にして興味津々だった。それを証明するかのように、周りを確認した拓海と椿の視線から逃れるかのように多くの人々が自分たちの会話を再会させる。ウェイトレス二人は回りの動きにただ一人同調していなかったマスターに小声で注意されていた。恥ずかしさに顔を朱に染め、そそくさと二人は腰を落ち着ける。

「……なんてね。私も先週、近江君に同じようなこと言われたけどね」

「そ、そう、それですよ! 恵介の奴はどうしたんですか!? ま、まさか……!?」

「まさかってなによ。拉致監禁して聞き出したとでも言うつもり?」

「え、違うの?」

「椿、あんたまで! お姉ちゃんを何だと思ってるのよ!」

「ご、ごめんなさい。てっきり……」

「てっきりって……」

 蓮は傷ついたような表情で拗ねて見せた。が、ここは不安を払拭してあげないといけないだろう。すぐに立ち直って説明をはじめた。

「私が近江君に頼んだのよ。上原君をここに誘い出してって」

「あ、あんの裏切り者ぉ……!」

「言っとくけど」

 思わず天を仰いで呪詛の声を上げる拓海に、蓮が身を乗り出した。その真剣な表情に、拓海は息を止める。

「私が無理を言ったんだからね。近江君は仕方なしに聞いてくれただけ。そこのところだけは、お願いだから理解してね」

「ああ、そりゃそうでしょ」

 自分の都合で人の友情を破綻させるなんて冗談じゃない、巻き込んだものとしては随分とわがままな意見かもしれないが、それが蓮の偽らざる心境だった。それを強調したのだが、拓海は破顔一笑で吹き飛ばした。その笑顔に一瞬、蓮はあっけに取られた。

「へ?」

「さっきは裏切り者なんて言いましたけどね。あいつはそんな器用な事は出来やしません。要領も悪いですし」

「……随分信用してるのね」

「腐れ縁ですから」

 言外にそれ以上の意味を込めて、拓海は男くさい笑みを浮かべた。

「どうだ、参ったか!」

 そんな風に言われているようで、蓮はそれ以上語る術を持たなかった。なぜだか、心の内がもやもやとした黒いものに覆われていくような気がする。

 拓海はなにやら考え込み始めた怖い先輩から逃げる意味も込めて、話題をスライドさせた。

「椿ちゃんはなんでここに?」

「私はお姉ちゃんに誘われて……」

「ちょっと訂正」

 蓮は背もたれから身体を離すと、拓海と椿の会話に反射的に割り込んだ。

「私は『美味しいコーヒーが飲める喫茶店を探しに行かない?』って聞いただけ。そうしたら椿がここを教えてくれたから一緒にきたのよ」

 えっ、と椿は思いもかけない展開に姉を振り返った。椿は見た、意地悪そうな笑みが姉の顔に浮かぶのを。

「椿が私にここを教えなきゃ、こんな顔合わせになることもなかったのに。上原君も不幸ね~」

「ち、違う、違うからね、拓海くん! 私、全然そんなつもりなかったんだから!」

「いや、わかってるよ、椿ちゃん。俺、椿ちゃんのこと、信じてるから」

「拓海くん……」

 仕組まれた逆境も何のその、恋人たちは意外と強かだった。テーブル越しにがっちりと握り合わされた手と手は、さぞ引き剥がしがいがありそうだと一瞬で外野に遠ざけられた蓮は思った。思っただけではなく、ソフトに実行に移してみる。

「なんだかロミオとジュリエットみたいね」

「死んじゃうから! それ!」

「あーはいはい」

 妹の非難を受け流しつつも、蓮はテーブル上にかかった橋をどうしてくれようかと頭を捻る。しかしそれは彼女の鉄槌を受けるまでもなく自ら解かれた。上原拓海のポケットの中で、携帯電話が震えたのだ。

「うお、失礼。……って、恵介かっ!」

 携帯電話のディスプレイに映った名前に、多少の恨みを込めて拓海が叫んだ。もっともそれは本気ではなく、蓮の自分を見る瞳の色に耐えられず、雰囲気をごまかした方がいいと判断したからだ。

「くそ、あいつどの面下げてこんなややこしい時に電話してきやがった!? ……ええと、出てよろしいでしょうか、先輩方」

「うん、私は別に」

「いいんじゃない? なにを言うのか興味もあるし」

「はっ。ありがとうございます」

 拓海に否やはない。というより拒否権を取り上げられ、何かの映画に出てくるような敬礼を返して、受信ボタンを押す。

 とは言っても、店の中なので極力、声を抑える拓海。

「こら、恵介!」

『無事のようだな、上原』

 くぐもった声が携帯電話から響く。聞き逃すまい、と身を乗り出す連。

「無事じゃネェ! てめえ、俺がどれだけ寿命縮めたと思ってんだよ!?」

『だったらなぜ僕に一言言っておかない。僕が美作先輩と毎日顔をあわせるということは知っているはずだろう。そして僕はいつも君とつるんでる。重要参考人の筆頭に上がることは考え付かなかったのか? あらかじめ情報を得ていれば、うまくごまかすこともできただろうに』

「て、てめえ、相変わらず口がよく回る……。しょうがネェだろ!? 付き合ってるなんて説明、照れ臭くってできっか!」

『君がそんなタマか。大方、僕から美作先輩に情報が漏れることを危惧したとか、そんなところだろう。そんなに信用できないか、僕は?』

 最後で僅かに語尾が強まった。同時に拓海は言葉に詰まる。一を言えば百を返すような恵介の言葉だ。しかし、本当に言いたかったのはたった一つだけだったと気づく。これには拓海は白旗を掲げるしかなかった。

「……わりぃ。お前には、話しておくべきだった」

『わかればいい』

 携帯電話の向こう側の彼は、小さく笑ったようだった。

『こっちこそすまん。騙すような真似をして』

「しょーがねーだろ、美作先輩の前じゃ誰だってそーなる。それにいいきっかけになったしな。結果良ければ全部オーライだ、気にすんな」

『そうする。遅ればせながら、おめでとうを言わせてもらう。いや、まだ早いか?』

「別に早かねーよ。てか、お前先のこと考えすぎ」

『まさか。今のことを考えてるだけさ』

「ああ?」

 言いながら、拓海はふと気になり、やけに静かな正面に視線を投げかけた。そこにいるのは、とても心配そうな顔で姉と恋人を見比べている椿。そして噴火前の火山のような蓮。

「いや、あの……美作先輩?」

「……やけに好き勝手に言ってくれるじゃない」

「い、いや、あの、これは恵介の奴が! おいっ、恵介! お前もなんか言え!」

『さらばだ、上原。生きていたら改めて祝賀を述べたいと思う』

「おいーっ!?」

 無情にも返答はなかった。携帯電話はただ無機質に援軍がこないことを知らせてくる。

「……上原君。放課後、校舎裏にね? ……それで許してあげるわ」

「ぐはあ……」

 死刑宣告を受けて、拓海はテーブルの上に突っ伏した。死に体の拓海にさすがに椿は姉を責めるべきだと判断した。拳を握って姉の横顔に向かう。どんな視線が突き刺さってくるかと身体を硬くする椿に、しかし蓮はウィンクを投げかけて見せた。そして姉は愛しの妹に顔を寄せると囁きかける。

「言ったでしょ。許してあげるって」

 美作蓮の人を見る目は鋭い。その鋭さの大半は妹に近づく不貞の輩を排除するために培ったものだが、その彼女の目から見て上原拓海の気質はよくて中の下。中学時代はかなりの問題児だったとも聞く。何より、と蓮は改めて上原拓海の茶色の頭を見下ろした。蓮はいわゆる不良が嫌いだった。特に髪を染めるという行為が大嫌いだった。それゆえの先入観からの反発。

 けれど先週の、彼と一緒にいる時の妹の態度。あんな楽しそうで嬉しそうな笑顔を見せられたら、長年一緒に育ってきた自分すら見たことのない安らいだ表情を引き出されたら、納得するしかなかった。胸に生じる淋しさや悔しさは、涙とともに洗い流すしかなかった。

「さすが上原だ」

 その時、近江恵介は上原拓海をたった一言で評した。そう言った彼の表情に、上原拓海の評価を百八十度変えざるを得なかった。

 許す、椿はそう言われた瞬間は分からなかったが、理解が脳に到達すると、姉に抱きついた。こうでなくっちゃ、と久方ぶりの妹の体温を感じながら、蓮は囁き続ける。

「でも、もうしばらくはこのままね」

「え? どうして?」

「だって面白いもの」

 表情を曇らせた妹に、蓮はテーブルに視線を投げかけながら呟いた。椿もつられて見ると、そこには今だ突っ伏したままの上原拓海。今まで見たことのない、けれどどこか可愛いと思える姿。椿は悪魔の誘惑に抗えなかった。

「うん。そうかも」

「でしょ」

 二人の悪魔は顔を見合わせ、声を出さずに笑いあった。

 しかし、と蓮は思う。なぜ彼はこんなタイミングで電話をかけて来たのか? 答えはすぐに出た。

「あんにゃろー……援護射撃か」

 蓮は内心で悪態をついた。交わした会話は極短いながらも、上原拓海の性格をよく示し、蓮の評価を上方修正した。本当にそれが狙いだったとしたら、自分はまんまとひっかかった事になる。この借りは返さなきゃ、と思うものの打つ手がないのも事実。まずは情報収集から行くとしよう。

 蓮は惜しいと思いつつも椿から離れると拓海に呼びかける。

「ね、上原君」

「なんでしょー……」

 拓海は覇気のない表情で起き上がった。視界に心配そうな表情の椿が目に入る。現金なもので、ただそれだけで拓海は感情のメーターを上昇させた。よしよし、いじめがいがありそう、などと良からぬ思いを表に出さず蓮は尋ねて見せた。

「近江君と仲いいのね」

「……いきなりっすね」

 言葉通りの唐突な話題転換で、蓮の隣の椿も同意の頷きを返してくる。

「だって、電話での会話だって言うのに、椿が羨ましそうにするくらいだもん」

「ちょ、お姉ちゃん!」

「そういうことっすか」

 拓海は一応納得して見せてから、優しい笑みを椿に投げかけた。ただそれだけで椿の心に重くのしかかっていた何かは一目散に逃げていく。

 べしっ!

 しかしそんな雰囲気は蓮の手元から飛んだおしぼりで簡単に撃退された。

「誰に許可を得てやってんの?」

「スンマセン……」

 顔からおしぼりを剥がしながら、拓海は「漫画のようにはいかないか」と意気消沈する。救いは両手を合わせて申し訳なさそうにしている椿の存在だろうか。

「まったく、近江君の口ぞえがなかったら、とっくの昔に……!」

 手元に戻って来たおしぼりに感情をぶつける蓮。その捻られた姿は未来の自分だったかも、と思うとただの無機物に同情を禁じえない拓海だったが、聞き捨てならない台詞に意識を現実に引き戻した。

「へっ? 恵介が?」

「そうよ」

 不機嫌そうにしながらも、蓮は哀れなおしぼりを解放した。

「『上原は軽薄に見えるけど、根は真面目です』とか、ほか色々ね。将来は優秀な弁護士か詐欺師になれるかもよ、彼。感謝しなさいね」

「恵介っ……お前って奴は……今度速水堂のショートケーキ奢ってやるかんなっ!」

「近江君、甘いもの好きなの?」

 感涙に咽ぶ拓海に、蓮が意外そうに尋ねる。

「奴は大の甘党っすよ。二人で喫茶店入ると、いっつもパフェのメニュー物欲しげに見てます」

 そして拓海が「頼んだら?」と呆れたように諦めたように言うと「やめておく。こんなときは自分の客観的視点が恨めしい」と他の物を注文するのだ。

「へえ、そうなんだ……なに、椿?」

 素直な感想を述べて、コーヒーを口に運ぼうとした蓮は椿の視線に気づいてその動きを止めた。椿は首をかしげて不思議そうに答える。

「ううん? ただ、お姉ちゃんが男の人の事、興味津々で聞くのって、珍しいなあって思っただけ」

「え?」

 ぴたり、と今度は一瞬、心臓の鼓動まで停止させて蓮は視線をさまよわせた。

 やめておけばいいのに、ここで調子に乗るのが上原拓海という人物だった。

「おお? ひょっとして先輩は近江恵介という物件がお気に入りでしょうか?」

「拓海君! そんなことお姉ちゃんに言ったら……!」

「や、やべ! そ、そんなことあるはずがないですよねー! あんな朴念仁の堅物とデートしたところで、別に楽しくもなんともないですし!」

「そうそう、そうだよねー!」

 すまん恵介、ごめんなさい近江君、二人は罪悪感を感じながら近江恵介をこき下ろした。ずるいというなかれ、カルネアデスの板が救う人数は限られているのだ。

 しかし二人が予想していたような激発は起こらなかった。それがまた二人には気が重い。内圧というものは時間がたつほどに爆発力を高めるものである。

「デート……?」

 ぽつりと蓮は呟いた。先週を思い出す。

 待ち合わせ場所に遅れてきた彼はコーヒーをくれた。

 友達を弁護して自分をなだめる大人な人。

 面白くなかった映画を二人で論評した。

 腕を組んだ。

 慌ててる顔、驚いた顔、怒った顔、優しそうな顔、子供を宥めるような視線、そして笑顔をたくさん見た。いろんな表情をたくさん見せた。

 ああ、そうか。あの時間は。

「ううん、楽しかったよ」

 言って蓮はコーヒーカップを口に運んだ。美味しい。でもあの時の缶コーヒーも負けず劣らず美味しかった。それはきっと、そういうことなのだろう。

「えええーーっ!!?」

「……マジかよ」

 椿は嬉しそうな恥ずかしそうな顔に両手を当てて大声を上げ、拓海は対照的に額に脂汗を流した。

「どういうこと!? どういうことなの、お姉ちゃん!?」

「う、ちょっと椿! 揺さぶんないで! コーヒーが零れる! 話す、話すから!」

「やっぱりそういうことなの!? でもでも、あとちょっとしかないよ!?」

「もおーー!! 落ち着きなさいってば!」

 しかし椿のテンションは話し出すまで一向に収まらず、二人をストーカーしていたことは隠そうと思ったのにせかす椿に考えがまとまらない。仕方なしにすべて話すことになるも、妹は初めて聞く姉のそういう話に非難もどこかに吹き飛び嬉しそうな笑顔を覗かせる。そんな表情に蓮もつい目尻が下がる。

 話しつつ近江恵介という後輩に対し生まれた仄かな想いを再確認して、蓮は思う。自分は今三年生、彼は二年生。自分に残された時間はあと僅か、いくらもない。自分が在校生である間に勝負を決める必要がある。でないとどんなトンビに油揚げを攫われるか分かったもんじゃない。

 でも、と蓮はカレンダーを思い浮かべた。相応しい日が控えているではないか、恋人たちの一大イベントが。

 サンタクロースのプレゼント?

 キリストに祈る?

 いやいや、そんな果報は寝て待ては私らしくない。美作蓮の名が廃る。我が全身全霊で挑んで見せよう。

 彼女の今年一番の大勝負。

 それは今、この瞬間に始まった。

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彼女はサンタクロースを当てにしない 緋色 @scharlach

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