11 危機一髪

「へへ、いいじゃねぇか……! まさか、テメェをまたクビにできるとはな……! ゴミ虫見てぇに這い上がろうとする貧乏人を、何度も地獄に叩き落とすのが俺様の趣味なんだ……! さぁて、次はどんな風にクビにしてやっかなぁ……!?」


 私はキングコブラに睨まれたカエルのように縮み上がってしまいました。

 しかし思わぬ方角から、助け船がやってきます。


「なら、サインはできません!」


「なんだと?」とハジメ社長を睨むゼット社長。その目は蛇のように恐ろしいです。


「テメェ、自分の立場がわかってんのか? その書類にサインしなきゃ風船野郎だけじゃなく、社員全員がホームレスになるんだぞ?」


 しかしハジメ社長は怯んでいませんでした。


「ワシは、社員は家族だと思っています! 家族というものは、一心同体! ひとりを切り捨てて幸せになるくらいなら、みんなで不幸になる道を選びます!」


 ハジメの社長の目は本気です。

 私は、そんなことをしてはいけないと思いました。


「あ、あの……私は、クビになってもかまいませんので……」


 でも私の声は死にかけの蚊よりも小さいので、誰もが興奮しているこの状況では誰の耳にも届きません。

 そのうえ、我が意を得たとばかりにマドカさんが立ち上がっていました。


「へへーん! わかったか、このミイラ野郎! なんでもおめぇの思い通りになると思ったら大間違いだし! なんか砂漠にある、三角の石ん中に戻ってろ!」


 エジプトのピラミッドのことを言っているのでしょうか。

 マドカさんは瞳まで舌のマークを出して、三枚の舌でアカンベーをしていました。


 こんな挑発をされたらゼット社長は激怒するはずなのですが、いまは冷静です。

 首に縄を巻かれたじゃじゃ馬を見るように、肩をすくめていました。


「言っとくけど俺様は、こんなチンケな工場とか風船野郎とかはどうでいいんだ」


「は? そんなの負け惜しみだし!」


「だって俺様には、欲しいものなんてなにもねぇからな。いや正確には、欲しいと思ったらすぐに手に入るって言ったほうがいいかな。それも、ほっといても向こうから来てくれるんだ」


 ゼット社長はそう言いながら、包帯の腕に巻かれた赤いダイヤモンドがちりばめられた腕時計を見せつけました。


「コイツは世界にひとつしかねぇ時計で、50億はするらしい。欲しいと思ったんだが、オーナーが売ってくれなかったんだよな。でもソイツは去年自殺して、遺言で俺様にくれたんだ」


 腕時計をチャラつかせながら、ゼット社長はマドカさんの頬に触れます。


「この意味が、わかるか……? お前もいずれは俺様のものになるってことさ……! 絶対にな……!」


 いつもマドカさんは男に触られると、汚物のように払いのけます。

 でもこの時ばかりは衝撃が上回ったのか、総毛立つばかりでした。


「ま……まさか……! そのために、うちのオヤジをハメたの……!?」


「ハッ、いまさら気づいたのかよ! そうだよ! お前にハメたくて、お前のオヤジをハメたんだ! 貧乏人をケツの毛まで毟り取って、娘がいたら穴だらけにしてやんのが俺様の趣味だからな!」


「む……娘に手を出したら、承知せんぞ!」


 それまでなにをされても堪えていたハジメ社長でしたが、さすがに堪忍袋の緒が切れたのか憤然と立ち上がりました。

 真っ赤になったその顔を、ゼット社長は大好物を見つけた餓鬼のように、舌を垂らした笑みで見つめています。


「そうかよ……! ならその書類にサインをしたら、マドカには手を出さねぇって約束してやんよ……! でもそうなると、俺様の使う穴がひとつ減ることになる……! そんなこと、あっちゃならねぇよなぁ……!」


 サディスティックな視線が私に移りました。


「だからそのかわりとして、風船野郎は好きにさせてもらうぜ……! コイツを、死んだほうがマシだって思えるくらいにいたぶってやる……!」


「「そ……そんな……!?」」とハモる、ハジメ社長とマドカさん。

 その反応こそが見たかったのだと、ゼット社長は黄金の八重歯をギラつかせて大笑い。


「さぁ、どうするよ!? 娘を取るか、社員を取るか……! どっちにしろ、大事な家族をひとり切捨てることになるけどな! ぎゃははははは!」


 ハジメ社長はうつむき、嘲笑に打たれるように震えていました。


「す……すまん、アユムくん……! すまん、アユムくんっ……! ワシを、口先だけの男と罵ってくれ……!」


 決意ともにあげた顔、その頬には涙が光っていました。


「まさか……サインする気っ!?」


 マドカさんはハジメ社長の手からペンを奪おうとしました。

 しかし黒服に取り押さえられてしまいます。


「は……離せ! 離せよっ! やめろよ、オヤジっ! こんなクソ野郎の言いなりになるんじゃねぇっ!」


「ワシには、義務があるんだっ……! 母さんの忘れ形見である、娘たちを幸せにするという義務が……!」


 震える手で握りしめたペン先を、署名欄にあてがうハジメ社長。

 しかしサインするのを魂が拒絶しているかのように、全身汗びっしょりになっていました。


「ぐっ……ぐぐぐっ……! も……もはや、万事休すなのか……! マドカとアユムくん、ふたりとも救う方法など、ありはしないのかっ……!?」


 とうとう頭から湯気を立ち上らせるハジメ社長。

 ゼット社長はわざわざかがみ込んで、ハジメ社長にベロベロバァをしていました。


「そんなの、ありませぇ~ん! 工場で山積みになってるクソナイフがぜんぶ売れりゃ別だろうが、そんな奇跡はぜったいに起こりませぇ~~~~んっ!!」


「神よ……! この際、死神でもいいっ……! ワシの魂なら、いくらでもくれてやるっ……! だから、だからっ……!」


「ぎゃはははははは! コイツとうとう神にすがりはじめやがった! でも、神ならいるぜぇ!」


 ゼット社長は立てた中指で、「ここにな!」と自らを示しました。


「俺様こそが神だ! テメェら貧乏人は俺様の手のひらで転がされて、一生もて遊ばれる運命なんだよ! わかったか! わかったら観念して、さっさとサインしやがれ! ぎゃはははははっ!」


「う……うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」


「や……やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!


「ぎゃーっはっはっはっはっはっはぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」


 咆哮、怒号、哄笑。みっつの激情が茶の間を震撼させました。

 そこにもうひとつの機械音が加わります。彼らがぜいぜいと息をする中で鳴り渡ったのは、電話のベルでした。


 近くにいた社員のホビさんが受話器を取って応対、「えっ!?」と信じられないような声をあげています。


「しゃ……社長! キヨキナイフを売ってくれって! しかも、あるだけの在庫をぜんぶ!」


「「「なっ……なにぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?!?」」」


 間髪入れず、玄関からいつつめの軍勢が参戦しました。


「テレビ局です! いま話題のキヨキナイフについて、取材させてください!」

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