第5話

 劈くような大きな声に、体が震えた。誰だ、大声で西野の名を呼ぶのは。そう怒鳴ってやりたくなるほどの声量だった。しかし、その声が白川のものであると察した途端、何故か全身に冷や汗が滲んだ。

 ────何故、西野のことを?

 彼女へ振り返り、そう聞こうとした俺の目に、今までで見たことないほど顔を綻ばせた白川が居た。学校でも、プライベートでも見たことのない彼女のその表情に、一瞬唖然とした。

 白川は俺を押し除け、西野の前に立った。その手を握り、上擦った声を漏らす。


「私、後輩の白川りんと言います。西野先輩の合唱を聞いた時から、ずっと先輩の歌声の虜です」

「えっ……えぇ? 嘘、私の歌声が好きな子なんていたんだ。あはは」


 西野は学生時代より幾分か解れた雰囲気を醸し出し、笑顔を作っていた。ありがとう、嬉しいな。そう返す西野に、白川はうっとりとした表情を見せ頬を染めている。

 ────な、なんだこれ。

 俺は一瞬で蚊帳の外へ放り出され、まるで見えない壁に阻まれたかのように二人の間に入れずにいた。いや、入れなかった。白川のこの変わりように、圧倒されていた。

 白川は基本的に静かなタイプだと思う。けれど、今は違う。彼女は我を忘れ、無我夢中で西野へ話しかけていた。機を逃すまいとしているその姿は、まるでずっと昔からこの時を待っていたハンターのようだ。


「ま、まさかこんなところで出会えるなんて……感無量です。もう、歌われていないのですか?」

「歌……? うーん、カラオケに行くぐらいかな」

「本当ですか? 今度、ご一緒してもいいですか?」

「えっ……っと」


 西野が一歩後ろへ退いた。彼女の勢いに押されているみたいだ。俺は空気のようにその場に漂う。まるで最初から俺と言う存在が無かったかのように振る舞う白川に、恐怖さえ覚える。


「この子は森泉くんの、彼女さん?」

「そ、そうだけど────」

「違います。友達です」


 白川があっけらかんとそう告げた。俺は彼女の言葉に、呆然としてしまい何も返せなかった。そうなんだ。と頷く西野へ、白川が続ける。


「先輩、連絡先とか教えてもらえませんか?」

「あ、うん。いいよ」


 二人はスマホを取り出し、何かを操作していた。けれど、俺にはそんなことどうでもよかった。先程、白川が発した言葉が脳内を駆け巡り、何度もリフレインする。その言葉が耳の穴に膜を張り、彼女らの会話が聞き取りづらくなった。足元が泥濘のように感じ、立っているのがやっとである。

 じゃあね、という言葉が辛うじて聞こえ、霞んだ視界の中、二重になった西野が消えていく姿が見えた。俺は視線を白川へ向ける。彼女は俺の方を一切見ることなく、西野の遠ざかる背中を見つめていた。

 その横顔は、まるで想い人を見送る恋煩いをした少女のようで、俺は唇が震えた。


「あの────」

「森泉くん、別れよっか」


 喉から漏れた掠れ声に白川の透き通った声が重なる。彼女はこちらを見ることなく、西野が居た風景をぼんやりと眺めていた。

 やがて、顔を此方へ傾け口角を緩める。その笑顔は肖像画のように美しく、それでいて恐ろしかった。


「私たち、合わないみたいだし」


 そう言い残し、彼女はクレープの袋を丸め、近くに設置してあったゴミ箱へ捨てる。じゃあね、と此方を見ずに立ち去る華奢な背中を、俺は追いかけることができなかった。

 そこでようやく、俺は彼女に抱いていた違和感にようやく気がついた。

 彼女は、俺が好きだったんじゃない。彼女は────白川りんはずっと、俺と付き合っていた西野陽世の影を追っていたんだ。俺に残る、僅かな西野の痕跡を隅々まで辿った白川の、その執念に身が震える。

 俺を見つめていた白川は、俺ごしに西野を見つめていた。手を繋いでいる時も、キスをする時も、セックスする時も。

 そこまで考え、口の中に溜まっていた唾液を嚥下する。

 持っていた食べかけのクレープに残ったクリームが、熱で溶け出す。その溶けて原型が無くなったクリームは今の俺のようで、どうしようもない感情に囚われた。

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