Undigested

たちばな

Undigested

 家に着いた頃には、すっかり夜になっていた。ただいま、とは言わないで、黙って電気をつける。いつも通りのあたしの部屋が浮かび上がるけど、いつもとはちょっと違うように感じた。

 とりあえず、荷物は適当に机の上。窮屈なドレスを脱いで、部屋着に着替える。メイクも落としてクッションに座れば、いくらか気分が楽になった。

「はー……」

 自然と、ため息が出る。何だかんだで疲れた。大勢の前でスピーチなんて、今日くらいしか経験しないだろう。緊張を思い出して、思わず膝を抱える。

 行って良かった、とは思う。もし行かなかったら、あたしは一生後悔したとも思う。

 でも、やっぱり、行きたくはなかった。


 しばらくぼんやりしていたら、スマホがぽこんと軽い音を鳴らした。メッセージだ。送り主は『みなちゃん』。今日の主役だ。立て続けに2件のメッセージが送られてくるので、あたしはそれを開く。

『今日はありがとう! 式で撮った写真、送るね!』

 そんなメッセージと共に、絶妙に可愛くない猫が感謝を伝えるスタンプが送られてくる。みなちゃん、このキャラクターまだ好きなんだ。思わず笑みが溢れる。

 最後に写真が何件か送られてきて、それでみなちゃんからのメッセージは切れた。写真を見る前に、あたしもありがとうのスタンプを送っておく。

『こちらこそ呼んでくれてありがとう。みなちゃん、すっごく綺麗だったよ』

 そんな定型文を打って、あたしは写真を見ることにした。

 写真は2枚。1枚目は集合写真だ。真ん中で、みなちゃんと新郎さんが満面の笑みを浮かべている。2人とも幸せそう。あたしはどこにいたっけ? まあ、どうでも良いか。

 2枚目は、あたしとみなちゃんで撮った写真だ。みなちゃんは、『どうしても璃子と撮りたい』と言って、真っ先にあたしのところに来てくれたのだ。

 あたしは画面を拡大して、みなちゃんの顔を見た。どっちの写真でも、みなちゃんからは幸せなオーラが溢れている。綺麗にセットした髪に、真っ白なドレス。上向きの睫毛に、桃色の唇。全部が完璧で、みなちゃんはびっくりするくらい綺麗になっていた。

 あたしはメッセージアプリを閉じた。写真の保存はしなかった。みなちゃんの花嫁姿は残しておきたいけど、あたしが横にいる写真は嫌だった。結婚したみなちゃんの横にいるのは新郎さんって決まっているのに、あたしがその場所にいるのは違う。

「……。そっ、か」

 みなちゃん、……本当に結婚しちゃうんだ。


 引き出物の中に、バームクーヘンがあった。みなちゃんと新郎さんがいっぱい悩んで、一番美味しそうなものに決めたらしい。おしゃれな箱を開けると、シンプルなバームクーヘンがあった。顔を近づけると、甘い香りがする。ほんの少し小さめのサイズだから、1人暮らしのあたしでも食べ切れそうだ。

「食べ切らなきゃ……」

 このバームクーヘンがあると、みなちゃんの結婚式を忘れられないから。みなちゃんに向けているあたしの気持ちも、いつまで経ってもなくならないから。

 この気持ちは、なくさないといけないから。

「食べ切らなきゃ」

 あたしはキッチンからフォークを取ってきて、それでバームクーヘンを切った。程良い弾力のバームクーヘンは、案外簡単に切れてくれた。

「いただきます」

 香り同様、バームクーヘンは甘かった。しっとりした生地が、ゆっくり口の中で崩れていく。2人が悩んだだけあって、今まで食べたバームクーヘンで一番美味しい。

 あたしは黙々とバームクーヘンを食べた。夜にこんなに食べるなんて、とか、今じゃなくても良いのに、とか、そういう考えが一瞬頭をよぎった。でも、今じゃなきゃダメ。早く、未練を断ち切らないとダメ。少しずつ、でも確実に、バームクーヘンがなくなっていく。


 お願いだから、早くなくなってよ。だんだん視界が歪んでいく。バームクーヘンはあたしの中に消えていくのに、あたしの気持ちはいつまでもあたしの中から消えていかない。

 本当は、あたしがずっとみなちゃんの横にいたかったのに。あたしだったら絶対にみなちゃんを喜ばせるのに。悲しませないのに。

 ……何で、あたしじゃダメなの?

 頬を温かいものが伝っていく。ずっと、全部言ってしまいたかった。でも、言えなかった。みなちゃんを困らせたくはなかった。

 口の中が甘くなってくる。あたしは最後の一口と一緒に、飛び出してきそうな言葉を飲み込んだ。

「……ごちそうさま、でした」


 最後の一口はやっぱり甘くて、でも、少しだけしょっぱかった。

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Undigested たちばな @tachibana-rituka

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