宿の部屋割り
大阪の宿は会社の近くの旅館だった。食事は出ず、基本的に夜泊まるだけ。あと連泊なら荷物を置いておける。寝る場所は畳の六畳間で、それを二人ずつで利用した。
初日に居酒屋に連れていってもらい、ほどほどに飲んでから宿に案内された。
部屋割りはもう決まっていて、「お前はこの人とな」と、既に顔なじみの係長氏と相部屋になった。
部屋割りがこうなった理由は、就寝後に分かった。寝言だ。
寝付いてしばらくして突然寝言が始まって、部屋割りの理由を悟った(苦笑)。
朝までずっと寝言が続いたら「これはたまらない!」となるが、さすがにそんな人はいない。
初日はちょっと寝不足感があったが、翌日以降は運動量が多かったのでほとんど気にならなくなった。
寝言の内容もいくらか覚えているが、子供を叱ったりするのがメインで、それはどちらかというと微笑ましかった。
それより驚いたのは、寝言が突然英語に替わったことだった。
海外勤務が長い人で、何か月か日本にいて、また何か月か外国にいて、という人だった。
土木関係の会社で自分より上の人は、海外経験が豊富な人が多くいた。1980年代、バブル期前の日本はかなり景気が悪かった。公共事業は予算をかなり削られ、建設会社はどこも生き残りをかけ、あらゆることをしなければならなくなった。
「入社してすぐの頃は『自宅待機』させられた」などという話を聞いた。会社に来てもらっても仕事がなく、給料も出せないというのでそんなことになっていた。
自分のいたところは、海外の仕事に活路を見出した。日本は不景気で仕事がないが、外国はそうではなかった。中でもオイルマネーで活気があった中東に行った人が多く、入国の審査で酒類は全部没収されるが、裏技で持ち込みに成功したという「武勇伝」なども聞かされた。湾岸戦争の後は中東に架けた橋が「テレビに映ったけど無事だったよ!」と笑って話す人もいた。
時任三郎の「リゲイン」のCM曲にある「ジャパニーズ・ビジネスマン」は、なにもバブル期に突然でてきたわけではなく、その前の不景気時代から外国で勝負する日本人がいて、バブルはその延長線上にやってきた。
留学も海外赴任も経験がない自分としては、外国で生活し、日々英語を話す日常がどいうものかは想像するしかできない。
――海外経験が豊富になると、寝言まで英語で喋るようになる――
駆け出しの社会人としては、これはこれで勉強になった。
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