事務所待機と夜の大阪

 2月8日、水曜日。この日は大阪支社の会議室で待機した。昨日同行した二人はまた現地に行っていて、自分と、他の支社の同年代の若手と二人で会議室でダラダラすごした。

 机の上には携帯電話が充電器に乗って置いてあった。朝に作業開始の電話を受けた。この頃は携帯電話が普及し始めた時期で、現地の作業ではチームで1台持っていた。折り畳み式でポケットにすっぽり入る機種が人気だった。

 今のようにノートPCを持って行って会社のWiFiに繋いで、ということはできず、普段の仕事はぜんぜんできない。午前中は適当に抜け出して、コインランドリーで溜まった下着を洗った。

 夕方に異常なしの電話を受けて、定時に上がった。


 宿に戻る前に夕食を外でとることにした。一人で大阪の街を少し歩き、ラーメン屋を見つけて入って食べたと思う。

 日曜に来てから3日間、夕食は全部居酒屋だった。しかし無理に飲まされるということはなく、それぞれ好きなペースで飲んで好きなつまみを適当に頼んで、時間もさほど遅くならなかった。

「被災地で頑張ってるんですから、サービスしますよ!」

 と居酒屋の店主が言ってくれたが、被災者のためになることは何もしていないので恐縮するばかり。

 それより、正直、アルコールより前に炭水化物をとりたかった。

 この日、普通の食事をして、ようやくそれが叶った。


 夜の大阪の街を宿に戻る途中、奇妙な光景が目についた。

 そこそこ高級なクルマが、歩道に乗り上げて駐車している。乗り上げた場所には公衆電話があり、そこから受話器を引っ張って車内に取り込み、ケーブルの分を残して窓を締め、長電話をしているようだった。クルマはエンジンをかけっぱなしで、これならテレホンカードがなくなるま凍えずにいられる。

 大阪の都心まで自家用車を乗りつけているのだからそれなりにいい収入がある身分だろう。そんな裕福な人間が、誰かと長電話するのに公衆電話のギリギリまでクルマを寄せているのがおもしろかった。

 誰かと長電話というか、間違いなく「女」なわけだが。そしてそういうクルマは1台だけじゃなかった。

 これも、この後携帯電話が急速に普及し、もう次の冬にはこんな光景は見られなくなった。


 ヒトの脳と知能はシカの角やクジャクの羽根のように、性選択で進化したという説がある。いかに言葉巧みに異性を「口説く」かを切磋琢磨した結果、文明を築く知性を得るに至ったという。人は電話にあそこまで必死になれるというのを知ると、妙に説得力がある。

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