被災地に入る

 1995年2月6日。大阪支社に出社してから、さっそく被災地に行くことになった。本社から応援に来た3人のチームで行動した。

 作業は現地の橋の経時変化の計測。倒壊した橋の多くは既に撤去されていたが、残っている橋も損傷したものが多かったため、時間が経過して突然倒壊する、というようなことがないよう、危険な兆候がないかをこの作業で確認する。それと、計測後に被災地を歩き、地震被害の現地調査も行うことになっていた。

 衣服は作業着に防寒着(いわゆるドカジャン)を羽織り、会社のロゴを貼ったヘルメットを持ち、リュックにカメラや双眼鏡、地図、巻き尺(コンベックス)など現地で必要な諸々を納めて出発した。

 交通手段は、梅田から阪神電車が青木おうぎまで運行していたので、これを利用した。青木から先の移動は全て徒歩になる。

 大阪はほぼ普段通りの生活が戻っていたため、昼食の弁当など食料や飲み物は大阪のコンビニで購入した。被災地でこれらを頼って被災者の負担を増やすことは避けた。


 大阪支社を出て梅田駅に向かうが、街行く人もごく普通の人ばかりで、すぐ近くが大震災の被災現場だという空気は希薄だった。

 阪神梅田駅の改札も、特に変わった様子はなかった。

 しかし、発車待ちの阪神の電車に乗ると、乗客の半分ぐらいはヘルメットに作業着か、それに準じた汚れても問題ない服装で、これから行く先が日常とは違うことを改めて感じた。

 阪神電車は梅田こそ地下駅だが、出発すると程なく地上に出る。

 窓から外を見ていると、すぐにちらほらと屋根の上のブルーシートが目に入った。そして、電車が西に進むとブルーシートの面積の割合が徐々に増え、それだけ壊れた家が多いということが分かった。

 海の方を見ると、電車と並行して走っている高架の高速道路が、途中で途切れているのが分かった。

 阪神大震災の光景として知られる、横倒しになったピルツ橋脚の橋は、その後数日で撤去されてしまっていた。場所は阪神の深江駅の南のあたりで、青木駅に到着するすぐ前に高速道路の桁が見えなくなったため「このあたりか」と思った。


 やがて終点の青木に到着した。

 改札を出て、すぐ目の前が焼け跡だった。

 それも1軒や2軒ではない。区画一つがまるごと、黒々とした焼け跡になっていた。

 テレビなどで見ているのと、実際にこの目でみるのとでは、やはり大きい違いがある。

 大規模な火災の焼け跡に直面して、被害の大きさを改めて実感した。

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