阪神大震災の被災地に仕事で行った話

春沢P

大阪へ

 1995年2月5日の日曜日。東京駅から、昼過ぎの新幹線「ひかり」の自由席に乗り、大阪に向かった。

 名古屋までいつも通りに新幹線は走り、関ヶ原に雪が積もっていていくらか徐行したが、これもいつも通り。いつもと違うのは、京都を過ぎて、新幹線の車両基地があるあたりでも徐行したこと。この区間は震災の影響でしばらくの期間、徐行が続いた。

 「ひかり」は大阪まで3時間と少しの乗車時間。徐行の影響はあまりなく、夕方という程でもない時間に新大阪に到着した。それから御堂筋線で大阪の中心へと向かい、大阪支社に到着した。


 1995年1月17日の早朝、兵庫県南部地震が発生した。マグニチュードは7.3。最大震度は7を記録した。神戸の都市部を中心に広い範囲で大規模な被害が発生し、死者は5000人を超えた。これが阪神大震災として今に伝えられている。


 東京では地震の揺れに気付くことはなかった。テレビのニュースを見て、信じられないほどの被害が生じていることをようやく知った。

 大阪支社は激しい揺れにより、大型の書棚が倒れるなど滅茶苦茶な状態になっていた。ただ、時間が早朝のため誰も人はおらず、職場で怪我した人はいなかった。

 1月17日は火曜日で、その前の16日は15日の成人の日の振替休日だった。大阪支社では、早朝に起きた大地震のために騒然とした週の始まりとなった。

 私がそれまで5年ほど勤めてきた会社は、橋などの公共施設の設計を行うことが主な業務のため、地震の被害の応急復旧に重機とともに駆けつけるという、建設会社らしい役目は負っていなかった。しかしそれでも、発災と同時に、様々な対応に追われる自治体などの客先をいろいろな形で補佐する責務が発生していた。


 大阪支社に到着すると、日曜日の夕方であるが、多くの社員が出社してそれぞれが仕事に追われていた。支社長も緑の作業服を着て、無精髭も生え、せわしなくしていた。

 18時から打合せをするというのでそれに参加した。東京の本社から、自分より先に応援に来ていた先輩たちがそこにいた。それに大阪支社の人も加わり、今日の現地の報告と、明日の作業について話し合いが行われた。ピリピリした空気があった。

 すっかり夜になってから解散となり、近くの飲み屋につれていかれて、アルコールとともに夕食となった。それから、応援部隊が宿としている旅館に案内された。

 やはり現地はえらいことになっていると、率直に感じた。

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