第25話 レオンハルト邸の日々
テーブルの上では燭台の橙色の柔らかい灯りと暖色系でまとめられた花が水差しへと生けられて穏やかな晩餐会を彩っていた。
さて、ミモザという少女がレオンハルト邸を訪れて数日が過ぎようとしていた。今までほとんど来客がなく一人しか卓を囲むことのなかったテーブルに二人の人物が腰掛けるようになって数日、マーサは今だに不思議な気持ちでその光景を眺めていた。
テーブルを囲って初日、少女は神妙な顔をして挙手した。いわく「テーブルマナーがわかりません」。
主は一瞬虚を突かれたような顔をした後、「礼儀作法の教師を雇おう」と告げてその会話を終わらせた。恐縮する少女に「今後弟子として同行してもらうことが増える。その際にマナーがわからないようでは俺が恥をかく」と言い置いて。
二人の間の会話は決して多くない。まぁ、『レオンハルトとの会話量』としては少女はぶっちぎりで多いのだが、一般的なものと比べると少ない方である。しかし二人の間に流れる空気は気安く、とても穏やかなものだった。
これまでは食事などただの作業だと言わんばかりの速度でマナーは守りつつ食事をさっさとかき込んでいた主人が、今は少女のたどたどしいゆっくりとしたペースに合わせて食べている。気にしていない風に特に何を言うでもないが、同時に食べ終わるようにワインや水を頻繁に口に運んでみたりゆっくりと咀嚼したりと無言で工夫を凝らしている様子は見ていて微笑ましい。そして少女がどのくらい食べ進んだのかを確認する際に彼女がその視線に気づいてにこりと小さく微笑むと、彼は困ったように苦笑を返すのだった。
ミモザが訪れてまだ数日であるが、これまでただ重苦しく張り詰めていた屋敷の空気が柔らかいものへと変わりつつあった。
(何よりも旦那様の機嫌が良い)
うんうん、とマーサは上機嫌で頷く。機嫌が良いのはいいことだ。それだけで職場の雰囲気が格段に向上する。よしんば機嫌が悪くともミモザと話していれば今までよりも遥かに短い時間で直るのだ。これには感謝の言葉しかない。
「ずっと居てくれればいいですよねぇ」
マーサの内面を代弁するように、一緒に廊下の掃除をしていたロジェが言った。燃えるような赤い髪にブラウンの瞳を持つ彼女は古株だらけのこの屋敷に置いて貴重な若者だ。ぴちぴちの20代の彼女は、彼女いわく「ぞっこんなダーリン」がおり、レオンハルトへ秋波を送ることのない貴重な人材であった。
「ひと月しかいないみたいだねぇ」
残念に思いため息を吐く。
「えー、延ばさないんですかねぇ、延長、延長!」
「そんなことできるわけがないだろ。まぁ、また来てくれるのを祈るしかないねぇ」
たしなめつつも「はぁ」とため息が出る。一度良い環境を味わってしまうとこれまでの状態に戻るのが憂鬱でならない。
その時可愛らしい鼻歌が聞こえてきた。鈴を転がしたようなその明るい声は、ここ数日で聴き慣れたものだ。そちらを向くと廊下の曲がり角から予想通りの人物が姿を現すところだった。
「ミモザ様ぁ、おはようございますぅ」
ロジェがぶんぶんと手を振って挨拶する。孤児院育ちの彼女は少々お行儀の悪いところがあった。
その声に少女は両手いっぱいに花を抱えて振り向いた。金糸の髪がさらりと流れ、青い瞳が優しげに微笑む。
「おはようございます。ロジェさん、マーサさん」
その可愛らしい救世主の姿にマーサとロジェはほっこりと微笑んだ。
「毎朝せいが出ますねえ」
手に持つ花束を示して言うと、彼女はああ、と頷いた。
「暇ですからね、わりと」
これも彼女が来てからの変化だ。殺風景で飾り気のなかった屋敷に彼女は庭から摘んだ花を飾って歩く。最初は食卓の一輪挿しからじわじわと始まり、気づけば廊下から執務室までありとあらゆる場所へとそれは入り込んでいた。
屋敷に勤める女性陣には大好評である。これまでそういったことをしたくても出来なかったのだ。主人に直談判する勇気が誰もなかったからである。しかし彼女は違う。ミモザはこれまで誰もなし得なかったことを何かのついでにひょいと「花飾っていいですか?」と聞いてあっさり許可をもらった猛者である。
「ミモザ様はぁ、お花がお好きなんですかぁ?」
ロジェがにこにこと訊ねる。それにミモザは「いやぁ、特にそういうわけでは」と意外な返事を返した。
「そうなんですかぁ?てっきり毎朝飾られているのでお好きなのかとぉ」
「そうですね。これは好き嫌いというよりは……」
真剣な顔で彼女は言った。
「お花を飾ると家の運気が上がるので」
「運気」
「はい。運気です」
曇りなきまなこである。
(まぁ、ちょっとオカルト?が好きな子みたいよねー)
別に害はないのでマーサとしてはどうでもよかった。
「あのぅ、実はお願いがあるのですが」
ミモザはちょっと困ったように言う。屋敷を訪れてすぐの無表情はなりを潜めている。緊張していたのだとは本人の談だが緊張しているのが周囲に見た目で伝わらないのはなかなかに損な性分だなと思う。
「どうしたんだい?」
ミモザはもじもじと恥ずかしがりつつ「今日、レオン様は外出らしくて……」と言った。
「一緒に昼食をとってもいいでしょうか?」
彼女の位置付けは微妙だ。お客様ではないが使用人でもない。主人の弟子として修行をし、家庭教師などから教育を受けているが、使用人としての仕事も少しこなしている。
つまり彼女の「仕事の先輩方と仲良くしたい」という希望は的外れではないが、おかしな話でもある。
「ーで、連れてきたのか」
「まぁ、断る理由がなくてねぇ」
不機嫌そうにジェイドが言うのにマーサは肩をすくめた。
「ふん、まぁいい、わたしは知らん」
ふん、と顔をそらして使用人の控室であり、食事を取るテーブルの一番隅へとジェイドは腰掛ける。手にはもう昼食のプレートを持っていた。
そこにミモザが昼食のプレートを持って現れた。彼女はキョロキョロと室内を見渡すとジェイドのちょうど正面の席へと腰を落ち着けた。
「なんでここに座る!?」
ぎょっとしたようにジェイドが立ち上がる。
「え?」
ミモザは不思議そうだ。
「またやってら」
庭師のティムが呆れたようにそれを見てぼやいた。
そう、何故だかミモザは蛙男ことジェイドに非常に懐いていた。
「席は他にいくらでも空いとろーが!!」
ミモザはきょとんと「そうですね」と頷く。
「なら!何故!ここに座る!」
「すみません、誰かの指定席でしたか」
しぶしぶと立ち上がるのにロジェが「指定席とかないからぁ、大丈夫よぉ」と教えてあげる。その言葉に彼女はきょとん、としてから再び腰を下ろした。
「座るな!」
「でも誰の席でもないと…」
「わたしが嫌なんだ!!」
「何故ですか?」
首をひねるミモザに、ジェイドはびしっと指を突きつけた。
「いいか、わたしはな!顔のいい奴が大っ嫌いなんだ!」
非常に大人げない理由だった。
「ジェイドさん」
ジェイドのその言葉にミモザは珍しく少しむっとした表情になる。
「な、なんだ」
自分からふっかけておいてジェイドは怯む。その顔をじっと見つめながらミモザは「僕、そういうのはよくないと思います」と唇を尖らせた。
「はぁ?なんだと?」
「人の容姿をどうこう言うのは不謹慎です」
「褒めてるんだろうが!」
「でもジェイドさんはマイナスの意味でそう言っています」
その指摘にジェイドはうっと言葉を詰まらせる。
「褒めてません」
「うっ」
じぃっと恨みがましい目で見られるのに彼はたじろいだ。
「ミモザ様はぁ、なんでジェイドさん好きなのぉ?」
ロジェが助け舟を出す。ミモザの視線はロジェへと移った。
「優しいからです」
「はぁ?優しくした覚えなど!」
しかし返された答えにジェイドは思わずといった様子で声を上げた。再びミモザの視線がジェイドへと戻り、ジェイドは嫌そうに身を引く。
「確かにジェイドさんは大きな声を出します。でも理不尽な暴力を振るったりはしません」
「当たり前だろうが!」
「当たり前ではありません」
そこでミモザは憂鬱そうに目を伏せた。
「嫌そうな態度は取ります、けれど僕の人格を否定するようなことは言いません。面倒だとは言います、しかし要領の悪い僕に何度も根気強く仕事を教えてくれます。あなたは優しい。だから……」
顔を上げる。冬の湖のような静かな瞳がジェイドを見つめた。
「だから僕がつけあがるんです」
「つけあがるな!」
ジェイドはふーふー、と肩で息をする。それを見つめつつ彼女は説明が足りなかったと思ったのか、考え考え言葉をつけたした。
「僕、修行を始めてからマッチョになりました。そのおかげで少し自信がつきました。僕はこれまで、何も言いませんでした。ずっと何も思ったことを言わず、そのくせ周りに期待をしていました。察して欲しいと、自分は何も行動しないくせに」
そこまで言って、「んー」とまた言葉を探す。
「だからこれからは、少しずつ思ったことを言おうと思ってます。僕は、貴方が好きです。人間として、仕事の先輩として、尊敬しています」
「わたしはお前が嫌いだ!」
ジェイドの喚くような返答に、ミモザの表情は変わらなかった。ただ無表情に、ジェイドを見つめている。
それにちっ、とジェイドは舌打ちをした。
「お前、そう言う時は落ち込んだそぶりで涙でも流してみろ。それだけでお前の容姿なら同情が引ける。不器用な奴め」
そう言い捨てるとそのまま席について食事を始めた。
「一緒に食事をしてもいいですか?」
「好きにしろ、お前がどこで食べようとわたしは知らん」
にこ、とミモザは笑った。
「僕ジェイドさんはツンデレだと思うんですけどどうですかね」
「ツンデレが何かは知らんがろくでもないことを言ってるだろうお前!なんでも素直に口にすればいいと思うなよ、小娘!」
えへ、とミモザは花が綻ぶように笑った。
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