第9話 セラミックスのピアノ
(セラミックスのピアノ)
その日の昼休み……
昨日、弾いた不思議なピアノに、もう一度逢いたくて、さっそく愛美たちが体育館にやってきた。
「あれっ、先客……」
体育館に入ったその瞬間、すさまじいピアノの連打の響きが愛美たちを迎えた。
「アミ、変よ! 体育館が揺れているわっ!」
「違うわ。地震よー!」
麗子と正美が叫んだ。
三人は思わず肩を寄せ合い、お互いにお互いを支えあった。
しかし、それは火山の爆発に似て紅蓮の炎を映し出していた。
円錐状に広がった山の峰から、地響きと共に天まで届くような勢いで火柱が上がっていた。
その噴火口からは、赤々とした溶岩がどろどろと流れ出している。
その噴火の照り返しの中、黒いマントを着た男たちが銀の杯を持って酒盛りをしている。
気がつくと愛実たちは、その酒盛りの中にいた。
まさしくここは、魔王たちが集うというはげ山の一夜に違いないと愛実は直感した。
愛実は、一人立って叫んだ。
「先生ー!」
あたりは静寂の中、いつもの体育館の風景が戻った。
「きっと、昨日の先生よ……」
愛実が、誰に言うともなく呟いた。
その期待通りに、弾いていたのは昨日の青年教師だった。
彼は、愛美たちに気づくと、手招きをして三人を呼んだ。
「待っていたんだよ。必ず来ると思っていたよ」
「先生、凄い響き。どこまでこのピアノ響くんですか。こんな爆発するようなピアノ、聴いたことないです!」
愛美は、彼の演奏に圧倒されてしまっていた。
「先生、あれは、げ山の一夜でしょう。悪魔に食べられてしまうかと思ったわ」
麗子も、幻を見たように話しながら、愛実たちに同意を求めた。
「それは、ひどいな―。でも、そんなふうに聴いてもらえたら嬉しいよ。この曲は、ムソルグスキーの交響詩『はげ山の一夜』をピアノで弾けるようにアレンジしていたところなんだ。夏の演奏会で披露しようかと思ってね」
「先生!すごい迫力だった。オーケストラでもあんな迫力出せないかもしれない」
愛実はとても真似ができないと思い、少し落胆しながら尊敬の眼差しで先生を見ていた。
「でも、僕には昨日の君の演奏が、月あかりの下で、満開に咲く桜の森の中にいる気分だったよ。それでまた、君のピアノが聴きたくて、待っていたんだよ」
「私なんて、ぜんぜん先生みたいには弾けません」
愛美は、生まれて始めて、自分にはかなわないと思えるピアニスとに出会った。
「強い音というのは、ごまかしやすいもので、力さえあれば誰にでも出来るのさ。でも、柔らな人の心に響く音というのは、やはり才能かな。先生でも、君のようには弾けないよ」
「そんなこと、ないです。先生のピアノ、私の心に響きました」
愛美は、正直に言った。
小笠原氏は、愛美たちを舞台の上に招いた。
愛美たちは、昨日とは違って階段を使わずにそのまま舞台によじ登った。
小笠原氏は、愛美にピアノの席を譲りながら
「昨日のソナタを、もう一度聴かせてくれないかね?」
「いいですよっ!」
愛美は、心を落ち着けてから、鍵盤の指をゆっくり走らせた。
しかし、愛美の演奏が始まって、すぐに彼の声がかかって、演奏を止めた。
「ごめんごめん、さっきの僕の演奏が影響してしまったようだね」
愛美は、彼に言われるまでもなく、昨日とは違う響きに戸惑っていた。
麗子と正美には、何が何だかわからなかった。
「このピアノは、普通のピアノとは違うんだ。実は、僕が設計して開発したセラミックス・ピアノなんだよ」
「セラミックス……」
愛美は、その言葉はよく知っていた。
しかし、このピアノがセラミックスで出来ているとは思えなかった。
「最近になって、隣の会社でセラミックの焼きなまし技術が成熟してきて、堅くて壊れやすいというセラミックから、粘りを持って割れにくいセラミックが出来るようになってきて……」
「それじゃ、より金属に近くなってきたんですね」
麗子が、興味心身でピアノの中を覗き込んだ。
「まだ、金属ほどの柔らかさはないけどね。でも、叩くといい音が出たんだ。それで、元々楽器会社なんだから、取りあえずこれでピアノを作ろうということになったのだが、なかなかうまくいかない。それで、弦とフレームと可動部分はセラミックなんだが、外回りは普通のピアノを使った。将来は、オールセラミックスを考えているのだけどね」
「先生。そんなことは、ないですよ。私の家のピアノより弾きやすいですよ!」
愛美が軽く鍵盤に指を走らせて音を響かせた。
「それは、君がこのピアノの性能に負けないくらいの技量があるからなんだ。しかし、さっきみたいに少しでも、心が乱れたり、体が硬かったりすると、このピアノは綺麗に響いてはくれない。かと言って、甘くセッティングすれば、普通のピアノよりも響かなくなる。これでは商品にはならないね」
小笠原氏は、セラミックス・ピアノの特徴を、愛美たちに詳しく説明した。
「先生、私も弾いていい?」
それを聴いて麗子も一度弾いてみたいと思った。
「いいとも、弾いてごらん……」
愛美は、それを聞くと、麗子に席を譲った。
麗子は、軽くモーツァルトを引き出したが、その手応えのない軽さと、バラバラな和音にお手上げになった。
「先生、だめよこれ、響きすぎて、タッチの方が速くなっちゃうわ!」
と麗子は愛美に席を譲りながら愚痴った。
「レイ、違うのよ。ちゃんとした和音が出来ていないと、濁った残響音が邪魔しているの……」
愛美は麗子のピアノを聴いて、改めてセラミックス・ピアノの難しさを教えられた感じがした。
「そんな私、いつものように弾いていたのに……?」
「だから、普通のピアノと思って弾いてはダメなのよ……」
愛美の顔は、いつになく険しくなった。
「そうなんだ。普通のピアノに比べれば、音の大きさは、三倍から四倍。音の立ち上がりは極めて速く、振幅も長い。そして、軽い鍵盤。それに、短いストロークの中で音の強弱は、鍵圧そのままで響く。まさしく、理想のピアノなんだけどね。しかし、それを八十八鍵、音楽として統一させることは、人間業ではないようだ……」
小笠原氏は、自分の子供のできの悪さを嘆くように話した。
「でも、もしそれが出来たなら、このピアノは人の歌声のように、リコーダーやフォルンのように、演奏者の心のままに音が出せる……、素晴らしいわ!」
愛美は、そう言うと、もう一度ピアノに向かってから、静かに目を閉じた。
静寂と沈黙がしばらく続いてから、愛美はゆっくりと鍵盤に指を置いた。
そして、目を開けて、柔らかく柔らかくなでるような愛美の演奏が始まった。
愛美は、ピアノを弾くというよりも、ピアノの響きに体を預けるように、ただソナタの心だけを思い浮かべた。
「う―ん、いいよ。こんなに美しいソナタは始めて聴いたよ。やはり、このピアノは完成されていたのか……」
小笠原氏は呟いた。
「先生、どう言うこと?」
麗子が、不思議そうに尋ねた。
「実は、なにぶんにも、セラミックス・ピアノは世界でこれ一台しかないのだよ。だから、どこまで従来のピアノに迫れるか、そして、追い越せるかが課題だった。大部分は従来のピアノ以上の性能を発揮してくれたのだが、ただ一つ、セラミックの性質からか、柔らかな極めて弱い音が出せないと思っていたのさ。しかし、それは弾き手の方が未熟だったことが、彼女の演奏でわかったよ。僕が今日、君たちを待っていたのは、それをもう一度確かめたかったというわけだ」
「先生。そんなことないですよ。私には、先生のような切れのいい力強さが出せません」
愛美は、まだ最初聴いた彼の演奏が体の中で生きていた。
「多分それは、体格的な問題だろう。これから成長すれば、僕よりもいい音を響かせるはずだっ」
「ほんとですか?」
愛美は、そんな単純な違いで演奏が左右されるとは思えなかった。
「でも、先生は今の君の演奏が好きだな。それに、このセラミックス・ピアノは、普通のピアノに比べれば、三倍四倍の大きな音が出せるから、ちょうど君の小さな体格を補ってあまるほどの演奏になっているはずだよ」
「それでこのピアノを弾くと上手くなったような感じがするのね―」
「私、上手く弾けなかった……」
麗子が、不満そうに二人の顔を見比べていた。
「大丈夫、君も練習すれば、きっとセラミックス・ピアノを弾くコツがわかってくると思うよ」
彼は麗子にも、やさしく励ました。
「時間がかかりそうね―」
麗子は、ため息交じりで肩を落としながら呟いた。
「でも、先生。そんな難しいピアノだったら、やっぱり商品にはなりませんよ」
正美が完成されたピアノと言った言葉に不安を持った。
「そうだね。これで満足しないで、もっと誰にでも弾けるピアノを目指すよ」
正美の意見にも誠実に耳をかした。
「そうだ、君たち一年生なんだろ。オーケストラ部に入らないか。僕が顧問をしているんだけど……」
小笠原氏は、本当はそれが目的だったのかも知れないと愛実たちは思った。
「残念、私もアミも陸上部に入ることになっているんです。取りあえず体を作るように言われているから……」と、麗子が愛実より先に、愛実の分まで断ってしまった。
「そうか、残念。でも、時々でいいから、一緒に演奏したいものだね」
「先生、本当ですか? 是非、演奏させて下さい。私、まだオーケストラと協奏したことないんです」
愛実は、飛びあがって喜んだ。
「それは、ありがたい。是非一緒に演奏しよう。名前は、アミちゃんと、レイちゃんかな?」
三人は、自己紹介も済ませないうちに、すっかり打ち解けていたことに気がついた。
「私が萩尾麗子。そして、古賀愛美と委員長の中山正美です」と、麗子が紹介した。
「私が、音楽科主任の小笠原清です」
「えっ、あの有名な小笠原清……、先生!」と正美が大きな声で叫んだ。
愛美と麗子には、その名前を知らなかった。
「正美ちゃん。どういう人?」と麗子が耳打ちした。
「世界的に有名なピアニストよ。CDレコードも何枚かあるわ。私、前にプラザホールのリサイタルに行ったことがあります!」
「それは、どうもありがとう……」
「どうりで、けたはずれに上手いわけだっ!」
麗子も、愛美も小笠原氏をしらじらと見ながら、昨日の謎がようやく解けた思いだった。
「それより、愛美君にセラミックス・ピアノの鍵をあげよう。それと、体育館の鍵もだ。これで、いつでも、このピアノを弾ける」
「え―っ、ほんと。いいんですか?」
「いいとも、スペアーキーは、まだあるから。僕よりも、愛美君の方が、セラミックス・ピアノにあっているようだ。だから、また弾きに来てやってくれ。ピアノも喜ぶよ」
「はい、かならず!」
そして、午後の授業のチャイムが鳴った。
「正美ちゃん、ごめん。作曲の時間が無くなっちゃた。今度ね……」
「ううん、いいわよ。本物の小笠原清とお話ができたんだもの。来てよかったわ―」と、正美は嬉しそうだった。
そして、この日から正美は、愛美たちと友達になった。
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