第7話
最後におばあさんに会ったのはいつだったか。季節が二つは前だったと思いながら、蒼は久々に目の前の老婆と向き合った。
「お久しぶりです」
「久しぶりなもんかい、これくらい。昨日、みたいなもんだよ」
「どうして、横浜に未練が」
「え?」
「横浜に未練があるって」
おばあさんには次にいつ会えるかわからない。もう会えないかもしれない。
そう思うと、気持ちが早って、思わず長く温めていた疑問を口にしてしまった。
「ああ、その話かい・・・」
おばあさんの口が重くなる。
いつも軽快に言葉をはじき出し続ける薄く痩せた唇が、かすかにふるえているように見えた。
そういえば、いつもより少し風が強い朝だと気づく。
「男だよ、男。ほかにないだろ、私みたいな女の未練なんて」
「好きな人ですか?」
「ああ、そうだよ」
「どんな人ですか?」
「軍人」
「軍人?」
「アーミーだよ、アメリカの」
「アメリカの軍人」
「パンパンって言葉、知ってるかい?」
「いえ」
「そうかい。じゃあ、どこから話したらいいのかねえ」
おばあさんが、こちらを覗き込む。皺で囲まれた小さな黒目勝ちな目は、小動物の目のようであり、爬虫類の目のようでもあった。
深く深く想った人がいたんだなと、その目を見て理解した。
「今も待ってるんですか?」
「いいや、今はもう。私はあきらめて街を離れた。あのとき、自分の気持ちに区切りをつけたよ」
「でも・・・」
「化けて出てきてるじゃないかって?」
残酷なことを口にしようとしたことが恥ずかしかった。
何も返せない。
「そうだねえ。でも、あの頃とは違う。もう会えないってわかって、今はここに出てきてる。男じゃなくて、街が恋しいのかもねえ」
「街が恋しい?」
つらい思い出があるのに?
「戻ってはこない男を待って、待って、焦がれて、一人で焦れて、泣いたり、恨んだり、馬鹿みたいだと思ったり。ほんとは、この街を離れたくなかっただけなのかもしれないねえ」
「街に恋してたんですか?」
「恋? ふふふっ。そうかもねえ」
おばあさんがはっきりと笑った顔を初めて見た。
相好を崩したその顔は、意外にも少女のように可憐だった。
春を売っていたのにと、これまた残酷な思いが胸に沸く。
「恋してたころの自分がいじらしくて、いとしくて、取り戻したくて・・・好きな男とか、そんなもんよりもずっと、そっちに執着したのかもしれない。若くなんて、戻れないってことは百も承知なのに」
「恋してる頃の自分に引き留められたんですか?」
「そうかもしれないねえ。熱い季節だったから、よくはわからないよ。ずっとのぼせてたみたいなもんだから。そうじゃなきゃ、私たちのような女は正気じゃいられなかった。世間に弾かれ、街ゆく人に蔑まれ、時々現れる優しくしてくれる客に一夜の夢を見た。それが唯一の贅沢だったんだよ」
唯一の贅沢が叶わぬ恋なんて、そんなの哀しい。
「寂しいですね」
慰めの言葉が見つからなかった。
「そうだねえ。でも、信じて想ってる間だけはあったかいんだよ。だから、手放せなかった。だから、街に立ち続けた。後悔なんて、これっぽっちもしちゃいないさ」
おばあさんの横顔が笑う。無理のない、自然な笑いだった。
本当に後悔してないんだ、捨てた男を恨んでないんだと蒼は驚いた。
「あんたにもいるんじゃないかい。戻りたい女が」
「そんな相手は」
「もっと合う人はいた。小さな幸せを手にできそうな分相応な相手が」
おばあさんが何かを散らすように話し出す。
「もっと好きな相手もいた。でも、違う。そんなことじゃない。いつまでも想う相手は、頭にへばりついて離れない相手だよ。幸福じゃなくても、苦くても、へばりついた相手だ」
「へばりつく」
「そうだ。しつこく、しつこく、はがすことのできない相手」
「はがすことのできない相手?」
川面を揺らし、風が一陣吹いたかと思うと、おばあさんの匂いが遠ざかる。
また消えてしまう、もう会えないかもしれないと思うと、大きな声が出た。
「おばあさん!」
隣を見ると、案の定、老女は姿を消している。
「おばあさん・・・」
話を続けたかった蒼は、一人取り残され、朝の白い空を見上げた。
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