第3話

 ある朝、寝不足のためかいつもより体が重く、息が切れた蒼はベンチにぐったりと倒れ込んだ。


 海からの風は朝のほうが渇いている、気がする。


 毎日走る必要はないか、疲れたときは止めておこう、そう思ったとき、耳元で声がした。


「だらしないわね」


 蒼はぎょっとして顔をあげる。


 すぐ側に白塗りの化粧をした老女が座っていた。白粉と香水の匂いが鼻腔を突く。


 女の背中はエビのように丸まり、その背中のみならず、全身を覆っているのは薄汚れた白いワンピースだった。


「だから、日本の男はダメなのよ」


 女の声は耳のすぐ側でしているかのように、頭の中に響いた。脳に語り掛けているみたいだと思った。


「あの、おばあさんはいったい」

「あら、あんた、私が見えるのね。珍しい」


「はあ・・・」

「私、幽霊だから」


「え?」

「この世にっていうか、横浜に未練があるの。私のことを思い出してくれる人も多くて、それで呼ばれてこんな形では出てこれたんだけど、それどまりね。みんな、人のことを話題にするわりに、誰も私のこと見てくれないし」


「横浜の人なんですか?」

「私のこと知らないの?」


「ええ」

「いくつ?」


「二十六です」

「じゃあ、仕方ないか」


 おばあさんは、ふっと笑って、正面に向き直る。そんな仕草が妙に艶っぽく見えた。そして、街を愛おしそうに眺めている。


 幽霊だからという言葉の通り、おばあさんは煙が風に流れるように、ゆっくりと消えていった。


 このことが恐ろしくて、蒼は一週間、ランニングを休んだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る