第二部

1 彼は来られなくなったんだ。


 〈ヌーヴォーパラスホテル〉の前に幾台もの警察車両が停まり、ホテルの周囲は朝の爽やかな空気を引き裂いて物々しい雰囲気に包まれている。

 最初に現場へ到着したヴィクター警部はこのセンセーショナルな事件を早期解決へと導き、上層部に自身の名前を売ろうと張り切っていた。

 事件の発見者であるルームボーイからは何の収穫も得られなかったが、夕食の時間帯にこの部屋へ食事を運んだ給仕長から〈背が高く褐色の髪をした若い男〉が同席していたという事実を突き止めた。さらに数日前に同じ特徴を持つ男から花束を預かった事をフロントが記憶していた。

 「〈背が高く褐色の髪をした若い男〉か。パリに一体何人の〈背が高く褐色の髪をした若い男〉がいると思っているんだ!」

 ホテルのラウンジで聞き込みをしていたヴィクターは周囲に誰もいないことを確認すると苦々しげに呟いた。それから別の関係者から話を聴こうと顔を上げて周囲を見回す。そしてその視点をホテルの入口で留めると、唐突に大声で叫んだ。

 「いたぞ! 〈背が高く褐色の髪をした若い男〉だ!」

 警部の怒鳴り声に反応した刑事たちが一斉に振り返り、反射的に逃げ出した若い男を追いかけ始めた。ヴィクターは若者の追跡を部下たちへと任せて、男の隣に立っていた若い女性へと逃げ出さないように釘を刺した。

 「マドモアゼル、お連れ様のことで少々お話を伺えますか?」


 「どうやら、このバラトフという人物は相当な曲者だったようだ」

 被害者の遺体を前に初老の予審判事であるリスネイが〈相棒〉へと話しかける。

 「朝っぱらから良く調べて来ますね、さすが仕事と結婚した男は違いますな」

 傍らに立つナンタス主任警部は欠伸混じりに相方を茶化した。

 ナンタスは背が高くがっしりとした身体つきをしており、鮮やかな赤毛の頭髪を短く刈り込んでいる。一見強面で取っつき難そうだが、表情は温厚でいつも人懐っこい微笑みを浮かべていた。しかしその瞳を覗き込んだ者は、冷徹に正義と真実を見抜く冷たい光が宿っているのを知る羽目となるのであった。

 時刻は朝七時三十分。〈ヌーヴォーパラスホテル〉のルームボーイが遺体を発見して三十分が経過したところでリスネイとナンタスはほぼ同時に現場へと到着した。関係者への聞き込みを先に到着していたヴィクター警部へと任せたナンタスはリスネイを連れて遺体発見現場へとやって来たのであった。

 「バラトフは祖国ロシアを追われただけでなく、ポーランドやオーストリアでも現地の警察からマークされている。どうやら闇商売であくどく稼ぎ、巨万の富を手に入れているようだ。フランスへとやって来たのは、ブラックリストに載っていない国の方が商売をするのに動きやすいと考えたからだろう」

 「もしくは取引相手がフランス人だから、かも知れないですね」

 リスネイの説明から漏れている可能性をナンタスが補足した。

 「かもな。今はまだあらゆる可能性が考えられる」

 ナンタスが赤黒く染まったベッドに横たわるバラトフの死体を検分する間に、リスネイは隣室である居間の片隅に散らかった開きっぱなしのスーツケースを調べ始めた。

 「中身はグチャグチャだ! 犯人が何かを探していたのだろうな」

 「どうでしょう? 単に片付けが苦手なだけかも」

 大声で報告してくるリスネイにナンタスが軽口で返すと室内を沈黙が支配した。

 「謝ります。軽いジョークじゃないですか」

 リスネイからの無言の非難を受けて、ナンタスが謝罪する。

 「全く。主任警部となったのに全然変わらないな、おまえは」

 人生の先輩としてナンタスの言動へと苦言を呈するリスネイ。

 「まあ、どんなときも私は私らしく、ですよ」

 ナンタスはそう言いながらも反省したのか、真面目に遺体へと向き直った。

 「わお! これは随分高価なタキシードだな。こんな服を着て眠る奴がいるはずはない。やっこさん、一体どこのパーティー会場へと出かけるつもりだったのやら」

 リスネイがスーツケースの近くに落ちていた手帳を拾い上げ、五月八日の予定を読み上げる。

 「二十時G.と会食。二十二時A.L.と面会。二十四時N.D.を訪問。いやはや、何とも忙しい男じゃないか!」

 「おやおや、チョッキのボタンが一つ飛んでるな。ってことは……やっぱり! ここに隠しポケットがあった。まあ、当然の如く空っぽか。どうやら何かを盗られたようだ」

 リスネイの報告を聴きながら、ナンタスも調査を進める。

 「ふむ、確かにスーツケースの中にも金目の物はないな。バラトフのような男は大概他人を信用しない。金銭や貴重品は必ず携行しているはずだ。それが無いということは、これは物盗りの線が濃さそうだな」

 片膝をつきながらスーツケースを調べていたリスネイはそう結論付けながら立ち上がる。

 「そうやって結論を急ぐのがあなたの悪い癖ですよ、予審判事」

 ナンタスはリスネイを窘めると、ベッドから離れて居間へと移った。そして唐突に床へと這いつくばると何かを探し始めた。

 リスネイはその行動に呆れながらも黙って見守っていた。いつもこの独特なやり方でナンタスは結果を残して来たからだ。

 「ほらあった!」

 顔を上げたナンタスは椅子の足元から拾い上げた、チョッキのボタンを掲げている。

 「この部屋で揉め事が起こって、ボタンが飛ぶような激しい争いがあった……まてよ、おかしいな。この部屋には流血の跡がない」

 ナンタスが再び寝室へと戻って行き、ベッドの端から遺体の上へと身を乗り出した。

 「死因は至近距離から胸を撃ち抜かれた事による乏血性ショックかと推測される。銃撃されてそのままベッドへと倒れ込んだのだと考えるのならば、被害者が立っていたのはこの辺りだな」

 ナンタスはリスネイを手招きすると、ベッドの前へと彼を立たせた。それから彼の前へと回り込み、指を拳銃の形にしてリスネイの胸へと突きつける。

 「ホテル内の誰もが銃声を耳にしていないということは、何らかの消音装置を使ったに違いない。そしてここでバーン!か……倒れないのですか?」

 ナンタスはまるでそれが当たり前の行動であるかのように、リスネイへと促す。

 「何が悲しくて血塗れのベッドへと倒れ込まなきゃいけないのかね」

 「まあ確かに。事件の解決には何の役にも立たないのは間違いないですね」

 「あのなぁ……」

 リスネイが怒りかかったのをナンタスが遮る。

 「おかしいとは思いませんか?」

 「何がだ?」

 意表を突かれたリスネイは怒りの矛先を失って反射的に問い返した。

 「犯人は拳銃を持っていた。だったらボタンは飛ぶはずがないんだ。居間での出来事と寝室での事件が同一の時間内で起きたとは考えられない……」

 ナンタスがそう呟いた時、ヴィクター警部が逃走した容疑者の同行者である女性を確保した、との報告が上がってきたのであった。


 (いつからこんなに波乱な人生を送る羽目になったのかしら?)

 取調室と化したホテルの一室へと閉じ込められたネリーローズが溜息を吐いた。

 「さあさあ、デストールさん。お話を聴かせていただきたいだけですから、そんなに緊張なさらずに」

 部屋にはヴィクター警部の上司であるナンタス主任警部と、裁判所から派遣されたリスネイ予審判事の二人がいた。通常取り調べは予審判事が主導するのだが、リスネイは長い付き合いでナンタスの有能さを知っていたので、基本的には彼に任せることにしていた。

 「一体何があったのですか? 私たちはこのホテルに宿泊している知り合いへと会いに来ただけですのに」

 緊張の余りに乾いた喉のまま発声したネリーローズの声は嗄れていた。

 「その知り合いとは、もしかしてロシア人の方ですか?」

 主任警部は情報を与え過ぎない程度に開示しながら、逆に情報を引き出そうとする。

 一方でリスネイはテーブルに置かれたポットからコップへと水を注いでネリーローズへと勧めた。

 渡されたコップから水を二口飲んで喉を潤すと、ネリーローズは言葉を続けた。

 「ええ、イワン=バラトフという男性です」

 「そうですか……ショックを受けないでいただきたいのですが、バラトフ氏は今朝亡くなりました」

 ナンタスの言葉を受けて、ネリーローズは返す言葉を失った。

 「亡くなった? バラトフさんが……」

 それだけ呟くと物思いに沈んで黙り込む。

 「あなたとバラトフ氏はどのような御関係でしたか?」

 ナンタスの質問はネリーローズの耳の中を右から左へと受け流され言葉が意味を為さなかったが、二度目に同じ質問をされた際に、ハッとなって現実へと戻って来た。

 「バラトフさんは……その私たちの慈善事業を支援して下さった方です」

 「大変お辛いとは思いますが、御本人かどうか確認していただく為に立ち会っていただけますか?」

 「えっ、私がですか?」

 「勿論です。どうやらあなた方以外にバラトフ氏のお知り合いはパリにはいらっしゃらないようですので」

 「でも……会ったことがないんです」

 ネリーローズが正直に告白した。

 「はい?」

 「私は今日初めてバラトフさんにお会いする予定でした」

 「なるほど。するとお連れの男性、名前は何て言ったかな……」

 「ジェラールです」

 ネリーローズから男の名前を訊き出したナンタスがリスネイと目配せした。

 「そうそう、ジェラールさんはバラトフ氏を御存知なんですね?」

 「はい。仕事仲間だと言っていました」

 その時、部屋のドアが叩かれヴィクター警部が入って来ると、ナンタス主任警部へと耳打ちをしてから出て行った。

 「ジェラールさんの行き先に心当たりはありますか?」

 ナンタスのその質問から、彼が逃げ延びたことを悟ってネリーローズはほっと胸を撫で下ろした。

 「状況は宜しくないですよ、デストールさん。罪が無いのならばあなたのように任意で同行すべきです」

 「ああ、私は任意で取り調べられているのですね! 全く気が付かなかったわ!」

 ネリーローズが皮肉をたっぷり込めて言い返した。

 その姿を見ながらナンタスが笑みを浮かべる。

 「その意気ですよ。あなたが犯罪に関わりがないのならば普段通りの姿で応対して下さった方が話を進め易いですからね」

 「犯罪? 病死や事故死ではないということですか?」

 ネリーローズが純粋な驚きを示す。

 「ええ。彼は殺されました」

 「なんてこと……」

 身近な人間を襲った予想外の不幸にネリーローズは衝撃を隠せなかった。殺人事件なんて映画や小説の中での話だと思っていたからだ。

 「そんな訳で、昨夜からのあなたと、御存知でしたらジェラールさんの行動を教えていただきたいのですが」

 ナンタスの質問に隠された意味を深読みし、ネリーローズは羞恥で顔を真っ赤に染めた。

 「勿論、話せる範囲で構いませんよ」

 リスネイが助け船を出すように優しく言い添える。

 「どこから話したらいいものか……」

 ネリーローズはここ一月の間に自身の身の回りに起きた出来事を、他人に分かりやすく説明できる自信が無かった。

 「初めからでいいですよ。今日はまだ始まったばかり、時間はたっぷりありますから」

 ナンタスがリスネイへとルームサービスを頼むように依頼する。

 「知ってました? ここのホテルのガレットは絶品なんですよ。以前家内と二人で来ましてね……」


◇  ◇  ◇


 真夜中の訪問者の為に、恐る恐る鍵を外してドアを開けるネリーローズ。

 するとそこに立っていたのは……ジェラールであった。

 「ジェラール! なぜあなたが?」

 「君にダンスの誘いを拒否されたからね。もう一度誘いに来たんだ」

 ジェラールは室内を覗き込むと、花瓶に活けてあるリラの花へと目を留めた。

 「やあ、綺麗な花だね」

 「……やっぱりあなただったのね」

 ネリーローズが怒りに肩を震わせながら問い詰めた。

 「何の事かな?」

 「私がこの花を持ってたのを知っているのは、あなたかあのタクシーの運転手だけよ! 私のいない間にこの部屋へと入ったのね!」

 怒ったネリーローズがジェラールの胸元を突き飛ばす。

 しかしジェラールはビクともせずに、悪びれることなく言い訳をした。

 「忘れ物をお届けしただけさ」

 「帰って頂戴。私は人と待ち合わせしてるのよ」

 ネリーローズがドアノブに手を掛けながら、ジェラールを部屋から締め出そうとした。

 「待ち合わせの相手って、バラトフかい? だったら彼は来られなくなったんだ。その代わりに僕と一晩付き合って貰おうか」


   ◇  ◇  ◇


 「彼は来られなくなった、確かにそう言ったんですね?」

 それまで黙ってネリーローズの話に耳を傾けていたナンタス主任警部が、ここが重要だと言わんばかりに確認した。

 「はい。でもその理由は後で判ったのです。でもその時はジェラールが面白がって虚実織り交ぜるものですから、正直私は不安だし、不快でした。バラトフさんが来ないのならばこのまま帰ってもらって、朝にはバラトフさんへ五百万フランを返しに行くつもりだったのです」

 「でも気が変わった?」

 「なぜでしょう? 自分でも良く解かりません。ジェラールは強引ではありましたが、最後のところで私の意志を尊重してくれると信じられたからでしょう」


   ◇  ◇  ◇


 「実は今、オートゥイユ通りにあるペンションでロシア人たちがささやかなパーティーを開いているんだ。そこのペンションのオーナーが僕の友達で、パリにいるなら是非来てくれと誘われてね。一緒に行こうじゃないか!」

 ジェラールは爽やかな笑顔を浮かべながら誘いかけた。

 「パーティー? こんな真夜中に? なぜあなたを信用してロシア人のペンションまで行かなくてはならないのかしら。それよりも、ここで『おやすみ』と別れの挨拶をして、暖かい毛布に包まって眠る方が名案だと思うけど」

 「五月に暖かい毛布だって? 君こそどうかしてるよ。新緑の空気に満ちた風を感じながらドライブをして、人生の様に一寸先も見通せない夜の闇の中へと足を踏み出しながら、近くて遠い国ロシアの異文化を全身で堪能する。こんな刺激的で安全なツアーを提案しているのに、ただ毛布に包まって想像の域を出ない夢の中へと逃げ込むなんて、君らしくもないなぁ!」

 「あなたが私の何を知っているのか知らないけれど、私らしいかどうか決めるのは私自身よ。あなたに指図されたくないわ!」

 あくまでも頑ななネリーローズの態度を見て、ジェラールは呆れた様に首を振った。

 「ではご自由に。バラトフは明日ポーランドへ帰るだろうから、もし彼に会いたいのならば明日の朝迎えに来るよ」

 そう言いながら背を向けかけたジェラールを、ネリーローズの一言が引き留める。

 「あら、私が決めるとは言ったけど、出掛けないとは言ってないわ」


   ◇  ◇  ◇


 「ではあなたはそのまま朝までジェラールさんと御一緒だったわけですね?」

 ナンタス主任警部は失礼にならないように言葉を選びながら問いかけた。

 その言葉が直接意味することを感じ取ってネリーローズは再び顔を赤らめたが、あえて反論しようとはしなかった。

 「なるほど。参考までにお尋ねしたいのですが、パーティーの合間にジェラールさんがあなたから離れた時間はどれくらいありましたか?」

 「数分くらいは離れたことはあったでしょうが、彼はいつも私の傍にいました」

 「なるほど。すると真夜中以降のジェラールさんの足取りはあなたが保証されるわけだ」

 再び部屋のドアが叩かれ、ヴィクター警部が入って来て主任警部へと耳打ちをした。

 ナンタスはネリーローズへと顔を向け、立ち上がると頭を下げた。

 「容疑者が捕まりました。お時間を取らせてしまったことをお詫び申し上げます」

 「容疑者? まさか彼が……」

 動揺するネリーローズへとナンタスが温かい笑みを浮かべながら答える。

 「いえいえ。捕まったのは夜勤勤務をしていたフロアボーイですよ。我々もあなたから話を聴いているだけではなくて、ちゃんと関係者を尾行していたんです。その男は勤務帰りにアブキール通りの宝石商へ立ち寄って、ロシア製の宝石を売り払ったんです。今警察署へ移送されている途中ですから、我々もそちらへ向かうことにします。興味深いお話を聴かせていただき有難うございました」

 「そう、良かった……」

 ネリーローズは安堵すると同時に言葉にできない不安に包まれていた。

 (だったら、なぜ彼は警察から逃げたのかしら?)

 「ああ、そうそう。最後に一つだけ宜しいですか? 先程お話の途中でジェラールさんがおっしゃっていた、バラトフ氏が来られなくなった理由というのを教えていただきたいのですが」

 リスネイに続いて部屋から出て行こうとしていたナンタスが人差し指を立てながら振り返り、ついでの用事を思い出したかのように問いかけた。

 「えっ? ああ、なんでも凄く大事な物を失くされたそうで。それを探すのに忙しくて小娘の相手などしていられなかったようです」

 ジェラールからその言葉を聞いたときの感情が蘇ったネリーローズは、ほっとしたような表情を浮かべながら答えた。



2 彼に恋するのはおやめなさい。


 ネリーローズがホテルから出ると、建物の前に停まっている高級車の横にフィルマンが立っていた。

 「あなたは……」

 「御自宅までお送りいたします」

 フィルマンは御辞儀をしてから後部座席のドアを開き、ネリーローズを招き入れる。

 ネリーローズは車内に見知った顔を認め、後部座席へと乗り込んだ。

 「遅くなって申し訳ありません、マドモアゼル」

 後部座席にゆったりと座っているヴァルネーが軽く会釈をした。

 「あなたのせいではありませんわ、ヴァルネーさん」

 車はトロカデロ広場のアパルトマンへと向かって走り出す。

 「確かに。あなたを置いて逃げるなんて本当に酷い男だな、彼は」

 ヴァルネーがここぞとばかりにジェラールを批判した。

 「仕方ありませんわ。あの時警察が探していたのは彼でしたから。まさか私まで事情聴取されるとは思わなかったのでしょう」

 「おやおや。夜が明けたら彼に対する姿勢が変わりましたね、ネリーローズ。もしかして昨晩何かありましたか?」

 探りを入れるヴァルネーに対してネリーローズは毅然とした態度で返答した。

 「何もやましいことはありません。彼はあなたと同じように紳士でしたわ」

 「私と同じような紳士とは……ちょっと心配ですね」

 ヴァルネーが冗談めかしながら笑う。それから真剣な表情へと戻ってこう告げた。

 「では手遅れになる前にこれだけは忠告いたします。彼に恋するのはおやめなさい。私は彼と関係を持った女性たちを一ダースは連れてくることができます。彼はドンファン。一つの土地、一人の女性で満足できる男ではないのです。あなたを幸せにすることは出来ません」


 自宅のあるアパルトマンの前でヴァルネーと別れたネリーローズであったが、さすがにどんな顔をして母親に会えばいいのか、見当もつかなかった。

 とはいえ、このままここで悩み続けていても時間が過ぎるだけで状況は何も変わらないのは判り切っている。そんな訳で彼女は普段通りに家へと入って行くことにした。

 「ただいま」

 自宅のサロンへ入ると、そこにはデストール夫人とアーサーだけでなく、ヴィクトリーヌとドミニックも失踪したネリーローズを心配して集まっていた。

 「ネリーローズ! 一体今まで何処にいたの?」

 デストール夫人が怒りと安堵の入り混じった複雑な表情を浮かべながら娘の元へと駆け寄って行き。そのまま胸の中へと抱き締めた。

 「あなたが無事で良かった。ヴァルネーさんの別荘からいなくなって本当にビックリしたのですよ! ヴァルネーさんが捜しに行って下さって、私たちには家で待つようにと。ああ、彼にはもう会ったのかしら?」

 「ええ、ホテルの前まで迎えに来てくれたわ」

 ネリーローズは事実をそのまま述べただけだったが、デストール夫人はその言葉に衝撃を受けて、クラクラッと近くの椅子へと倒れ込んだ。慌ててアーサーが駆け寄る。

 「なんてこと! なんてことなの! あなた、自分が何をしたのか解かっているわよね?」

 「悪いけどママが思っているようなことは何も無かったわよ。少なくともバラトフさんとは。ああ、ドミニックとヴィクトリーヌ、二人とも心配してくれて有難う。私はもう大丈夫。五百万フランを御遺族にお返しすれば、この件はスッパリと終わりになるわ」

 元メイドと元コックの夫婦へと頭を下げるネリーローズ。

 「御遺族? 誰か亡くなったの……まさか、あなたが!」

 独り合点したデストール夫人が興奮の余りに立ち上がった。

 「冗談はやめてよ、ママ。そもそも私はバラトフさんには会っていないわ」

 「じゃあ、あなた昨晩は何処にいたの? 一体誰と会っていたのよ」

 「それは……」

 ネリーローズが返答に躊躇する。まさにその時、ドアの呼び鈴が鳴り響いた。


 「いやぁ、すみませんね。ご自宅まで押しかけてしまって」

 ナンタス主任警部がリスネイ予審判事と並んでサロンの椅子へと腰を下ろした。

 テーブルを挟んでその対面にはネリーローズとデストール夫人が座っている。アーサーたちはナンタスからやんわりと同席を拒否された為、それぞれの仕事場へと帰って行った。

 「構いません。犯人は自白しましたか?」

 ネリーローズが好奇心に瞳を輝かせているのとは対照的に、夫人は心配げに娘と警部とを見比べていた。

 「あの、どういうことでしょう? 娘が何か……」

 「ママは黙ってて」

 ネリーローズが母親を制すると、ナンタスが夫人へと向き直って言葉を続けた。

 「ネリーローズさんには事件解決の為に御協力いただいておりまして。そんなにお時間は掛かりません。二、三確認させていただくだけですから」

 ナンタスのこの言葉に、今度はネリーローズが反応した。

 「私に? ということはフロアボーイが犯人ではなかったということですか!」

 「ええ。窃盗罪は認めたのですが、殺人罪は否認しておりましてね。そこでジェラールさんにもお話を伺おうと思いまして。彼の居場所を御存知ですか?」

 「ジェラール? ジェラールって誰よ?」

 夫人が自分の知らない娘の交友関係に驚きの声を上げた。

 「ママも多分会ってるわよ、先日のパーティーで」

 過保護な母親に嘆息しながらネリーローズが答える。

 「ジェラール……そんな人いたかしら?」

 「ほら、お母様もお会いしたがっているようですし、私がお連れしますから居場所を教えて下さいませんか?」

 「まあ、警部さんズルいのね! 私がそんな甘言に乗るような間抜けな女に見えまして?」

 ネリーローズが笑いながらナンタスを窘める。

 「言ってみただけですよ。言うのはタダですからね。ここへ来る前にオートゥイユ通りにあるロシア人が経営するペンションを訪れた刑事から〈背が高く褐色の髪をした若い男〉はいなかった、という報告を受けておりまして途方に暮れているところなんです」

 「別に彼を庇っているわけではありません。本当にどこにいるのか知らないのです」

 それまで冗談めかしながら会話をしていたナンタスが、真実を見抜くような鋭い視線でネリーローズを睨め付ける。ネリーローズは初めてこの警部を怖いと感じ、息を呑んだ。

 「娘を疑っているんですか!」

 我が子が警察に追い込まれているのを感じ取って、デストール夫人が抗議の声を上げた。

 「いえいえ、とんでもない!」

 再び柔和な表情を浮かべながらナンタスが否定する。

 「藪睨み、っていうんですか? 目付きが悪いのが私の最大の欠点でして。もっとも、家内に言わせればこんなのはささやかな欠点で、もっと数えきれないほどの欠点があると良く言われまして……」

 「娘は知らないと言っているんです! 帰っていただけますか!」

 夫人の怒りは収まらず、リスネイ予審判事に促されたナンタスは渋々と腰を上げた。

 「何か思い出したら連絡下さい」

 そう言いながら手帳へ電話番号を走り書きして、ビリッと破り取るとネリーローズへと手渡した。

 「お邪魔しました」

 二人が出て行くと、デストール夫人が娘を正面に見据えながら訴えかけた。

 「ああ、ネリーローズ! 昨夜は一体何があったの? 後生だから教えて頂戴」

 母親の懇願を受けて口を開きかけたネリーローズであったが、様々な感情が涙となって溢れ出て、言葉を続けられなかった。

 「ああ、なんてこと! そういうことなのね!」

 独り合点した夫人がよろよろと近くの椅子へと倒れ込む。

 「……ごめんなさい、ママ。まだ私も気持ちの整理ができていないの。もう少し待って。必ず本当の事を打ち明けるから」


 「なあ、どう思う?」

 トロカデロ広場から車を走り出させるとリスネイ予審判事が問いかけた。

 「綺麗な娘さんですね。それに頭も良い。私が独身の頃に会いたかったなぁ、って思いますよ」

 助手席から外の景色を眺めながらナンタスが答える。

 「全く! おまえさんが結婚しているとは私は知らなかったがね」

 冗談ではぐらかす〈相棒〉をリスネイが叱責した。

 「おやおや。あなたが仲人をしてくれたと思っていましたが、あれは夢だったかな?」

 「私の前で妄想話はよしてくれ。それより、あの娘さんは恋人を庇っているのかね?」

 冗談の通じない相棒に対してナンタスは嘆息しながら返答した。

 「どうでしょうかね。まずジェラールっていう男を恋人だと自覚してないように思います。まあ悪く思っていないのは確実ですが。それでも、正義感が強そうですから例え恋人だったとしても犯罪者を庇うような性格とは見受けられませんね」

 「では殺人事件の方は振り出しへと戻ったか……」

 「いいえ。G.とN.Dの両方が行き詰っても、まだA.Lが残っていますよ」


 「……そんな訳で〈ヌーヴォーパラスホテル〉に昨夜宿泊したイニシャルがA.Lの方をあたっていましてね。その中の一人としてあなたへお話を伺わせていただきに参りました」

 ホテルへと戻ったナンタス主任警部はリスネイ予審判事を連れて客室を訪れ、ロシア人宿泊客と対面しながら話を進めていた。

 「お名前を確認させて下さい。アレクサンドル=ルキヤノフさんですね?」

 ルキヤノフは全てを理解しているかのように、大仰な態度でナンタスの言葉を遮った。

 「おそらく私がロシア人だから最初に尋問しようと思ったのでしょうが、正解ですな。私は亡くなったバラトフ氏と面識があります。昨夜も彼の元を訪れているのですが、あらぬ疑いを掛けられて足止めされるのが嫌だったので黙っていたのですよ」

 「ほう! 昨夜は何時頃バラトフ氏にお会いになられましたか?」

 「会った、とは一言も言っていません。なぜなら彼はすでに亡くなっていたからです」

 無念そうな表情を浮かべながらルキヤノフが答えた。

 「なるほど……それは何時頃のお話ですか?」

 「約束した時間通りの二十二時です」

 「しかし、その時間にあなたがバラトフ氏の客室があるフロアを訪れているのをフロアボーイは目撃していないのですがね」

 それまで黙って聞いていたリスネイが疑問を呈した。

 「さあ? それは私の知った事じゃない。そのフロアボーイが仕事をしてなかったのではないのかな?」

 逮捕されたフロアボーイであるマニュエルの窃盗癖まで打ち明ける必要はないと判断したナンタスたちは、その事に関してはこれ以上触れないことにした。

 「ところでルキヤノフさん。あなたはどんな御用事でパリまで?」

 ナンタスが矛先を変えるかのように切り出した。

 「ビジネスですよ、主にバラトフ氏との。おかげで取引は無くなり、私はパリを観光してロシアへ帰るだけになってしまいましたがね」

 「それはお気の毒に。しかし、殺人現場を目撃したのに通報しないとはいささか感心致しかねますね」

 ナンタスのその一言に、突然ルキヤノフが激高した。

 「これだからフランス人は! ロシアでは疑われただけで逮捕勾留されるのだ! そんな危険を冒してまでフランスの警察に協力する義理はない!」

 「しかし知人がお亡くなりになったのですよ? 一刻も早く犯人を捕まえたいとは思わないのですか?」

 リスネイが宥めるように執り成した。

 「バラトフ氏は単なるビジネスパートナーだ。そこまでの思い入れはない。それに犯人は明白ではないか!」

 「はい?」

 ナンタスが興味深げに問い返した。

 「バラトフ氏子飼いのジェラールさ! 優秀なパリ市警ならば一両日中に奴を捕まえると信じているよ!」


 「助かったよ、イエゴール」

 オートゥイユ通りにあるペンションへと戻って来たジェラールがオーナーへ礼を述べた

 「礼など要らないといったはずだ。あんたがいなければ今頃はシベリア送りか、母なる大地の下で眠りについていただろうからな」

 イエゴールは友人からの感謝の言葉をくすぐったそうに拒否した。

 「イブラチエフは疑われなかったかい?」

 「どうして疑われるものかね? 警察が捜していたのは〈背が高く褐色の髪をした若い男〉さ。まさかロシア人のタクシー運転手と入れ替わっているなんて想像もつかなかっただろうよ」

 ロシア人のペンションは真ん中に広い中庭を挟んだ二つの建物からなる大きな家屋だった。パリ市内で警察からの逃走劇を演じたジェラールはイエゴールに頼んで匿ってもらっていたのであった。そして追っ手がペンションまで辿り着いたことを知ると、オーナーから紹介された初老の運転手と入れ替わり、付近でタクシーを乗り回していたのだ。

 「それよりも、まずいことになっているぞ」

 イエゴールが号外新聞を投げて寄越した。

 受け取ったジェラールは一面記事を見て、驚きの声を上げる。

 「なんだって! バラトフが!」

 「やはり知らなかったか。だったらあんたは何故警察から逃げているんだ?」

 「それは……」

 返答に躊躇するジェラールの姿を見て、イエゴールが手を振りながら言葉を遮った。

 「いや、言わなくていい。あんたが人殺しをするような人間でないことは解かっているつもりだ。あのバラトフのことだ、今までの悪事の報いがあったんだろうよ。もしパリで他に頼るところがないのなら、いつまででもここにいればいい」

 「有り難う、イエゴール」

 友人に謝意を述べながらも、ジェラールの心を占めていたのは置いてきぼりにしてしまったネリーローズのことであった。


 「ではジェラールの逮捕状を発付するということでいいかな?」

 リスネイ予審判事はルキヤノフの部屋から出るなり、そう結論付けた。

 それを聴いたナンタス主任警部が目を丸くする。

 「いやはや! あなたは私と同じ物を見て同じ言葉を聴いていると思っていたのに、一人で新事実を掴んでいたんですね!」

 「皮肉はやめてくれよ。的外れだとでも言いたいのかい?」

 「まだ的外れかは解かりませんがね。少なくともマニュエル、ルキヤノフ、ジェラール、この三人には均等にバラトフを殺害する機会があったわけですから……」

 ナンタスは廊下の向こうから近づいてくるヴィクター警部の姿を目にして言葉を止めた。

 「主任! 犯行に使われたと思われる拳銃を発見しました!」

 ヴィクターによれば、消音器付きの拳銃は遺体のあったベッドの下に転がっていたのだった。遺体を運び出した後の現場検証で初めて発見されたのも無理からぬことであった。

 「至急、指紋の照合を。マニュエルとルキヤノフの指紋は署とホテルにいる刑事に採取させろ。ジェラールの指紋はデストール嬢から何かを借りて来い!」

 ナンタスの指示を受けた部下たちが粛々と仕事を進めた結果、拳銃からは一人の男の指紋が検出された。

 「やはりジェラールが犯人だということだな」

 リスネイが自信を持って断定する。

 「まあ、そう取れますね」

 それに対してナンタスは気乗りしない様子で答えた。

 「なんだい? どうしてもジェラールって男の肩を持ちたいようだな。実は知り合いなのか?」

 リスネイが不満げに疑問を呈した。

 「いいえ。でもデストール嬢が彼に抱いている印象と殺人事件とが余りにも合致しないのですよ」

 「しかし、事実あの男は警察から逃げ回っている」

 「確かにね。彼に不利な状況ではあるけれど……。ねえ、予審判事?」

 「ん?」

 「あなたがもし殺人現場に遭遇して、これに巻き込まれたくなければどうします?」

 「そりゃあ逃げるだろうよ……ああ、だからジェラールが逃げ出したと言いたい訳だな?」

 ナンタスはそれには答えず、ヴィクター警部を呼び寄せると新たな指示を与えた。



3 そして今夜のお別れに。


 二人を乗せたタクシーはセーヌ川から程遠くないオートゥイユ通りの陸橋の傍にあるペンションの前へと停まった。

 ホールの入り口から入って行くとパーティーはすでに最高潮に達していた。

 紙の花飾りや色を変えながら光を発している電球など急ごしらえの飾り付けだったが、ひしめき合う人々にはそんな物は全く関係ない様子であった。ほとんどの人々がスラブ系で社会階層的にはあまり高くないだろうと思われる。参加者たちは騒々しい集団と化し、喜びの中にもいささか乱暴で下品なだらしのない雰囲気が漂っていた。

 そんな集団を掻き分けながらジェラールは彼女を先導していたが、途中でちょっかいを出して来る酔っ払いに遭遇すると、ネリーローズに有無を言わせぬまま、その手を引いて騒ぎから少し離れた片隅のテーブルへと連れて行った。

 「シャンパンを二つ!」

 給仕へと声を掛けたジェラールは、そこで初めて目の前の女性が顔を赤らめながら怒っていることに気が付いた。

 「どうかしたのかい……ああ、断りもせずに手を握ったことを怒っているんだね! こいつは大変な失礼をやらかしたぞ。お詫びに一曲踊りましょうか?」

 おどけながら誘いかけるジェラールの姿を見て、ネリーローズは怒りを通り越して呆れ気味に溜息を吐いた。

 「あなたっていつもそうなの? 冗談ばっかり。私が本気で怒っているのに謝る気もないのね」

 「君が本気で怒っているのなら僕だって本気で謝るさ。約束するよ。でも今は本気で怒っているわけではないだろ? 胸に手を当てて訊いてみるといい」

 「本気かどうかなんて自分自身で判るわよ!」

 ジェラールはネリーローズの怒りを受け流す。

 「いいから、ほら。胸に手を当てて」

 ネリーローズは渋々と従った。

 「目を閉じて。大きく息を吸うんだ。それから、僕に手を引かれてどう思ったか、正直に言ってごらん」

 「頼もしかった……」

 そう言い掛けてハッとなったネリーローズが抗議する。

 「ずるいわ! 誘導尋問よ!」

 「ハハハッ! まあ僕に下心があって君の手を握った訳ではなかったからね。もしそんな不埒な気持ちがあったならば君だってすぐに判ったはずさ」

 そう答えながら運ばれてきたシャンパンのグラスを二つ手に取り、テーブルへと置いた。

 「乾杯しよう。僕らの出逢いに」

 ジェラールがグラスを掲げる。一瞬躊躇したネリーローズだったが、すぐにニコッと微笑みながらグラスを合わせた。

 「そして今夜のお別れに」

 二人はグイッとシャンパンを呷った。

 「踊ろう! せっかくのパーティーなんだ。テーブルを挟んで語り合うよりも、踊りながら話す方が楽しいと思わないかい?」

 立ち上がったジェラールが手を差し伸べながら誘い掛ける。

 「私はそんなに活動的な人間ではないわ。パーティーに参加しても隅っこで知り合いと話しているのが好きな女なの」

 ジェラールの差し出された手を無視しながらネリーローズが答える。すると、ジェラールは何事も無かったかのように椅子へと腰掛けた。

 「実は僕もそうなんだ。奇遇だね」

 「嘘吐き」

 怒ったような表情を浮かべるネリーローズだったが、我慢し切れなくなって吹き出した。彼女の笑い顔を見てジェラールも自然と顔が綻んでいた。

 (なんて優しい笑い顔をする人なんだろう)

 それはネリーローズが初めて彼への好意を自覚した瞬間であった。


◇  ◇  ◇


 目が覚めたとき、ネリーローズはまだ夢の世界に取り残されていた。

 (なぜあの時の出来事を夢に見たのかしら?)

 その後、ジェラールは自身の冒険を面白おかしく語って聴かせた。

 それはまさにネリーローズの為だけの千夜一夜物語であった。

 彼の声の優しい抑揚と丁重な態度、熱を籠めた説得力のある話し方、危険極まりない現実離れした冒険の数々。そして、パーティー会場に溢れる騒音と異国の人々の熱気。

 それらの全てが融合し、いつの間にかネリーローズは普段の生活から解き放たれ、まるで違う世界へ訪れたような不思議な感覚に囚われ始めていた。

 だから彼女はジェラールの誘いを断ることもできずに……。

 顔を真っ赤に染めたネリーローズは回想を閉ざした。

 (そう、夢。あれは夢だったのよ。もう私は彼を想い出すこともないわ)

 目を覚ますかのように首を振ったネリーローズは、出社へ向けて身繕いをする為にベッドから起き上がって着替え始めた。


 ペンションから出た所で、ジェラールは見知った顔の男が自分へ向けて手を振っているのに気が付いた。

 「トロカデロ広場へ行くんだろ? 乗って行かないか」

 ヴァルネーが近くに停まっている高級車を示しながら呼び掛けた。

 ジェラールは一瞬躊躇したが、意を決したように彼の車へと向かって行く。

 二人が後部座席へと乗り込むと、運転手のフィルマンが車を発進させた。

 「わざわざお迎えに来て下さったんですか?」 

 ジェラールが皮肉っぽく礼を述べると、ヴァルネーは面白そうに笑った。

 「そうさ! どうしても君に会いたくなってね。まずはおめでとう! バラトフの魔の手から乙女を救い出したことを称賛するよ」

 まばらに拍手をしてからヴァルネーが握手を求めて手を差し出した。

 「有り難うございます」

 ジェラールがその手を握り返すと、ヴァルネーは思いっきり力を籠めた。反射的にジェラールも強く握り返す。そのまま睨み合う二人。

 不意にヴァルネーが力を抜いて笑みを浮かべた。

 「まあ、昨夜彼女と何があったかはあえて聞くまい。君が私の物を返したら、このままフィルマンにポーランドに住むイリーナ嬢の所まで送らせよう。それともヴァリーヌ伯爵夫人の方が良かったかな? 娘さんのスターシャ嬢も十年後にはデストール嬢のような美人となるに違いないよ」

 ヴァルネーの言葉を聴いて、初めてジェラールが顔を真っ赤に染めて感情を露わにした。

 「良く調べましたね! まさかネリーローズにこのことを?」

 「勿論伝えたさ。それが公平という奴だろう?」

 ジェラールは怒りに任せてヴァルネーの胸倉を掴み上げる。

 不意に車が停まり、ジェラールは背後から運転手に銃を向けられているのを察知した。

 「大丈夫だよ、フィルマン。心配は要らない」

 ヴァルネーの呼び掛けを受けて、運転手が銃を下ろして再び車を走らせる。

 「ねえ君。真実を隠して愛を得たところで、そんな物は長続きしないんだよ。なぜなら砂上の楼閣と同じだからさ。脆い土台の上にどんなに立派な建物を建てたとしても、それは崩れる運命なんだ。残念ながら君は彼女には不相応だよ。後は私に任せて、パリの出来事は想い出の一ページとして胸にしまっておくがいい」

 ヴァルネーの口調は柔らかではあったが、有無を言わせぬ雰囲気があった。

 「断る」

 彼の襟首から手を離したジェラールは力強く反発した。

 「バラトフに言われたんだ。僕は『恋はしても人を愛することを知らない』と。でも彼女に逢って、その魂に触れて、初めて感じたんだ。こんな気持ちを……」

 「ブラボー! では私と勝負をしようか、青年。そうだな……バラトフに敬意を表して、私が朝七時に彼女を迎えに行こう。その前の真夜中から七時までの間に彼女の心を動かして部屋から連れ出せたら君の勝ちだ。勿論、私はあらゆる手段を使って彼女を引き留める策を弄するが悪くは思わんでくれよ」

 ヴァルネーの提案はジェラールの怒りに火を注いだ。

 「勝負だなんて! 決めるのは彼女自身でしょう?」

 「青臭いことを言いなさんな、青年。彼女だって立派な大人だ。好きか嫌いかだけで交際相手は選ぶものではないと知っているよ。結局のところ、自分自身や今の家族、未来の子供たちが幸せになれるかどうかが最も重要な選択の要素なのだから」

 「つまり、あなたなら彼女を幸せに出来ると?」

 「勿論だ」

 ジェラールの質問に対してヴァルネーは即答した。

 「……解かりました。今夜零時に彼女の部屋を訪問します」


 「何がそんなに問題なんだね?」

 現場百遍の言葉の如く、ナンタス主任警部は〈ヌーヴォーパラスホテル〉の事件現場を訪れていた。彼に呼び出されたリスネイ予審判事が愚痴を洩らす。

 「犯行に使われた凶器から容疑者の指紋が出ている。被害者が最後に会ったのが容疑者である可能性が高い。こんなに明白な事件はないじゃないか! 早く犯人を逮捕して、私も君も新しい事件に取り掛かるべきだよ」

 「御存知かと思いますが……」

 室内のテーブルに広げた紙へと書き込みをしていたナンタスが、顔も上げずにリスネイへと呼び掛ける。

 「私は人に踊らされるのは大嫌いでして。こんな単純な仕掛けも見抜けない阿呆だと舐められるのは、あなたに接吻されるのに等しい屈辱だ」

 「誰がおまえに接吻などするものかね!……えっ? 仕掛けだって?」

 驚いた表情を浮かべるリスネイにナンタスが新事実を報告する。

 「現場に指紋の付いた拳銃を捨てて行く犯人などいるわけがありません。ですから鑑識で撃鉄に付いた指紋だけを再度調べてもらったんですよ。そうしたら案の定、そこには指紋がありませんでした」

 「そりゃあ、手袋をしていたんだろうさ……なるほど、言われてみれば確かにおかしい」

 納得したリスネイがナンタスの手元を覗き込む。

 「タイムテーブルかね? 何々……」

 「被害者は二十時にこの部屋でジェラールと会って食事を共にしています。ドアマンによれば彼がホテルから出て行ったのは二十一時半過ぎ。そして二十二時にはルキヤノフがバラトフの遺体を発見。ただしこれは彼の供述のみで目撃者はいません。マニュエルが同僚の目を盗み窃盗を働いたのが零時過ぎ。勿論、これも本人の自白のみが証拠です」

 リスネイの為にナンタスが簡潔に解説する。

 「そしてフロアボーイは寝室のドアが閉まっていて、殺人にすら気がついていなかった、というわけだ」

 その後を引き継いだリスネイがマニュアルの証言を復唱した。

 「被害者から真夜中に出掛けて戻って来ることが出来るか尋ねられたマニュエルは、その時間帯は客が留守だと思い込んでいたらしいですからね。手慣れた奴ですよ。欲を掻かずに居間に置かれたスーツケースの中身だけで満足するなんて……うん? おかしいな」

 「どうした?」

 何かに気づいたナンタスをリスネイが促す。

 「常習犯のマニュエルが今まで捕まって来なかったのは、被害者が裕福で、すぐには盗難されていることに気づかなかったからです。ということは、マニュエルが盗んだ痕跡を残しているはずがないんだ」

 「しかし、スーツケースは開け放たれていたぞ」

 リスネイが室内を見回すが、すでに事件の影は跡形も残されていない。

 「ええ。つまり、フロアボーイの後にこの部屋へ訪れた者がいたということです」


 真夜中を告げる鐘の音と重なり合うように、ドアの呼び鈴が鳴り響いた。

 ネリーローズの部屋の前に立ったジェラールは、何の反応も示さない不自然なほどの静寂に満ちた空気を感じ取り、背中がちりちりとするのを意識した。

 (逃げるべきだ)

 何かがそう告げる。

 (だが、ここで逃げ出したら二度とネリーローズに会うことは出来ない気がする)

 覚悟を決めたジェラールがドアノブを回すと、扉はあっさりと開いた。

 「ネリーローズ?」

 真っ暗な室内へと足を踏み入れる。

 背後で扉が閉まった瞬間、室内に明かりが灯された。

 眩しさに一瞬視力を失ったジェラールであったが、徐々に目が慣れて来ると、そこにネリーローズとその母親、そしてヴァルネーがいることが判った。それから見知らぬ男たちも。

 「やっと会えたね、ジェラール君」

 ジェラールとは初対面であるナンタスが慇懃に挨拶した。

 「私はナンタス主任警部、彼はリスネイ予審判事だ。私たちはバラトフ氏の事件を調査している」

 「僕をハメたな、ヴァルネー!」

 怒りの感情を剥き出しにするジェラール。

 「言っただろう? あらゆる手段を使うと。試練その一だ。自身の潔白を証明したまえ」

 ヴァルネーは涼しい顔でジェラールの抗議を受け流した。

 ネリーローズは不安げな表情を浮かべたまま、黙って成り行きを見守っている。

 「まあまあまあ、そんなに大した話ではないんだよ、ジェラール君。我々が知りたいのは、君がバラトフ氏に何をしたかだ」

 ナンタスは親しみを籠めながら問いかけた。

 「何をしたかって? 一緒に食事はしましたけど」

 「それ以外のことさ。何かを貰ったとか、ちょっとした揉め事があったとか、何となく拳銃を突きつけてみたとか……」

 「まあ! なんてこと!」

 ナンタスの一言にデストール夫人が過剰に反応した。

 「失礼、仮定の話ですよ……正直我々は困っているんだ、ジェラール君。誰かがバラトフ氏と格闘して、誰かが彼を射殺して、誰かが彼の部屋を荒らしているんだ。君がどの役割を担ったのかを教えて欲しいんだよ」

 「どれも何の事か解かりませんよ。僕は確かにバラトフと食事をしただけなんだ。まさかその後に彼が殺されているなんて……」

 「バラトフ氏は凄く大事な物を探すのに忙しくてデストール嬢との約束を反故にせざるを得なかった、君は彼女にこう伝えているだろう?」

 ナンタスに指摘されてジェラールはネリーローズを見た。ネリーローズは彼へと挑戦的な瞳を向けている。

 (なるほど。彼女も自分の容疑は自分で晴らしてみせろ、というわけだな)

 「ええ、そうです。食事の後にバラトフはデストール嬢へと渡すつもりだった書類が無くなったと騒ぎ出したのです」

 「そんなに重要な物だったのかな?」

 「彼にとってはそうだったんでしょう。僕も疑われて下着の中まで調べられましたよ」

 「それは貞操の危機だったね……おっと失礼。御婦人の前でした」

 ナンタスの冗談には誰も笑わず、リスネイだけが空咳をしてフォローとした。

 「ということは、盗んだ犯人は君ではなかったということだね」

 「勿論です! そもそも盗まれたかどうかすら判らないですよ。バラトフだってパリへ来る前に色々な街へと寄っているのだから」

 「なるほどね。では君の話を私たちの調査結果と照らし合わさせてもらおうかな……我々の調査ではバラトフ氏は殺人犯とは別の人物と格闘し、チョッキのボタンを失くしています。おそらくその別の人物は氏の上着に仕込まれていた隠しポケットから何かを奪い去ったのです」

 「つまり僕が嘘をついていて、本当はバラトフと喧嘩して彼の書類を奪い取ったと?」

 ナンタスの断定するような言い草にカチンと来たジェラールが単刀直入に切り出した。

 「そこを認めてくれると話が早いんだがね」

 「事実ではないことは認めるわけには行きません」

 「それは困った。だとしたら第四の訪問者の存在が必要となってしまう」

 ナンタスがたいして困ってはいない様子で大仰に首を振った。

 すると、いきなりヴァルネーが大笑いを始めた。

 「あははっ! 失礼、主任警部さん。こんな茶番はもう充分ですよ。ほら、ジェラール君。どんなトリックを使って部屋から書類を持ち出したか教えてあげればいい。そうしたら君がバラトフ氏と格闘したという嫌疑は晴れるだろう?」

 「トリックだって?」

 ヴァルネーの言葉にリスネイが反応した。

 「ええ、極めて単純ですが、意外に盲点となる物です。私の推測としては、食事が終わった後の食器の中へ隠したのですよ。そうすれば勝手に部屋から持ち去られますからね」

 「そんな物、配膳係がすぐに気づくじゃないか!」

 リスネイが反論する。

 「そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない。もしかしたら多少の金銭が事前に渡されていた可能性もありますよ。何しろ、あのホテルは採用している従業員の身元調査すらちゃんと行っているか信用できたものではありませんからね」

 「隠し場所や持ち出し手段はそれでいいとしても、一体君はどうやってその大事な書類をバラトフ氏から奪い取ったんだい?」

 ヴァルネーの発言を既成事実と決め付けたリスネイがジェラールへと質問する。

 大きく一つ溜息を吐くと、ジェラールは諦めたように語り出した。

 「彼に身嗜みの話をしたんですよ、女性に会う為のね。まずはシャワーを浴びておくべきだと。僕はその間に電話をしてくると言って、部屋から出た振りをして扉にペンを挟んで閉まらないようにしたんです。後は彼の上着の隠しポケットから書類を抜き出し、部屋から出ると、ホテルの廊下に飾られている花瓶の中へと突っ込んだんですよ。そして何食わぬ顔で部屋へと戻って食事をして、帰り際に花瓶から書類を回収しました。つまり、ヴァルネーさんの推理は的外れなんです。それから、さっきの持物検査の話は作り話です。僕が帰るまでバラトフは書類がポケットに入っていると信じていたはずですから」

 ヴァルネーは自身の推測を否定されても、真実が明らかになったことに満足気な笑みを浮かべていた。

 「それにしても書類が無くなったことくらい、服の重みですぐに判るだろうに」

 ナンタスの疑問はジェラールがすぐに解消した。

 「代わりに彼の手帳を入れておきました」

 「ああ、だから手帳が床に転がっていたのか!」

 リスネイが妙なところで納得していた。

 「となると、やはり第四の訪問者がいたということになるが……」

 ナンタスの呟きに反応したのはまたしてもヴァルネーだった。

 「まあ、そうでしょうな」

 「ヴァルネーさん、先程からあなた何か御存知の様ですね?」

 ナンタスが言いたいことがあるなら言え、とばかりに促した。

 「そうですね。バラトフ氏の書類をジェラール君が盗み取った事を認めたのですから、私も正直に明かしましょう。二十二時にバラトフ氏と面会をしたのは私ですよ」

 「えっ!」

 その場にいた全員が驚きの声を発する。

 「いや、しかし彼の手帳には『二十二時A.L.と面会』と書かれていたよ。筆跡鑑定の結果、手帳の他の文字と同じだったし、手帳はバラトフ氏の書いた物だと証明されている」

 リスネイがヴァルネーの告白を否定した。

 「ええ。私は彼にA.L.と名乗りましたから」

 「アルセーヌ=ルパン……」

 ネリーローズが稀代の怪盗の名前を呟くと、ナンタスが反射的に応援を呼ぼうと警笛を取り出した。

 「おっと、待って下さい! バラトフ氏にそう名乗っただけですよ。その方が上手く取引ができますからね」

 抵抗する意思がないことを示すかのようにヴァルネーが両手を頭の横まで高く上げた。

 「……いいでしょう、とりあえず信じましょう」

 ナンタスが警笛を口から離すと、皆がほっと安堵の息を吐いた。

 「私はバラトフ氏へある書類をロシアから持ち戻るように依頼をしました。そしてその受け渡しの為に、約束通り五月八日の二十二時にバラトフ氏の部屋を訪れたのです」

 「しかし、フロアボーイはバラトフ氏の客室への二十二時の来客を証言していないのだがね」

 ヴァルネーの証言を遮ってリスネイが問いかけた。

 「ああ、それは素晴らしい。マニュエルはちゃんと払ったチップ分の役割を果たした訳だ。フロアボーイに訊いて御覧なさい。二十二時の男がもう正直に話していいと言っていると」

 ナンタスがデストール夫人に断って電話を借りに行く間、ヴァルネーは話を止めていた。すかさずジェラールが彼に問いかける。

 「本当にあなたがバラトフへ依頼されたんですか?」

 「そうだよ。まあ、今すぐ返したまえ、なんて野暮な事は言わないさ。ただし、両方を手に入れようなんて虫の良い事は考えない方がいいだろうな」

 ヴァルネーが含みを持たせながら答えると二人の間の空気が一気に緊張感で満たされた。

 「それは脅しですか?」

 ジェラールが敵対心を露わにしながら質問する。

 「必然だよ。決めるのは我々ではないのだろう? 青年」

 ヴァルネーは笑いながらジェラールの怒りを受け流した。

 その張り詰めた空気に割って入るかのようにナンタスが戻って来た。

 「証言は取れた。フロアボーイは確かに年配の紳士からチップを受け取り、彼の存在を見なかったことにしていたそうだ」

 ここまでを皆に伝え、続けて小声でリスネイへと告げる。

 「ルキヤノフはすでにチェックアウトしていましたよ。今ヴィクターの指示で周辺の駅を当たっています。フランスを出る前に捕まえられるといいのですが」

 「今、ルキヤノフと言いましたか?」

 耳ざとく聴きつけたジェラールがナンタスに問う。

 「アレクサンドル=ルキヤノフ、知り合いかい?」

 「ええ、まあ。一度しか会っていませんけど」

 「それはそれは。その一回で随分な恨みを買ってはいないかな?」

 「良く御存知ですね」

 ジェラールが感心すると、ナンタスが笑いながら答える。

 「まあ、それが警察の仕事さ。それよりヴァルネーさん、話の続きを。あなたとバラトフ氏の間でどのようなやり取りがあったのか、教えて下さい」

 「なに、そんなに複雑な話ではありません。こちらは約束通りの報酬を用意して行ったのですが、奴が欲を掻きましてね。色々と要求するものだから、少々揉め事に。結果、奴の服のボタンが飛び、書類がすでに盗まれているのを知った、というわけです。そうであれば、もうバラトフ氏には用はありませんので、ベッドの上で少々眠ってもらっていた、と言う訳です」

 「拳銃を使ってかね?」

 リスネイが疑うように問いかける。

 「まさか! 私には日本の柔術の心得がありますからね。バラトフ氏のような巨漢でも体重差はあってないような物なのですよ」

 「つまり気絶させたという事ですね。その後バラトフ氏のスーツケースを漁ったりしましたか?」

 ナンタスは一応確認しておくというような気のない口調で尋ねた。

 「必要ないでしょう? バラトフ氏の隠しポケットには隠す必要のない手帳が入っていました。と言うことは誰かにすり替えられたという事ですから。容疑者の見当はすぐ付きましたしね」

 「やれやれ、そんなことならもっと早く警察の事情聴取に協力して下されば良かったのに」

 ヴァルネーの告白を聴き、リスネイが嘆息した。

 「こういうことを言いたくはないのですが、私自身が名乗り出なければパリ市警が私の元まで辿り着くことはなかったでしょう。このまま見過ごしていても良かったのですが、殺人犯をみすみす見逃すのは私の主義に反しますからね。さあ、主任警部さん。ここからはあなた方の仕事ですから、犯人が国外逃亡する前に捕まえて下さい」

 「勿論です……夜分にお邪魔いたしました」

 ナンタスはデストール夫人に挨拶するとリスネイを連れてアパルトマンから出て行った。

 「それでは奥様、私もそろそろ失礼いたします」

 ヴァルネーは夫人の前で深々と腰を折ると、ネリーローズには目もくれず部屋から立ち去って行った。

 「ネリーローズ?」

 夫人は隣りに立っている娘が、何かを待っているかのように動こうとしないのを感じ取って呼び掛けた。それから入口の扉近くに立っているジェラールを見る。

 真っ直ぐな視線で見つめ返された夫人は深い溜息を吐いてから念を押した。

 「深夜の外出は禁止しますからね。部屋は隣りですから何かあればすぐに判りますよ」

 「はい、奥様」

 ジェラールが慇懃に御辞儀をすると、デストール夫人は諦めたように首を振りながら自身の部屋へと帰って行った。

 取り残された二人の間を沈黙が満たす。

 その沈黙に耐えかねたかのようにネリーローズが会話の口火を切った。

 「あれは夢だったのよ」

 ジェラールの方を見向きもせずに俯き加減なまま頬を染める。

 「確かに夢のような時間だった」

 そう言いながらジェラールはネリーローズの元へと歩み寄って行く。

 「来ないで!」

 抵抗を示すネリーローズだったが、その拒絶には力がなかった。

 「夢のようだったけど、僕の中の一番深い場所へ明確に刻まれた真実だよ」

 ネリーローズの手を取り引き寄せたジェラールが、彼女の体をその胸の中で抱き締めた。

 「愛してるよ、ネリーローズ。こんな気持ちになったのは初めてなんだ」

 耳元で囁かれたその言葉にネリーローズはぽーっとなりながらも、強い意志の力で自分自身を取り戻した。

 「みんなにそう言っているのでしょう?」

 「君に出逢うまでの僕がどんな男だったかは僕自身が一番良く知っている。ヴァルネーの言う通り過去を隠して君を幸せに出来るわけがない。でもこれだけははっきり言える。もう僕には君しか見えない……」

 ジェラールは体を離すと、一歩後ろに下がってネリーローズの瞳を見つめた。

 目を伏せていたネリーローズが恐る恐る目線を上げて彼の視線を捉える。

 と、同時に彼女の瞳が恐怖に見開かれた……。



4 ネリーローズが攫われた。


 通報を受けてデストール夫人のアパルトマンへと戻って来たナンタス主任警部であったが、すでにそこには動揺している夫人以外誰もいなかった。

 「お怪我はありませんでしたか?」

 ナンタスが心配げに夫人を気遣う。

 「ええ、私は何も。大きな物音がしたので娘の部屋へと行ってみると、そこに割れた花瓶と頭から血を流したジェラールさんが……」

 ナンタスが室内を見回すと、大型の花瓶の破片が飛び散る床の周囲に大きな血溜りが残されている。

 「結構な出血ですね。今ジェラール君は?」

 「私に警察を呼ぶように指示して出て行きました……ねえ、主任警部さん。ネリーローズは何処へ行ったのでしょう? ジェラールさんは何も答えずに出て行ったのですよ!」

 「まだ何も言えませんが、ジェラール君が動いているのならば大丈夫でしょう。すぐに私たち警察も捜索に加わりますからね」

 ナンタスは夫人へ安心するように言い聞かせると、アパルトマンから飛び出して行った。丁度良いタイミングでアパルトマンの前へとリスネイ予審判事の車が停車する。

 「グッドタイミングですね」

 助手席へと乗り込みながらナンタスが相棒の肩を叩いた。

 「まったく。寝入り端に叩き起こされる身になって欲しいわい。で、何があった?」

 リスネイがぶつぶつと文句を言いながら問いかける。

 「推測ですが、デストール嬢が誘拐されました。今は負傷したジェラール君が犯人を追っています」

 「犯人の目星は?」

 「ヴァルネー氏……という可能性も捨て切れませんが、十中八九ルキヤノフでしょうね」

 「その根拠は?」

 ナンタスに同行して調査していたにも関わらず、今一つ犯人に確信が持てていないリスネイが相棒へと理由を問う。

 「前に言ったじゃないですか。殺人現場に遭遇して、巻き込まれたくなければどうするかって」

 「ああ、ジェラール君の話だろ?」

 「違いますよ。巻き込まれたくなくて警察へ通報しなかったロシア人の事ですよ」

 「なるほど。その時から奴を疑っていたわけか」

 「実はヴァルネー氏からのチップの件と併せて、マニュエルにフロアを離れた時間は無かったか、と確認してみたところ盗んだ宝石を吟味するためにリンネル室に籠った時間があったそうです。おそらくその時間帯がルキヤノフの本当の訪問時間でしょうね」

 「部屋に入って気絶していたバラトフを撃ち殺したってことか?」

 「いえ、だとしたらベッドに弾痕が残るはずです。おそらくルキヤノフはバラトフが持っている何かを手に入れる為にフランスへやって来て、このホテルへと宿泊したのでしょう。そこへ憎きジェラール君が現れ、バラトフを置いて帰って行く。しばらくの後に窃盗癖のあるフロアボーイが室内へと忍び込み、出て行った。容疑を逸らす条件は揃ったってわけです。何らかの道具を使って室内へと侵入し、スーツケースを漁り、床に落ちていた手帳を拾って読む。その時にはやっこさんの頭の中には事件のシナリオが描けていたに違いない。ドアを開けて出てきたバラトフへと拳銃を突きつけ、ベッドの前まで押し戻して……バキューンだ」

 ナンタスが右手を拳銃のように形作って撃つ真似をする。

 リスネイはハンドルを回しながら疑問をぶつけ続けた。

 「だが、どうやってジェラール君とデストール嬢とを結びつけたのかね。彼女の話では当日まで親しい間柄ではなかったはずじゃないか」

 「ルキヤノフは身なりから見て、結構裕福だと推測されます。金さえあれば情報屋でも探偵でも雇うことはできますよ」

 「デストール嬢を尾けていたわけか! 一体そこまでしてルキアノフは何を手に入れようとしているんだね?」

 「そこまでは判りませんが、おそらくヴァルネー氏とジェラール君が言っていた〈例の書類〉ではないでしょかね。ジェラール君がバラトフ氏から奪ったのならば、ルキヤノフが彼の大切な人を攫った意味が鮮明になりますから」


 ジェラールはタクシーでオートゥイユ通りのペンションへと向かった。

 午前四時の暗闇の中、イエゴールの部屋の扉を叩く。

 不機嫌な表情で扉を開けたイエゴールだったが、訪問者が負傷したジェラールだと判ると、電話でメイドを叩き起こし呼び付けた。

 ジェラールを椅子へと座らせると、イエゴールは自らアルコールを使って彼の傷口を消毒し始める。その痛みに顔を顰めながらもジェラールが質問した。

 「アレクサンドル=ルキヤノフを知っているかい?」

 「ああ、革命で私腹を肥やしたロシア人だな。〈ヌーヴォーパラスホテル〉に泊まっていたが、もう帰国したはずだ」

 「ネリーローズが攫われた」

 ジェラールの短い言葉で全てを悟ったイエゴールは、起きてきたメイドへ彼の治療を引き継ぐと、自らが持つロシア人ネットワークを駆使してルキヤノフの居所を探り始めた。


 ルキヤノフはリール街にあるアパルトマンの最上階に居を構えていた。

 何の装飾も施されていない部屋の中には備え付けのテーブルと椅子があり、そこにネリーローズは背筋をぴんと張りながら腰を下ろしていた。

 「マドモアゼル、怖くはないのかな?」

 ルキヤノフは壁際に置かれていたボトルを手に取り、テーブルの上の二つのグラスへとワインを注ぐと、一つをネリーローズへと勧めた。

 「結構です」

 ネリーローズがキッパリと拒絶する。

 「どうもあなたは御自身の立場が解かっていないようだ。私がその気になればあなたの人生など一瞬で終わらせられるのですよ」

 ルキヤノフは冷酷な言葉をさらりと告げた。

 「どうぞ、おやりなさい。でもそれが目的ならば私をここまで連れて来ないでしょう?」

 「おっしゃる通りだ」

 ルキヤノフは楽しげに笑った。

 「私がわざわざパリへと住まいを求めたのは、奪われたある物を取り返す為だよ。ロシアで私の物を奪ったのはフランス人。その男を雇ったのがロシア人。さらにそのロシア人に依頼したフランス人がいる事までは調べが付いた。だから私はパリで雇い主のフランス人とロシア人が会う日をずっと待っていたわけだ。私を侮辱したフランス人ジェラールへの復讐も兼ねてな」

 「一体彼があなたに何をしたって言うの?」

 「聞きたいかね?」

 ネリーローズの問いかけにルキヤノフは厭らしい笑みを浮かべた。

 「いえ、やっぱりいいわ」

 それを見て慌てて否定するネリーローズ。

 「いいや、あなたは是非聞くべきだ。奴は私から現在の愛人と未来の愛人を奪って行ったのだよ!」

 (やっぱり女性関係ね)

 ネリーローズは諦めたように心の中で溜息を吐いた。

 「さあ、この復讐をどうやって果たしてくれよう? 奴の恋人の純潔を奪うのも良し、孕ませて恋人を奪い取るのも良しと言う訳だ。どうかな、マドモアゼル。愉しみになって来たんじゃないかな」

 ルキヤノフがネリーローズへと近づき、彼女の横顔へと顔を寄せる。

 すると、咄嗟にルキヤノフへと向き直ったネリーローズが彼の顔へと唾を吐きかけた。

 黙って顔を引いたルキヤノフが、左手の指先で己の顔に付いた唾液を集める。そしてその指を口元まで運ぶとネリーローズへ見せつけながら舌先で舐め上げた。

 と同時に、右手で彼女の頬をはたく。

 「私を嘗めるな! 祖国では私の事を成り上がりだと嘲笑う者たちがいたが、そいつらはもうこの世にはいない。ネリーローズ=デストール! 私はおまえを手に入れる事で経済的に確固たる立場に立つことができるのだよ! 愚かなバラトフが思い描いていたようにな!」

 頬の痛みに呆然としかけたネリーローズだったが、ルキヤノフの言葉の意味することを理解してハッとなった。

 「まさか、あなたが油田の権利書を?」

 「さあ、どうでしょうな?」

 余裕を取り戻したルキヤノフが不敵な笑みを浮かべる。

 その時、部屋の呼び鈴が鳴り響いた。

 期待に顔を輝かせるネリーローズを見て、ルキヤノフは更に邪悪な表情を浮かべながら顔を歪める。戸口まで行って部屋の鍵を開けると、開かれた扉の向こうにはデストール夫人が立っていた。

 「ママ!」

 驚きの声と共に母親へと駆け出そうとするネリーローズをルキヤノフが拳銃を向けて牽制する。部屋へと入って来たデストール夫人の後ろにはネリーローズも良く見知った大柄な男が立っていた。

 「御苦労だった、チャールス」

 ルキヤノフが労ったのは〈三銃士〉の一人であったチャールスだった。

 チャールスに押し出されたデストール夫人がネリーローズの元へと駆け寄る。

 「ああ、ネリーローズ! まだ無傷なのね、良かった!」

 デストール夫人が娘をその胸へと抱きしめながら安堵する。

 「遺産を継承する権利を持つ者が二人いるという状況は何かと不都合ですからな。経済的困窮に陥っていたチャールス君に協力して貰って夫人にもおいでいただいたという訳ですよ」

 「ママに何かあったら、舌を噛んで死んでやる!」

 ルキヤノフの言葉にネリーローズが激しい反発を示す。

 「それは困る。チャールス」

 ルキヤノフの呼び掛けを受けてチャールスが二人の背後へと回った。ルキヤノフに拳銃を向けられて抵抗できない母娘は引き離され、ネリーローズはチャールスによって口元と手足を布で拘束されて床へと転がされた。

 「私はどうなってもいいから、娘を解放して!」

 夫人の訴えをルキヤノフは笑いながら肯定した。

 「勿論そのつもりです。あなたをすぐに始末せずにここまで連れて来たのは、彼女に決定的な絶望を与える為ですから。二度と私に逆らうような気を起こさせないほどのね。そんな訳で……」

 ルキヤノフが合図をするとチャールスが夫人の真後ろに立ち、背後から夫人の胸元の衣服を掴むと一気に左右へと引き千切った……。


 ナンタスたちがオートゥイユ通りのペンションの前へと辿り着くと、そこにはすでに連絡を受けていたヴィクター警部が部下のクレメント刑事と共にパトカーで待機していた。

 「ジェラール君は?」

 予審判事の車の助手席から顔を出したナンタスが呼び掛けると、運転席に座っていたヴィクターが窓を開けて答えた。

 「中です。まだ何の動きもありません」

 警部の返答を受けナンタスが助手席から降りてペンションの中へ入って行こうとすると、ちょうど正面入り口からジェラールが飛び出してきた。

 「ジェラール君!」

 通りに停まっているタクシーへ乗ろうとするジェラールをナンタスが呼び止める。

 「主任警部さん?」

 「パトカーの方が早いぞ、乗りたまえ!」

 ジェラールを手招きすると自身もパトカーの後部座席へと乗り込んだ。

 その隣へとジェラールが飛び乗って来る。ドアが閉まるか閉まらないかの内にヴィクターがパトカーを発進させた。

 「やれやれ、年寄りは置いてきぼりかね」

 目の前を走り去って行くパトカーを追ってリスネイもアクセルを踏み込んだ。


 リール街のアパルトマンが近づいて来た所で、車内に満たされていた緊迫した沈黙を破りながらナンタスがジェラールへと声を掛けた。

 「我々に任せて、君は行かない方がいい」

 「……そんなわけにはいかない」

 「誘拐事件の現場へ関係者が同行したって何もいいことはないよ。知らなくていい真実を知ることだってあるし、君と彼女双方の為に、君は行くべきではないんだ」

 ナンタスの言葉を受けて、ジェラールは胸の前で右手を握り、瞼を閉じて力を籠めた。そしてすぐに目を開く。

 「大丈夫です。何があっても僕らなら乗り越えていけると確信しています」

 前方を見つめながら決意を述べるジェラールを、じっと見つめていたナンタスは観念したように皮肉な笑みを浮かべた。

 「それもまた人生か……クレメント、アパルトマンに着いたら上下左右に隣接する部屋の住人を叩き起こして避難させろ。なぁに、火事だとでも言えばいい。ヴィクターは私と来い! ジェラール君も一緒だ」

 パトカーが建物の正面に止まると、真っ先にジェラールが駆け出した。

 エレベーターホールで昇りボタンを押すが、上階に止まっているのを見ると近くの階段を駆け上がろうとする。

 「待ちたまえ! すぐに来る。こっちの方が速いし、無駄な体力の浪費をするのは得策ではないだろう?」

 遅れて来たナンタスに呼び止められて、ジェラールは逸る気持ちを抑えながらイライラとエレベーターの到着を待った。

 扉が開くと誰も乗っていないのを確認する前に乗り込み、ドアを閉める。閉まるドアの隙間から慌ててナンタスとヴィクターが滑り込んだ。取り残されたクレメントは諦めたように首を振ると、勢い良く階段を駆け上って行った。

 「全く。私とヴィクターだったから良かったものの、リスネイ予審判事だったら挟まってたぞ」

 狭い個室内でナンタスが冗談めかしてジェラールを非難したが、若者は微笑みを浮かべることもなく硬い表情を浮かべたままポケットから拳銃を取り出して握りを確認した。

 「その拳銃は……」

 合法な物かどうか問い質そうとしたナンタスの言葉を遮って、ジェラールが刑事たちに警告する。

 「イエゴールが集めた情報によれば、ルキヤノフには協力者のフランス人がいるらしいです」

 追及を諦めたナンタスが頷く。ヴィクターも拳銃を取り出し装填を確認した。

 「そうだと思っていたよ。それで色々な事が腑に落ちる。よし、ヴァクターはそのフランス人を抑えるんだ。ジェラール君は御婦人の救出を、私がルキヤノフの相手をしよう」

 ナンタスの言葉に反発するかのように、ジェラールは強い意志を込めて彼を見た。

 「いえ、主任警部がネリーローズを連れ出して下さい。ルキヤノフとの決着を付けるのが僕の役目です」



5 僕が君に近づいたせいだ!


 ネリーローズは部屋の中で男と二人きりであった。

 電灯の消えた室内は、窓から差し込む仄かな月明かりによって照らされている。

 ネリーローズはすでに抵抗することを諦め、ベッドの縁に腰かけていた。

 男は彼女の目の前に立つと気味が悪くなるくらい優しく、彼女の服を一枚、また一枚と脱がして行く。

 ネリーローズは自分がどうしたいのか、どうされたいのかさえ決められずに目を閉じた。

 そして男の唇が自分の口元へと近づいて来る気配を感じ取り、唇を強く噛み締めた……。


   ◇  ◇  ◇


 凌辱される母親の姿から意識を遠ざけるべく、記憶の中へと逃避していたネリーローズはいつの間にかチャールスによって拘束を解かれ、膝立ちの姿勢にされていた。

 近づいて来る男の気配に反応し、その顔へと向けて唾を吐きかける。

 二回目とあって予期していたルキヤノフは首を振って避けると、再び右手で彼女の頬を張った。叩かれた勢いのまま、ネリーローズが床へと倒れ込む。

 屈辱から溢れそうになる涙を堪え、ルキヤノフを見上げながら鋭い視線で睨み付けた。

 「素晴らしいよ、マドモアゼル。ゾクゾクする様な憎悪だ。あなたを穢す瞬間は私の人生で最高の悦びを与えてくれるに違いない!」

 歪んだ笑みを浮かべるルキヤノフ。

 チャールスへと合図を送り、ネリーローズを立たせて背後から羽交い絞めにさせる。

 ……と、その時玄関の呼び鈴が鳴らされた。

 手を止めたルキヤノフがチャールスへと顎を振って、応対してくるように指示を出す。

 解放されたネリーローズはそのまま床へと落ちるように座り込んだ。

 「お楽しみはこれからですよ」

 ルキヤノフはそう言い残すと、拳銃を握りしめてチャールスの後を追って行った。


 「夜分恐れ入ります、警察です。実はこの建物の中にジェラールという凶悪犯が隠れているという通報がありまして、お心当たりがないか確認させていただいているんです。こんな入り口では何ですから、中へ入れていただけませんかね?」

 開いたドアの隙間から顔を出したチャールスへと向けて、ナンタスは隣に立ったヴィクターと共に、極めて低姿勢で話しかけた。

 「何時だと思っているんですか。帰って下さい」

 あっさりと扉を閉めようとするチャールス。ナンタスはドアの隙間に爪先を突っ込んで扉が閉まるのを食い止めた。

 「まあまあ、そう言わずに」

 ヴィクターと二人で力任せに扉を開け放つと、背後から勢い良く飛び込んだジェラールがチャールスを押し倒した。二人は互いに相手を抑えつけようとしながら上下を入れ替えつつ床を転がって行く。

 その脇を抜けてナンタスとヴィクターが室内へと踏み込んで行った。

 「危ない!」

 咄嗟にナンタスがヴィクターを突き倒すと自身も床へと転がった。二人が立っていたところにルキヤノフが放った銃弾が素通りして行く。体勢を立て直したヴィクターが拳銃を構えて反撃をすると室内からルキヤノフの気配が消えた。

 「主任警部!」

 ヴィクターが目をやると、ナンタスが太腿から血を流していた。

 「大丈夫、かすり傷だ!」

 自身のネクタイを外し、足をきつく縛り上げて止血する。

 「それよりジェラール君を」

 「こっちは問題ありませんよ」

 ナンタスが振り返ると、ジェラールが気絶しているチャールスの上から離れるところであった。

 「ヴィクター、ジェラール君のフォローを頼んだぞ。こいつは私が見張っておく」

 ナンタスの言葉に頷いたヴィクター警部が隣りの部屋へと向かうジェラールを追い掛けて行く。それを見届けたナンタスが内ポケットから拳銃を取り出しながら独りごちた。

 「さてさて。こいつの銃弾は何処へ仕舞ったっけ……」

 隣の部屋へと通じる扉の左右の壁に張り付いたジェラールとヴィクターが目線を交わして頷き合った。ヴィクターは勢い良く扉を蹴り開けると壁へと身を引いた。

 立て続けに放たれる銃弾が開かれた空間を通り過ぎて行く。

 「オートマチックかな?」

壁から少し離れながらヴィクターが問いかける。

 「いえ、奴の美学からしたらリボルバーでしょうね」

 「ナガンなら装弾数は七発か。カウントするぞ」

 扉を挟んで顔を見合わせたジェラールとヴィクターが小声で数を合わせる。

 「三、二、一、ゴー!」

 二人で部屋へ飛び込んで床を転がると拳銃を構えながら身を起こす。

 すると部屋の真ん中には気を失っているネリーローズと、その背後に立ち彼女の首元へと拳銃を突きつけているルキヤノフの姿があった。

 「久しぶりだな、フランス人。夢に見るほどまでに会いたかったよ」

 ルキヤノフが不敵に笑いかける。

 「僕はあんたの事なんか忘れていたし、思い出したくもなかったよ」

 ジェラールが銃口を向けながらルキヤノフを睨み付けた。

 「そうかね。だが今この時からおまえは私のことを忘れることは出来なくなる。もっとも、生きていたらの話だがね」

 愉快そうに笑うルキヤノフ。

 「ルキヤノフ、パリ市警だ! イワン=バラトフ殺害容疑および略取誘拐容疑でおまえを逮捕する!」

 ヴィクターがそう宣言すると、拳銃を構えたままじりじりと前へと進んで行く。

 「おっと、そこまでだ。私は死を恐れはしない。だがタダで死ぬ気はない」

 警部は床に転がっているリボルバーへと目を留めると足を止めた。

 「拳銃が一丁だけだと思ったか? 誰を道連れにしても構わないが、おまえを一生後悔させる選択をするつもりだ」

 ルキヤノフから直接呼び掛けられたジェラールがヴィクターへと懇願する。

 「警部、ここは僕に任せて貰えませんか」

 「しかし……」

 ヴィクターが躊躇していると、ジェラールは銃口を警部へと向けた。

 「お願いします!」

 「……わかった」

 ヴィクターはルキヤノフへ拳銃を向けたまま後ずさりし部屋の入り口まで引き下がった。

 「扉を閉めろ!」

 ルキヤノフが声を飛ばすと、警部はその指示に従った。

 「さて、やっと二人きりになれたな」

 ルキヤノフが楽しげに話し掛ける。

 「彼女を離せ」

 拳銃で狙いを定めたままジェラールが冷たく言い放つ。

 「やれやれ、フランス人。ビジネスじゃないか。欲しい物があるのならば、その対価を示したまえ」

 ジェラールは空いている左手で服の内ポケットをまさぐると、そこから例の証券の入った羊皮紙の袋を取り出した。

 「おお、それか! ルーマニア油田の権利書があるのは知っていたのだ。だが在り処が判らなくてね。やっと本来の持ち主の元へと帰って来たな」

 「本来の持ち主は彼女だ」

 嬉々としているルキヤノフの言葉をジェラールが否定した。

 「だが、その権利を放棄するのだろう? さもなくばこの娘は若くして死ぬことになる」

 「デストール家の財産だ。あんたが相続することは出来ない」

 ジェラールの指摘を受けて、ルキヤノフが高笑いする。

 「ジェラール! ジェラール! ジェラール! そうやって何もかも手に入れようとするのがおまえの悪い癖だ。バラトフはそう言ってなかったか? 娘が財産放棄すればこの権利書は誰の物になるかな?」

 「まさか……」

 「そう、私の妻となるフローレンス=デストール夫人が全ての財産を継承する。当然の権利だ。息子と呼んでやろうか、フランス人よ」

 ルキヤノフが高笑いする。

 「そんな訳で、フローレンスが私との結婚に同意するまでこの娘を返すわけにはいかない。なあに、安心したまえ。財産放棄に同意すれば命まで取りはしないさ。味見だけはさせて貰おうと思っているがね。それがおまえへの私の復讐……」

 ルキヤノフの言葉は間近で放たれた銃声によって遮られた。

 意識を失ったふりをしていたネリーローズが引き金に掛かっていたルキヤノフの指へと自らの指を重ねて銃弾を射出したのだった。首元から夥しい量の流血をしながら床へと倒れて行くネリーローズ。

 「なぜだ!」

 動揺のあまり呆然となったルキヤノフの右手に握られた拳銃を、ジェラールの放った銃弾が正確に射抜く。

 衝撃を受けて拳銃を落とした右手を抑え込むルキヤノフを尻目に、ジェラールはネリ―ローズの元へと駆け寄って行く。急いで首元を抑えて止血を図る。

 「ああ、ネリーローズ! ああ、僕のせいだ! 僕が君に近づいたせいだ!」

 嘆くジェラール。

 銃声を受けて部屋へと飛び込んで来たヴィクターが部屋の入り口へと向かって叫んだ。

 「救急隊を!」

 丁度、ナンタスの手当ての為に呼ばれていた救急隊員がネリーローズの元へと駆け寄って行く。ジェラールは彼らにネリーローズを引き渡すとルキヤノフの姿を探した。

 奥の部屋へと進むと、床にデストール夫人が猿轡をされたまま縛られ寝かされていた。その先の窓が開け放たれている。

 一瞬追跡を優先しようか逡巡したジェラールだったが、カーテンをむしり取るとそれで夫人の体を覆い、彼女の拘束を解いた。

 「ああ、ジェラール! ネリーローズは?」

 自身の痴態を気にもかけず、夫人は娘の安否を問うた。

 「……彼女の傍にいてあげて下さい」

 それだけ告げると、ジェラールはルキヤノフの姿を探すために窓から身を乗り出した。すると上空からプロペラが風を切る音が聴こえた。

 (ヘリコプターか!)

 外壁に埋め込まれている避難梯子を登って屋上へと辿り着くと、今まさにルキヤノフがホバリング中のヘリコプターから垂らされた縄梯子を登っている途中であった。

 「ハッハッハッ! フランス人よ、お互い望み通りの結果とはならなかったが、私は目的の物を手に入れ、おまえの大切な物を奪うことに成功した! 復讐は果たされたのだ! また会おう! ハッハッハッ!」

 ルキヤノフが上昇を命じると、ヘリコプターは垂直に舞い上がって行く。ジェラールは拳銃を構えて梯子に掴まるルキヤノフの姿を照準に捉えていたが、引き金を引かなかった。


 ヘリコプターが安定した水平飛行を始めると、ルキヤノフはゆっくりと縄梯子を登って後部座席へと腰を下ろした。

 「さらば、パリ! さらば、フランス! 全くもって気持ちの良い夜明けだな。なあ、ザハロフ」

 ルキヤノフはそこで初めてパイロットが見知らぬ男であることに気づいた。

 「誰だ、おまえは!」

 「初めましてだね、ルキヤノフ君。私のフリをするとは随分と大胆なことをするじゃないか」

 振り返ったパイロットは……ヴァルネーであった。

 「おまえは……」

 驚きのあまりに言葉を失うルキヤノフ。

 「一つ訊いておきたいのだが、君ヘリコプターの操縦はできるかい?」

 「……はぁ?」

 「申し訳ないが、私は七時に待ち合わせがあってね。このまま君と空の旅をしていたいのはやまやまだが、そうも行かなくてね」

 ルキヤノフが目をやると、ヴァルネーは体の前後にパラシュートを身に付けていた。

 「ま、待て、無様な死に方は御免だ! 不動産証券をくれてやる! 私に尊厳ある死を与えてくれ!」

 「ハハハッ! どうやら君は冗談が好きなようだね。そんな紙切れに何の価値もないよ。それに私は血を見るのが嫌いでね。例えそれが殺人犯の物だとしても、だ。おっと、ラ・マンシュ海峡が見えて来たぞ。泳ぐ為の準備運動でもしておきたまえ。では、幸運を!」

 そう言い捨てるとヴァルネーは操縦席のドアを開け放ち、空中へと飛び出して行った。

 ヘリコプターは緩やかに弧を描きながら海面へと向けて落下して行く。

 それを見届けながら、ヴァルネーはパラシュートを開いた。



6 あなたにお礼を言いたかったの。


 深夜のパーティーは佳境に入っていた。

 ジェラールの冒険譚に耳を傾けながら、すでにネリーローズはグラスに注がれたシャンパンを半分以上開けていた。より解放的で外向的になった彼女が上機嫌に立ち上がる。

 「踊りましょう!」

 一方的に宣言すると、ネリーローズは音楽に満ちたホールへと歩き出した。

 慌ててジェラールが後を追って彼女へ向かって掌を差し出す。ネリーローズは素直に手と手を重ねた。

 流れるワルツに身を任せ、二人が踊り始める。

 ネリーローズはすでに現実感覚を失くしていた。今自分がどこにいるのか? 一緒に踊っているこの男が誰なのか? それすら判らなくなっていた。ただただ心地良いこの時間に身を委ね、この男の腕の中に抱かれることで満たされていたかった。

 それが女としての性なのか、母親から引いている血筋なのかも考える気にはならなかった。シャンパンは言い訳に過ぎない、と内心ではわかっている。優等生でいる為に押し込んでいた自身の一面がとめどなく溢れ出るのが心地良かった。

 踊りのさなか、ジェラールの顔が吐息のかかるほどまでに近づいた。

 (さあ、口づけなさい!)

 内心で待ち侘びているネリーローズであったが、ジェラールは最後の一線を越えては来なかった。普段のネリーローズであれば、それは自身を大切に思ってくれている証だと判ったであろうが、今のネリーローズにとってそれは屈辱にも等しく感じられた。

 「キスの仕方も知らないの?」

 思いが大胆にも言葉となる。

 だがジェラールは踊りを止めることもなく、落ち着いた表情を浮かべながら答えた。

 「最初のキスは今の君じゃなくて、普段のネリーローズとしたいんだ」

 「同じ私よ」

 ジェラールの言葉が可笑しくてネリーローズは笑った。

 「僕にとっては違う。解放的な君も素敵だけど、今の君は僕を見ていないからね。君を欲望の対象で終わらせるつもりはないんだ」

 「じゃあ、あなたは何をしたいって言うの?」

 ネリーローズの質問にジェラールは踊りを止めて、彼女の目を見つめながら答えた。

 「ネリーローズ、君に永遠の愛を誓いたい」

 真摯に言い寄られて、ネリーローズは一瞬だけ素に戻った。しかし、すぐにパーティーやシャンパンを言い訳にする必要がある場面なのだと気がついた。

 だから、こう答えた。

 「証明して」


◇  ◇  ◇


 「で、君の部屋へと連れて行き、関係を持ったという訳かい?」

 ヴァルネーがやれやれといった表情を浮かべながら嘆息した。

 ここは病院の待合室。ヴァルネーはジェラールと肩を並べて座っている。

 ネリーローズの手術が行われている間に駆け付けて来たヴァルネーはジェラールを待合室へと誘うと、あの夜の出来事を訊き出していたのだった。

 「そうしたかったのはやまやまでしたが……無理でした」

 「ほう! 君ともあろう者が」

 ヴァルネーが愉しげに笑い掛ける。

 「二人きりになった時、そこにいたのはいつもの彼女でした。唇に血が滲むくらい強く歯を食い縛って……。そんな彼女に口づけなんかできるはずがない」

 回想していたジェラールは思い詰めたような表情を浮かべながら呟いた。

 「つまり、何もなかったと」

 「ええ。あの晩も、昨日の夜も。勝負は僕の負けです。彼女の手術が成功したら、僕は母の暮らすノルマンディーへ帰ります」

 「逃げるのか」

 ヴァルネーの言葉に反発するかのように、顔を上げたジェラールが彼を睨み付けながら感情を露わにした。

 「怖いんだ! 初めて怖いと思ったんだ! 愛する人を失うことが。こんな気持ちを味わうくらいなら、あなたが彼女を幸せにしてくれた方がいい」

 「なるほど、君の気持ちは良く解かった。だが決めるのは彼女だ、そうだろう?」

 「僕といても彼女は不幸になるだけです」

 自虐的に述べるジェラールの目の前へとヴァルネーは羊皮紙の袋を差し出した。

 「これは……」

 「大事な物を持ち歩く時はちゃんと中身を確認する癖をつけた方がいい」

 ヴァルネーは袋の中からルーマニア油田の不動産証券と領収書を取り出した。

 「一体いつの間に……あっ、あの時!」

 ジェラールの脳裏にヴァルネーと並んで座った車の中で、彼の胸倉を掴んだ場面が蘇った。

 「私がただ君にされるがままでいるような男だとでも思っていたのかい?」

 「掏り替えたのか……」

 「これで彼女と夫人はいっぱしの資産家だ。どんな男だって選ぶことができる。もっとも、この証券類を無償で取り戻した私に対する感謝が先に立つことを信じてやまないがね」

 「彼女が助かるのならば、どんな選択だって受け入れますよ」

 ジェラールは額の前で両手を握り締めると、思いつく限りの神へと祈りを捧げた。

 ヴァルネーはそんな若者の姿を見て温かな笑みを浮かべると、そっと立ち上がった。


 近づいて来る杖の音に気がついて、ジェラールは顔を上げた。

 いつの間にかヴァルネーは姿を消しており、すぐ近くに松葉杖を突きながら歩いているナンタス主任警部と彼に寄り添うリスネイ予審判事がいた。

 「こんな時に申し訳ないね」

 ナンタスはそう呼び掛けながら近づいて来る。

 「ルキヤノフの消息は掴めましたか?」

 相手が質問してくる前に、先手を打ってジェラールが問いかけた。

 「それなんだが……まだ確定情報ではないんだが、どうやら奴を乗せたヘリコプターが墜落したらしい」

 「墜落?」

 「まあ、追っ手を撒くための偽装かも知れないがね。進展があったらあらためて連絡するよ。それよりどうだね、二人は?」

 「夫人は手当てを受けてから、今は麻酔の力を借りて眠っています。起きていてもネリーローズは手術中で面会謝絶ですから」

 「そうか……強い娘さんだ。大丈夫、絶対に助かる」

 「勿論です」

 断言するジェラール。

 ナンタスはヴァルネーが座っていた場所へとリスネイの手を借りながら腰を下した。

 「実はだね、ヴィクターから君の事情聴取の内容を聞いて、どうしても確認しておきたかった事が出来てね」

 「……なんですか?」

 怪訝な表情を浮かべながら問うジェラール。

 「君はヘリコプターからぶら下がったルキヤノフを撃てたはずだ。なぜ撃たなかった?」

 ナンタスの質問に一瞬言葉を詰まらせたジェラールであったが、諦めたように素直に白状した。

 「例えどんな悪党でも、個人の感情で人を裁いて命をもって償わせるのは間違ってる。ましてバラトフが犯罪者なら、共犯者であった僕も同類。ルキヤノフの事を非難する権利なんてないんだ」

 「なるほど、大体思った通りだ。なあジェラール君。バラトフ氏が亡くなってこれから君も仕事を探すのだろう? もし気が向いたらパリ市警へ来ないか」

 「警察官ですか、僕が?」

 ナンタスの申し出に驚いたジェラールが彼に目を向けると、主任警部はリスネイの手を借りて立ち上がろうとしている所であった。

 「答えは急がないよ。気が向いたら連絡してくれ」

 そう言い残すと、主任警部と予審判事のコンビは待合室から出て行った。


 「いらっしゃいませ」

 オートゥイユ通りのペンションで帳簿を付けながら受付に座っていたイエゴールは、顔を上げて訪れた客を見ると驚きの表情を浮かべた。

 「おや、珍しいお客さんだ! 宿泊するために来ていただいた訳ではないのでしょう?」

 「ええ。彼が何処にいるか知りたいんです」

 訪問客はネリーローズであった。

 手術から一ヶ月が過ぎようとしていた。まだ彼女の首元には包帯が巻かれており、その下には痛々しい傷跡が残されている。だが、幸い命に別状はなく、呼吸器官や声帯も失われることはなかった。

 「会ってどうするつもりだね」

 「……お礼を言いたいんです」

 じっとネリーローズを見つめるイエゴール。

 暫しの沈黙が二人の間を満たした後、イエゴールは手近にある用紙へと筆を走らせると、ビリッと破ってネリーローズへと差し出した。

 「彼は私の命の恩人だ。私だけじゃない、彼に感謝しているロシア人はこの国に何人もいる。尊敬に値する立派な男だ」

 イエゴールが言いたいことを察して、ネリーローズは想いを込めながらこう答えた。

 「知っています」


 翌朝、ネリーローズは小型のセダンを運転しながら八時前にパリを出た。十一時十五分にはイブトを通過し、更に西へ数キロ行ったところにあるエヌーヴィル村を目指した。

 村へ着くと目に付いた宿屋の前へと車を置き、手続きをしてから村を散策し始めた。

 (ここが彼の故郷か)

 都会で生まれ都会で育ったネリーローズにとっては何もかもが新鮮に感じられる。

 ネリーローズが村の教会の前を通った時、すれ違うように司祭が道の正面から歩いて来た。背の高い年老いた司祭で、赤ら顔の三重顎、いかにも人が良さそうな人物に見えた。

 「あの、司祭様」

 ネリーローズが呼び掛けると、穏やかな笑みを浮かべながら司祭は立ち止まった。

 「なんでしょうか、お若い方」

 「司祭様の教区の信者の中にジェラールという若い男性はおりませんか?」

 ネリーローズの問いかけに司祭は相好を崩した。

 「ジェラール=デヌーヴィルに会いにいらしたのですね」

 「デヌーヴィル? この村には多い苗字なのですか?」

 村の名称に由来した名前なのかと、不思議に思ってネリーローズが問いかける。

 「まさか。御覧なさい、あそこに彼の城の小塔が見えるでしょう?」

 「彼の城?」

 「この村は昔デヌーヴィル家の領地だったのですよ。その名残りでジェラールの父親が戦争で亡くなるまでは彼の一族が代々村長を務めておりました。しかしジェラールは御存知かも知れませんが根っからの風来坊でして、たまに母親へ会いに来るぐらいしか村へは寄り付きません。それでも毎月欠かさず母親へと送金している孝行息子ですよ」

 「では彼はここにはいないのですか?」

 司祭の説明を聴きながらネリーローズは肩を落とした。

 「あなたのお名前をお伺いしても?」

 司祭の言葉に、自分が名乗ってもいないことに気がついてネリーローズは顔を赤らめながら恥じた。

 「ネリーローズ=デストールと申します」

 「ネリーローズ、彼がいるかいないかはあなたがどんな彼に会いたいかによるでしょう。冒険を求めて広い世界へと出て行った少年はもういません。今この村にいるのは平穏を愛する自立した青年ですよ」

 司祭から見定められるかのようにじっと見つめられたが、ネリーローズは毅然とした態度と表情で返答した。

 「きっと、それが私の探していた彼だと思います」

 「そうですか。では彼に会うといいでしょう。今は城には誰も住んでいません。そこの畑を抜けた先にある農場で二人は暮らしています」

 司祭が指し示した道をネリーローズは進んで行った。青々とした小麦と燕麦の畑の間を抜けると、二本並んだブナの木がそびえている傾斜した土地へと辿り着いた。目の前には果樹園と農場が広がっている。

 ネリーローズは農場の入り口の柵を押して中庭へと入った。庭には林檎と梨の木が華やかな彩りを添えている。中庭の斜面の上に真壁造りで藁ぶき屋根の細長い建物が立っていた。建物の扉や窓は開け放たれ、戸口に敷かれた不揃いな石畳が強い日差しを照り返している。

 「こんにちは!」

 戸口から中へ向けてネリーローズが呼び掛けるも返事はなかった。中を覗き込むとそこは台所と居間を兼ねた広い部屋であった。ネリーローズはテーブルの上に飾られている花瓶へと目を留める。

 (リラの花だわ!)

 それはネリーローズがヴァルネーの為に買った花。しかし彼には渡されることはなく、ジェラールとの想い出の一幕を飾った花であった。

 花へと引き寄せられるかのように室内へと入って行ったネリーローズは、そのまま家の中の探索を始めた。してはいけないことだとは解かっている。しかしジェラールと再会する前に現在の彼の事を知りたい気持ちが勝っていた。

 幾つかの扉の前を通り過ぎ、一番端にある部屋へと辿り着くと、その扉は開かれており、寝室であることが見受けられた。人の気配がないことを察すると、ネリーローズは扉からそっと顔を覗き込ませた。

 薄暗い室内の壁に貼ってある雑誌の切り抜きが見える。

 (あれは……)

 ネリーローズは躊躇することなく室内へと踏み込んで行くと、壁の切り抜きへと近づいて行った。それは雑誌〈フランス・ポーランド〉に掲載された彼女の写真であった。そしてその下には色褪せたもう一枚の写真が貼られている。幼い少女が写されたその写真を手に取って裏返すと〈ネリーローズ=デストール、十歳〉と書かれていた。

 ネリーローズは驚きと喜びに体を震わせ、立っているのが難しくなり、彼のベッドへと座り込んだ。

 (彼は待っていてくれたんだわ!)

 目尻から一筋の涙が頬を伝った。無意識に首に巻かれた包帯へと手を当てる。

 (きっと彼なら今の私も受け入れてくれる)

 その確信を得たネリーローズは、立ち上がって寝室から出て行った。


 干し草の荷馬車を引っ張る馬の手綱を引いたジェラールが納屋へと入って来た。強い日差しに照らされているにも関わらず、彼は帽子もかぶらず日に焼けた肌を晒したシャツ姿で青い作業ズボンを履いている。その足元には長い毛を生やした子犬が纏わりついていた。

 「ネリ―、危ないから下がってろって」

 ジェラールが子犬へと声を掛けるが、相手は全く聞く耳を持っていなかった。

 「全く! 彼女みたいに頑固な子だな」

 呆れた様に嘆息するジェラール。

 「あら、それは誰のことかしら?」

 待ち焦がれていた女性の声音に振り返るジェラール。納屋の入り口にはネリーローズが立っていた。

 「ネリーローズ……」

 ジェラールの手元から手綱が滑り落ちると馬は大人しく自分の馬小屋へと帰って行く。子犬は馬の後を付いて馬小屋へと入って行った。

 「夢みたいだ……まさか君がここへ来てくれるなんて」

 ジェラールは感激のあまりに呆然自失となっていた。

 「あなたにお礼を言いたかったの」

 ネリーローズの言葉を聴いて、ジェラールは現実へと引き戻された。

 「そう、なんだ。別に手紙でも良かったのに。ヴァルネーは元気かい?」

 ジェラールはそう問いかけながらも作業へと戻った。荷台の干し草を納屋へと下ろして行く。

 「知らないわ。会ってないから」

 ネリーローズはあっけらかんと答えた。

 その言葉に再びジェラールの手が止まる。

 「会ってない? なぜ? 彼は君に油田の権利書を渡してプロポーズしたんじゃ……」

 ジェラールの質問はネリーローズの笑い声に遮られた。

 「フフフッ。そう、あなたは彼との勝負に負けたのだったわね。朝の七時までに私を落とせなかった。でも私も彼と勝負していたのよ」

 「えっ? どういうことだい」

 突然のネリーローズの告白にジェラールは戸惑いを露にした。

 「あの夜、あなたが私の家へ来る前に彼はこう言ったの。『もし彼が権利書を盾にあなたを口説こうとしたら、あなたは私と一緒に来た方がいい』って。だから私はこう言ったの。『彼はそんな卑怯なことはしないわ』と。すると彼はこう提案したわ。『では賭けをしましょう。もし彼があなたの前で権利書の話を持ち出さなかったら、私は黙ってあなたから身を引きますよ。その代わり、その逆だったら……』。だから彼とはあの日以来会っていないの」

 会話をしながら一歩ずつネリーローズがジェラールへと近づいて行く。

 「ネリーローズ、君が権利書の事を知っていたとは思わなかった。だけど僕が持っていたのは偽物だったんだ」

 「本物か偽物かは関係ないわ。あなたは本物だと思っていたのでしょう?」

 「ああ、そうだ」

 「なぜ、それを使って私を口説こうとしなかったの? ママが破産に直面していた私にはその権利書は喉から手が出るほどに欲していた物なのに」

 ジェラールの目の前に立ったネリーローズは目を輝かせながらジェラールを見上げた。

 「なぜって……それをダシに君を抱いたら、それは愛ではなく謝礼になってしまう。そんな事を僕は望んで……」

 ジェラールの言葉は背伸びしたネリーローズの唇によって遮られた。

 一瞬驚きに目を見張ったジェラールだったが、すぐに彼女の背中へと手を回し、その体を強く抱き締めた。

 二人の唇が離れるとネリーローズが微笑みかける。

 「初めてのキスは私からって決めてたの。それが〈進歩的な女性〉だとは思わない?」

 「進歩的か。君はこの農場で暮らしていけるかな? 無理なら僕がパリへ行くけど」

 「あら? お城で暮らすなんておとぎ話みたいでどんな女性にとっても夢見てた生活よ」

 顔を綻ばせる彼女を失望させないようにジェラールが言葉を選びながら告げた。

 「残念だけどネリーローズ。朽ちたあの城を修復できるほどの財産はないんだ」

 「そうでしょうね……でも私にはあるわ」

 ジェラールは自信に満ち溢れた顔のネリーローズを見返した。

 「まさか……」

 「言ったでしょ、私は彼との賭けに勝ったって。ねえ、お母様にお会いしたいわ。私を娘だと認めてくれるかしら」

 無邪気に問うネリーローズを見つめながら、ジェラールは尊敬の念を籠めて笑みを浮かべた。

 「勿論さ。行こう! ほら、ネリー! 一緒においで」

 ジェラールが差し出した手をネリーローズが握り返した。

 二人が納屋から出て行くと、慌てた様子で子犬がキャンキャンと鳴きながらその後を追って行った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

真夜中から七時まで 南野洋二 @nannoyouji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ