真夜中から七時まで

南野洋二

第一部

1 私はお望みのものを何でも差し上げます。


 確かにデストール夫人は魅力的であった。

 フェリックス=フォールが大統領だった時代に、夫人はこの美しさによって大金持ちの実業家デストール氏から求婚されたのだった。

 しかしデストール氏は彼女の溢れんばかりの色気と、非常識な行動、そして浪費癖によって生涯困惑され続ける羽目となった。

 夫亡き今、肌に浮かぶ赤い斑点は化粧でも誤魔化し切れておらず、体形もふくよかになってはいたが、同年代の慎み深い淑女たちと異なる彼女の性質は、それらを己の武器とする術を知っていた。

 サイモンもそんな彼女に魅了された一人である。

 トロカデロ広場を窓の外へと望む広々とした部屋。豪華な家具類はいささか乱雑に並べられ、色も若干褪せている。そのアパルトマンに暮らす女主人は今恋人との情事を終え、ベッドへと横になりながら余韻に浸っていた。すると隣室からピアノとヴァイオリンの協奏曲が聴こえて来る。先程からずっと鳴り続けていたのだが、情事に耽る夫人の耳には届いていなかったのだ。

 「ドミニックとヴィクトリーヌかい?」

 隣で息を整えていたサイモンが半身になって夫人を見つめながら問いかけた。

 「困ったものね」

 夫人が怒り気味に呆れると、サイモンが笑った。

 「女主人の嬌声を隠す為だよ。素晴らしく気の利くメイドとコックじゃないか!」

 「あら? あなたの喘ぎ声の方が大きかったと思うけど」

 持ち前の負けん気を発揮して夫人はサイモンを非難する。

 「まあね。君のような素晴らしい女性と共にいるんだ。声も大きくなるってものだよ」

 サイモンは悪びれずに答えた。

 その間にも流れている音楽が『バラのワルツ』から『美しき青きドナウ』へと変わった。

 プロ並みとは言えないものの、女主人とその娘が外出するやいなや、日々練習に明け暮れているメイドのピアノとコックのヴァイオリンは耳に不快感は与えなかった。

 気づけばいつの間にか夫人の横でサイモンが寝息を立てている。

 夫人は彼を起こさないようにそっとベッドから降りると、壁際に置かれた大きな姿見へとその裸身を晒した。

 肉感的なその全身は確かに男好きのする体であった。それでも日に日に美しくなって行く娘のネリーローズと比べると自分の肌に張りが足りないことは認めざるを得ない。

 まだ女としての愉しみを知らないネリーローズは青い果実のようだ、と夫人は思った。

 事実、ネリーローズが〈三銃士〉と揶揄する夫人の恋人たちは娘には何の興味も示さない。夫人が経済面に優位であるのも確かであったが、ネリーローズを知れば知るほど、世の紳士たちは彼女から背を向けて行くのだ。なぜなら、ネリーローズが〈進歩的な女性〉であるからだ。

 「私があなたの年頃には青春を謳歌していたわ」

 夫人は事あるごとに娘へと恋することを勧めていた。

 ネリ―ローズはそのたびにこう言い返すのだった。

 「まあ、ママったら本当に時代遅れね。いまどき口説くなんて流行らないのよ。女の人だって学問を習得してお互いが認め合う相手と一緒にならなきゃ、恋が冷めた後に残る物なんて後悔しかないわ!」

 ある意味では娘が正しい、夫人もそう思う。だからこそ結婚相手に資産があるかどうかが重要なのだ。何と言ってもネリーローズは贔屓目なしに見て美しい娘なのだから。

 (そういえば、ヴァルネーとかどうなのかしら?)

 夫人は最近知り合った株式仲買人を思い浮かべた。齢は四十代後半かと思われるが、若い頃はさぞかし浮き名を流したであろう唯一無二の魅力を持つ色男である。

 もうネリ―ローズも二十歳。結婚を考えてゆくべき年齢だ。

 父と子ほど歳は離れているが、ヴァルネーからは溢れんばかりの若々しさが感じられる。

 それに、何と言っても底の知れない経済力があった。

 夫人はベッドの脇にある小机の上に置かれた、封の開けられていない銀行からの手紙へと目を移した。

 読まなくても内容は解かっている。

 この活気と情熱に溢れた暮らしは、もう間もなく終わりを告げるのだ。


 一般的な会社は休日となる土曜の午後。パスツール研究所では若き研究員たちが寸暇を惜しまず学術研究に勤しんでいた。

 そこへ小型のセダンに乗って出勤したネリーローズが研究室内へと入ってきた。背が高く細身で褐色の髪。シンプルで誰が見ても趣味が良いと答える服を着ている彼女は輝かんばかりに美しい。しかもこの美しさは、彼女に接する男たちの欲望を掻き立てると同時に、本能的な敬意を抱かせるものであった。その最大の要因は彼女の無邪気な表情と、純真な青い瞳にある。彼女の誠実な視線は、相対する相手の心を剥き出しにして邪な感情を恥らわさせるのに充分な効き目があった。勉強家でスポーツ好きで健全な彼女は、妖しげな好奇心に唆されたり、周りに流され虚栄心に囚われたりすることもなく、如何わしい感情とはまさに無縁の存在なのであった。

 「おはようフェルネ! おはよう、ラコスト! みんな、おはよう! 今日も働きに来るなんて、本当に素敵な仲間たちだわ! おはよう、クセーニア! 元気?」

 ネリーローズは次々と差し出される同僚の手を握りながら挨拶を交わした。

 ポーランド女性であるクセーニアはネリーローズの親友で、背が低く若干骨張ってはいたが、明るいブロンドの髪と活き活きとした表情でネリーローズと共に職場の華であった。

 「おはよう、じゃないわよ、ネリーローズ! 昨日の委員会での発言を覚えてる? 自分が何を言ったのかわかってるの?」

 「勿論よ! 自分の言葉くらい自分で責任取れるわ」

 話はこれでおしまい、とばかりに引き止めるクセーニアを振り切ってネリーローズは白衣へと着替える為、研究室の奥へと引っ込んで行く。

 「委員会って昨日ホールで行った慈善事業計画委員会のことだろ?」

 黒髭を生やした背の高い青年であるフェルネが鼈甲の眼鏡の縁を弄りながらクセーニアへと問いかけた。

 「そう。教授の推薦でネリーローズが秘書になった最初の委員会」

 クセーニアは溜息を吐きながら答えた。

 「本当に色々やってるんだな、ネリーローズは。彼氏を作る暇もないじゃないか」

 鈍色の金髪で顔にあばたの残る青年ラコストが笑いながら茶化す。

 「それが問題なのよ」

 クセーニアが諦めたように天を仰いだ。

 「どういうこと? 何かあった?」

 研究の手を止めてフェルネが興味津々に問い質したので、クセーニアは呆れ気味に話し始めた。

 「初めにネリーローズが慈善事業計画の経理状態について説明を始めたの。数か月前に始めた募金には初めは高額の寄付も幾つかあったし、気前の良い援助も何件か続いたけれど、それから急に関心が失なわれて必要とされていた数百万フランは集まりそうになくなってしまったのよ。彼女自身が推進していた募金計画だったから、経理状況を報告するだけのはずだったネリーローズが段々と熱弁し始めて、来場していた身分の高そうな御婦人方と多くの勲章を胸に飾った紳士たちの間にも感嘆と賛美の声が沸きがっていたわ。そこから真剣な議論が始まって人々の関心を集める為に返礼付きの寄付が提案されたの。で、返礼品をどうやって集めるかがまた問題になって話が行き詰った時に、またネリーローズが発言したのよ。『一人一人が持っている物を提供すればいいのです! 画家ならば絵を描き、作家なら署名入り原稿を、音楽家なら演奏だっていいでしょう。求められるのは何も才能だけではありません! あなたの身の回りにある骨董家具だっていいのです!』と。そうしたら一人の貴婦人がネリーローズへ『あなたは何を提供して下さるの?』って訊いたのよ」

 「へぇー、ネリーローズは何を提供するんだって?」

 ラコストも目の前の研究を放り出してクセーニアの話に聴き入っていた。

 「『私はお望みのものを何でも差し上げます。何でも差し上げる用意があります!』ですって。どうかしてるわ」

 クセーニアの答えにフェルネが口笛を吹いた。

 「それって返礼品としてネリーローズ自身を望んでもいいってこと?」

 当然、冗談のつもりでフェルネは発言したが、クセーニアは笑っていなかった。

 「会場にいた紳士淑女の方々はあなたのように笑っていたのよ、フェルネ。望むもの全ては大袈裟だって。そうしたら同席していたポーランド人の雑誌記者、まあ私のいとこのアダムなんだけど、彼が感動の余りネリーローズへ近づいてこういったのよ。『君の発言はとても素敵で素晴らしいよ、ネリーローズ! 大胆かつ献身的で、絶対成功間違いない! 是非このことを記事にして雑誌〈フランス・ポーランド〉に掲載させてもらうよ。募金活動に熱情を傾ける君の写真も何枚か撮らせてもらったしね』。だから私は止めたのよ。でもみんなに嘲笑されたネリーローズは意地を張ってこう答えたの。『ありがとうアダム。この募金計画にはあと五百万フラン必要だって書いておいてね』ですって」

 「ワーォ!」

 途方もない金額にラコストは呆れ、フェルネは言葉を失った。

 「面白可笑しく話を広めるのはやめてもらえないかしら、クセーニア」

 白衣に着替え戻って来たネリーローズは親友を非難しながら、実験器具の準備を始める。

 「話題作りよ。小娘一人に五百万フランの値段を付ける愚かな人がいると本気で思っているの?」

 ネリーローズが同僚たちへと笑いかける。

 「まあ、確かにね。五フランだったら僕が出すよ」

 フェルネの言葉に皆が笑った。

 笑いの輪から外れたクセーニアがネリーローズへは聴こえないように小声で呟いた。

 「本当に男を解かっていないのね、ネリーローズ。あなたは現実の外側にいるんだわ。現実とはとても深刻で、時に厳しいものなのに」


 小型セダン車を駐車したネリーローズは、ドーム状の入口をした豪奢な建物へと入って行くと、管理人室で自分たち宛ての郵便物を受け取り、二階へと続く階段を昇った。デストール家のアパルトマンは三階に位置している。自宅のサロンへ入るとそこでは母と彼女の〈三銃士〉、そして最近出入りし始めた〈ダルタニャン〉ジュスタン=ヴァルネーがブリッジ用のテーブルを囲んでいた。

 「あら、おかえりなさい。ヴァルネーさんから聞いたわよ。あなたの軽率な発言のこと」

 娘の帰宅に気づいたデストール夫人が笑いながら声を掛けた。

 それを受けてネリーローズの顔は恥じらいで真っ赤になり、ヴァルネーを睨むように見つめた。だが当の紳士は飄々と気づかぬ振りをして目の前のゲームへと興じている。

 「ヴァルネーさん、委員会へいらしてくださったのですね。さぞかし高額な寄付をしていただけたことでしょう。お礼申し上げますわ」

 ネリーローズは嫌味をたっぷりと込めて呼び掛けた。当日の委員会での募金に関して彼女が把握していない支援者はいないのだ。

 ネリーローズに声を掛けられ、ヴァルネーが皆に断って席を立つと彼の代わりにデストール夫人が四人目としてゲームへと加わった。

 ヴァルネーは背が高くがっしりとした体格の中年で、スマートな装いに身を包み、流行の短い口髭を生やし、髪をカールさせている。ネリーローズが揶揄してあだ名とした〈三銃士〉のダルタニャンにはまるで似ていない。

 「寄付という一時的な善意には興味がないのですよ。何かをやるのならば長期的計画に基づいて私自身が結果に責任を持って支援しなければ無意味だと思っていますので」

 ネリ―ローズの傍へと近づくと、ヴァルネーは彼女を身振りで隣の部屋へと誘った。

 突然の申し出にネリーローズは躊躇したが、扉を閉めて二人きりにならなければ問題ないかと考え、彼の後に続いて隣の小部屋へ入った。豪華な部屋ではあるが、使い古され、サロンと同じように雑然としている。

 「寄付するつもりがないなら、なぜ委員会へといらしたの?」

 部屋へ入るなり、ネリーローズが非難するかのように問いかけた。

 「まあ職業柄、お金の有り余っている人々と知り合いになる機会は常に窺っていますからね。ちょうど夫人からあなたの委員会について教えていただいたので、顔を出してみたのですよ。なかなか感動的なスピーチでした」

 ヴァルネーの口調からは褒めているのか馬鹿にしているのか真意が掴めなかった。

 「ということは、あなたは募金活動に対するライバルというわけね」

 ネリーローズは剥き出しにした敵意を隠そうともしなかった。

 するとヴァルネーが苦笑しながら否定する。

 「そう捉えて欲しくはないですね。私の仕事はお客様の資産を増やすことですから。増えた分、寄付もしやすくなるでしょう。あなたの弁論を聴いて、利益の何パーセントを寄付するような商品を作ってもいいかな、と思い始めているくらいでして」

 「あら、口が上手いですわね」

 「あなたには協力したくなるほどの魅力があるということですよ」

 突然会話の内容に口説き文句が混じったことで、ネリーローズは警戒し始めた。

 「ヴァルネーさん、お言葉は嬉しいのですが、そういう安い口説き文句はもっと安い女性のいる場所で披露していただけませんか」

 「おっと、これは失礼。五百万フランの女性の前で失言でした」

 ヴァルネーの皮肉にネリーローズはより一層顔をしかめた。

 「一体あなたは私を口説きたいのか、小馬鹿にしたいのか、どちらをしたいのかしら?」

 「私はこれまで恋を謳歌する人生を送ってきましてね。そこで解かったのですが、片想いほど質の悪い病気はないと。恋に恋しても相手には届かないものなのですよ。縁さえあれば、例え傍にいるだけでも道は開けるものです」

 ヴァルネーの言葉の真意は恋に疎いネリーローズには響いていなかった。

 「では残念でしたね、私たちの間に縁などありません。あなたは笑うでしょうけど、私は奇跡を信じているの。ハンサムな青年がビロードの服を着て、素敵なブーツを履いて私の前に現れるのよ。その青年は勇敢で鼻歌混じりに危険を乗り越え、大胆不敵に困った人々を救っていくの」

 「なるほど。二十年ほど前ならばそういう青年に心当たりは有ったのですがね」

 ヴァルネーはなぜか自嘲気味に呟いた。

 「例え彼に資産がなくても構わないわ! 彼は父が残した遺産を見つけてくれるから。母と私が受け取るべき正当な権利よ。そして三人で幸せに暮らすの」

 「ルーマニア油田の権利書ですか。夫人は四千万フラン相当だとおっしゃってましたね」

 ヴァルネーの言葉を受けて、夢見がちに語っていたネリーローズが現実へと帰ってくる。

 「まあ、母はあなたにそんなことまで話したのね! 父はドイツ軍がルーマニアへ侵略した際に死んでしまったわ。でも権利書を父と親しかったロシア人に託したらしいの。後はそのロシア人を見つけるだけ。ロシア革命の嵐が吹き荒れたせいでその人の行方は判らなくなってしまったけれど」

 嘆息するネリーローズに対して、ヴァルネーは確信を持ってこう告げた。

 「見つかるといいですね、そのロシア人が。その時、きっとあなたは遺産と一緒に運命の人も見つけることになるでしょうから」



2 君に逢いたくてね。


 ロシアの春は凍える寒さからまだ解放されていなかった。雪は地面を覆いつくし、朝の透き通った空気の中でも微かな冷気を伴って風花が舞っている。

 ポーランド国境にほど近い小村。いつもと同じようで少し違う朝を迎えたその村では、決して豊かとは呼べない生活をしている住民たちが小さな広場へ集まっていた。その輪は広場の中央にある教会の石段に座った一人の男を囲んでいる。

 男はアコーディオンを伴奏に、この土地の民謡である『ヴォルガの舟歌』を歌っていた。

 古いハンチング帽を目深に被り、両耳の上に帽子の縁を下ろしている。右目に垢まみれの包帯をしている為、顔の半分が隠れていた。履いている長靴は継ぎだらけで、身に纏った服はボロボロで生地の色すら判らなかった。猫背の肩に頭陀袋を担いでいるが、そこには男の全財産である毛布や水筒が入っているに違いなかった。

 年齢すら判らない冴えない顔付きをした男であったが、声には張りがあり、アコーディオンも壊れて出ない音がある以外は大きく音を外すことはなかった。

 脳裏に蘇る懐かしい想い出に浸りながら、村人たちは黙って男の歌声に聞き入っていた。

 間もなく男の演奏が終わると、村人たちは感謝の気持ちとしてパンの欠片やウォッカを一口、男へ差し出した。男は飢えを満たすかのようにガツガツを飲み食いする。

 そんな男の姿を見た一人の女が自宅から甜菜入りのボルシチを一椀持ってくると、男は一気にそれを平らげた。体が温まったのか、男は村人たちへ向けて微かに頭を垂れるとアコーディオンを頭陀袋へとしまい、片脚を引きずりながら広場から立ち去って行った。

 宴の終わりを知った村人たちも普段通りの平穏な日常へと戻って行く。

 男はそのまま村の近くにある暗い森へと入って行った。

 周りに誰もいないことを確認すると、男は体を真っ直ぐに立て直し大きく背伸びをした。顔の包帯を取り外し、森の空気を全身で吸い込んで行く。

 (やれやれ、とんだ寄り道だったな。まさか遠回りをして日が暮れるとは思わなかったから、変装しておいて良かった。宿も朝食も誰にも疑われることなく手に入れられたぞ)

 乞食の変装を解いた男の名前はジェラール。年齢は二十代後半、背が高くスマートでスポーツ選手のように逞しい体つきをしている。端正な顔立ちには鋭い知性と信念を曲げない強い意志、自分の行動に対する自信が溢れていた。何よりも印象的なのはその青い瞳で、柔和であり陽気な雰囲気が浮かんでいる。その澄んだ瞳に見つめられた女性が彼を拒絶するのは、至難の業であるに違いなかった。

 ジェラールはボロボロの衣服を脱ぎ捨て、頭陀袋からビロードの服を取り出して着替えた。アコーディオンを木陰へと置き捨てると、がっしりとした靴を袋から出し、その中に隠してあった一枚の羊皮紙を取り出してボロ靴を脱いで履き替えた。

 その紙はこの旅の目的であるヴァリーヌ伯爵の遺産を示している地図であった。

 ロシアへ来て最初に訪れた伯爵の以前の邸宅で起こった一騒動のせいで、追っ手を撒くために彼は変装しなくてはならない羽目となった。それでも伯爵夫人の署名入り紹介状と多少の幸運、彼に好意を寄せてくれた召使の女性のおかげで、伯爵が革命の波から逃れるために利用していた隠れ家を知ることができたのだ。

 ジェラールは森を抜けると、一面雪で覆われた道に沿って歩き続ける。一時間ほど歩くと丈の高い樅ノ木の植えられた庭園が見えてきた。庭園の傍には一塊に並んだ農家が見える。やがて庭園を見下ろすように建てられた城館も姿を現した。

 ここまで来れば目的地は判っていた。伯爵夫人の元に残されていた隠し場所を記した地図には樅ノ木と農家、そしてその中庭に井戸が描かれていたからだ。その井戸の場所を特定するためにジェラールはロシアへとやって来たのだった。

 雪の平地を突っ切ってジェラールは廃屋と化した無人の農家を一軒一軒覗いて行く。中庭にある井戸の前に立って樅ノ木の配置と地図を照らし合わせる。

 その作業を繰り返すうち、ついにピタリと合致する井戸を見つけ出した。

 「求めるならば手を伸ばせ」

 ジェラールは地図に書き込まれた暗号のような詩を読み上げながら、井戸へと近づくと身を屈めて内側の壁面沿いに手を伸ばした。するとそこには錆びたつるはしが吊るされていた。

 「真昼の影を捕らえよ」

 ジェラールは頭陀袋から懐中時計を取り出すと時刻を確認する。井戸につるはしを立て掛けると雪に伸びたその影を目で追い、手紙が書かれたであろう季節と現在時刻との誤差を脳内で計算して、つるはしを手に持って影の先端があった場所から少し離れた場所へと立った。地面の雪を取り除くと、つるはしで深く掘り始める。すると間もなくつるはしの先端がガチッと何かの金属にぶつかった。ジェラールが金属の周囲を掘り返すと、鉄製の手箱が姿を現した。

 (さてさて、ここからだな)

 ジェラールが手袋を外して、その手箱をロックしているダイヤル錠へと向き合う。

 (伯爵の誕生日……夫人の誕生日……娘の誕生日……ダメか。ロシア革命ならどうかな……一九一七.おっ、ビンゴだ!)

 開かれた手箱の中には、白銀の世界から照り返す光を受けて輝きを増した、真珠の連なる見事なネックレスが入っていた。

 思わず口笛を吹くジェラール。

 (こいつはバラトフもビックリだな。さぞかし喜ぶだろうよ)

 手箱には他には何も入っていない。

 (用心深いのは良いことだ。知らなければこれで満足するだろうしね)

 ジェラールは真珠をポケットの一つへ滑り込ませると手箱の底の深さと外観を見比べた。二重底を疑っていたのだが、すぐに違うと気がつく。何らかの紋様がデザインされた蓋を細心の注意を払いながら観察していると小さな針の穴のようなものを発見した。

 ジェラールは頭陀袋に留めていたピンを抜き取り、真っ直ぐに伸ばすとその小さな穴へと差し込んで行く。

 カチッと音がして蓋が上下に分かれた。その中には書類が入っていると思われる布袋が隠されていた。布袋には〈我が親友ユージン=デストールへ〉と書かれている。

 (こいつで間違いないな)

 ようやく目的を達成したジェラールが安堵の溜息を吐く。

 すると背後で撃鉄を立てるガチッという音がした。

 右手に布袋、左手に手箱を持ったままジェラールは黙って両手を上に挙げた。

 「利口になったじゃないか、フランス人よ」

 ジェラールの背後から、ヴァリーヌ伯爵邸の現在の主であるアレクサンドル=ルキヤノフが拳銃を構えながら呼び掛けてきた。

 「召使が知っていることを私が知らないとでも思ったのか? おまえがヴァリーヌ伯爵の遺産を見つけ出すまで泳がしておいたのだ」

 ジェラールは両手を上げたままルキヤノフへと向き直ると、左手に持った空の手箱を振って見せた。

 「なるほど。ではその布袋をもらおうか」

 ジェラールは言われるがままに右手首だけスナップさせて布袋を放り投げた。二人の中間地点へと布袋が落ちると書類の重さで雪に埋もれて行く。

 「こいつめ! 拾え!」

 ルキヤノフに促されるまま、ジェラールは埋もれた布袋へと近づいて行き、雪の中から袋を拾い上げる。そのままルキヤノフ目掛けて弧を描くように高く放った。

 ルキヤノフの目線が布袋へと移った一瞬の隙を見逃さず、ジェラールは鉄製の手箱を彼に向けて勢い良く投げつけた。ルキヤノフが視線を正面に戻した途端、彼の顔面を手箱が直撃する。その勢いで倒れ込んだ彼の上へとジェラールが伸し掛かり、拳銃を奪い取った。

 「さあ、どうするロシア人。ここを白銀の墓標とするか、伯爵の遺産のことをすっかり忘れて家に帰るか選ばせてやる!」


 手刀で気絶させたルキヤノフを近くの農家へと押し込むと、ジェラールは布袋を開け書類の束を広げてみた。その中にはユージン=デストールの名前が書かれた不動産証券と、サイデウィッツ油田購入の際に発行された三十万フランの領収書が混じっている。

 (こんな物の為に殺されちゃあ、命が幾つ有っても足りないな)

 ジェラールが嘆息しながら書類を布袋へと戻す。すると書類の中に紛れていた一枚の写真が床へと落ちた。

 〈ネリーローズ=デストール、十歳〉

 写真の裏にはそう書かれている。拾い上げたジェラールはその写真に写された少女の透き通るような青い瞳に魅せられた。

 (十年前だとしたら、今は二十歳か。まあ、会うことはないだろうけど、さぞかし美人になっているだろうなぁ)

 唐突にジェラールは危険を承知の上でルキヤノフの館へと戻る覚悟を決めた。

 (バラトフが酸っぱく言ってたっけ。『目的は証券類の入手だ。伯爵夫人の娘の救出は必要な情報を引き出す為の建て前だからな』って。確かに一度は断念したけど、館の主はここで伸びているわけだし、多分足も有るだろう)

 そうと決めればジェラールに迷いはなかった。

 「こいつは僕には必要ないから返しておくよ」

 ポケットに入れておいた拳銃を、意識を失っている男の足元へと置いて農家を出る。

 案の定、樅ノ木の庭園の傍にはルキヤノフが乗って来たトロイカが停められていた。

 トロイカを駆ったジェラールは小一時間ほどでルキヤノフ邸へと辿り着いた。

 屋敷の近くへとトロイカを乗り捨てると、そのまま召使通用口へと向かう。

 扉を開けると丁度そこには召使の一人であるイリーナがいた。

 イリーナは愛嬌のある顔立ちをしたふくよかな女性だった。

 「ジェラール! なんで戻って来たの?」

 苦労して逃がした男が再び現れたことに対してイリーナが非難した。

 「君に逢いたくてね」

 厚顔無恥に言い放つジェラール。

 「えっ?」

 思いも寄らない言葉に頬を染めるイリーナ。

 「それにスターシャをお母さんの元へ返してあげたくなったんだ」

 「そういうことね」

 ジェラールの本音を聞いて、イリーナは少し不機嫌になった。

 「昨日の今日で解かってるとは思うけど、あなたにお嬢様を連れ出すのは無理よ。塔の個室に幽閉されている上に、彼女自身が誰にも心を開かないんですもの」

 「母親に会えると言ったら付いてくるんじゃないかな」

 「それはそうでしょうけど、あなたが塔の部屋まで辿り着くこと、お嬢様と対等に話ができる状況まで持っていくこと、そして彼女を連れて屋敷を出ること。この三つを無事に行うのは奇跡でも起きなきゃ無理よ」

 「確かにね。でも君なら?」

 明け透けに依頼するジェラールに呆れて、イリーナはまじまじと彼を見た。

 「私に全てを捨てろって言うの?」

 「パスポートは持っているかい?」

 「ええ、一年有効のね。旦那様に命じられて毎週一回、荷馬車でポーランドへ食料品を買いに行くのよ。国境の船着き場にいる警官たちはみんな私の事を知っているわ……ああ、もう! しょうがないわね! 言っておくけどあなたの為じゃないわよ。こんなところに閉じ込められているお嬢様の為だからね!」

 ジェラールの問いに答えながら、イリーナは自分の中で答えを出していた。

 「君は本当に素敵な女性だ」

 ジェラールがイリーナへと顔を寄せる。

 「キスなんかしないわよ」

 そう言いながらイリーナはジェラールを正面から見つめた。

 二人の唇が重なり合う。

 そのままジェラールはイリーナの体を抱え込むように床へと寝かせて行った……。



3 報酬はもういただきましたよ。


 イリーナが手綱を握る荷馬車が国境を渡る筏から降ろされると、それまで荷台に積まれた藁の中で息を潜めていたジェラールとスターシャが顔を出して大きく息を吸った。

 スターシャの歳の頃は八歳くらい。輝かんばかりの金髪を持つ少女である。

 これまでジェラールを警戒して心を開かなかったスターシャだったが、藁にまみれたジェラールの姿を見て初めて笑い声を上げた。

 ジェラールもおどけながら微笑み返す。

 「あなたは良い人ね」

 唐突にスターシャが決めつけるような口調で断定した。

 「君はお利口で頑張り屋だ。もうすぐお母さんに会えるからね」

 ジェラールはスターシャの髪から藁屑を取りながら、彼女の頭を撫でた。

 スターシャは黙って頷いた。ジェラールはそんな少女を見ながら思った。

 (可哀相に。ずっと希望に裏切られ続けて、期待することすら諦めてしまったんだな)

 「いいかい、スターシャ」

 ジェラールは彼女の目を見つめながら呼び掛けた。

 「君が信じなければ何も実現できないよ。お母さんに会いたいのならば、まずは君自身がお母さんに会えることを心の中から信じるんだ」

 スターシャは再び黙って頷くと言葉を発した。

 「分かった。私はママに会えるって信じてる」

 「そうだ。君の願いは絶対に叶うからね」

 ジェラールはスターシャを胸元へと引き寄せ、がっしりと抱き締めた。

 やがて荷馬車はジェラールが指示した一軒の家の前で停まった。

 同時に家の扉が開かれて、高価な服を着た五十歳くらいのロシア人が姿を現した。背が高くどっしりとした体型の男は、血色の良い大きな顔に誰一人として信じていないような不信感を刻み込み、ずるがしそうな表情を浮かべている。

 「おかえり、ジェラール! 相変わらず日程通りだな。首尾はどうだったね?」

 「ああ。バッチリだよ、バラトフ」

 ジェラールの答えを聞きながらイワン=バラトフは御者台に座るイリーナを値踏みした。

 (相変わらず女に拘りがない奴だ)

その目線がジェラールの隣で抱えられるように丸くなっている少女へと移った。

 (ほお、こっちはなかなかどうして……)

 「まずは証券を貰おうか」

 バラトフの呼び掛けを受けて、ジェラールが布袋を放り投げる。受け取ったバラトフは中身を確認してニヤリと笑った。

 「よくやった。報酬は用意してある。少女を置いてそちらの女性と何処へでも行くがいいさ」

 バラトフは荷台に座るスターシャへ向かって手を差し伸べるも、彼女はジェラールにしがみついて離れなかった。

 「そうは行かない。この子と約束したんだ、母親に会わせると」

 ジェラールが明確な拒否を示すと、バラトフは機嫌を損ねた。

 「ハッ! 好きにするがいいさ!」

 そのまま布袋を手に家の中へと戻って行く。

 ジェラールは荷台から飛び降りると、スターシャを抱え上げて荷馬車から降ろした。

 すると御者台からイリーナが呼び掛けてくる。

 「じゃあね、ジェラール」

 「何処へ行くんだい?」

 ジェラールは慌てて問いかけた。

 「こっちに友達がいるから、しばらくはそこにいるわ。きっとあなたはフランスへ帰って、私の事なんか想い出しもしないわよ」

 イリーナは明るい声を振り絞りながら答えた。

 「そんなことはないさ。いつでも逢いに行くよ」

 「いいのよ。あなたはあなた、私には私の人生があるもの。じゃあね、スターシャ。お母様とお幸せにね」

 それ以上ジェラールに何も言わせないまま、イリーナは手綱を振って荷馬車を走り出させた。

 「ありがとう、イリーナ!」

 スターシャが精一杯の声を張り上げて叫ぶ。

 ジェラールは彼女の横に立って黙って荷馬車を見送っていた。

 「行っちゃったね」

 スターシャが寂しそうに呟く。

 「僕たちも行こうか」

 ジェラールがスターシャの背中を押して家の中へと導いて行った。

 この家はポーランド側のロシアとの国境近くに構えたバラトフの別荘で、主にジェラールがロシアから持ち帰った物の受け渡しや、バラトフの顧客との面会に使われていた。豪邸ではなかったが、周りを庭に囲まれた住み心地の良い家だった。二階にあるゲストルームも街中のホテル並みに準備されており、ジェラールも任務完了後には一泊して旅の汚れや疲れを取るのが常であった。

 今日はジェラールが帰国を予告してあった日の為、娘の無事を祈って居ても立ってもいられなかったヴァリーヌ伯爵夫人がバラトフに頼み込んでゲストルームへと前泊していた。

 ジェラールたちがその部屋の前へと立つと、開かれたドアの隙間からバラトフの声が聴こえてきた。

 「……この証券類は私が責任を持ってフランスのデストール夫人へとお届けいたしますのでご安心下さい」

 「ああ! 有難うございます、バラトフさん! これで主人も安心して眠れることでしょう。それで娘は……?」

 伯爵夫人は長い間、胸に抱いていた希望を打ち砕かれるのを拒むかのように、恐る恐る尋ねた。

 「それなんですがね、伯爵夫人。問題が発生しまして……」

 バラトフは報酬を釣り上げる為に勿体ぶりながら言葉を濁した。

 「お金なら幾らでも払います!」

 「そうはおっしゃっても、もうあなたにはそれほどの資産は残されていないでしょう。そこで私が提案したいのは……」

 「その提案は僕が却下する!」

 バラトフの言葉を遮りながら、ジェラールが室内へと入って来る。その後ろから駆け出したスターシャが母親の胸目掛けて飛び込んで行った。

 「ママ!」 

 「ああ! スターシャ! スターシャ! 夢じゃないのね! ああ! 神様、有難うございます!」

 涙を流しながら抱き合う親子の姿を見て、ジェラールが温かい笑みを浮かべる。

 一方でバラトフは不満を撒き散らすかのように激しく舌打ちを繰り返した。

 「全く! おまえという奴は! 交渉という言葉を知らんのか!」

 怒りをぶつけられてもジェラールは涼しい顔をしていた。

 「目的は証券類だろ? 娘はおまけだって。二重に報酬を得ようとするのは感心しないな」

 「依頼人が違うだろう? 証券類は別筋からだ。これでは我々は伯爵夫人の為にタダ働きしたことになってしまう。示しがつかんよ!」

 ジェラールは怒り心頭に発していたバラトフへと近づいて行き、彼の肩に手を置きながら耳元で囁いた。

 「タダ働きをしたのは僕だ。報酬を貰うべきは僕だとは思わないかい?」

 言葉は柔らかかったが、肩に置かれた手に込められた力の強さに、バラトフは怒りを制御せざるを得なかった。

 「……いいだろう。ちゃんとした報酬を得るんだな。どうせ金など持ってない。おまえの好きなようにするがいいさ!」

 負け惜しみを言い放つと、バラトフは肩を怒らせながら部屋を出て行った。

 「ごめんなさい。私たちのせいでお友達と喧嘩させてしまいましたね」

 感動の再会から落ち着きを取り戻した伯爵夫人は、娘を隣に寄り添わせながらジェラールの元へとやって来て頭を下げた。

 ヴァリーヌ伯爵夫人はジェラールと同世代くらいの若さと気品を兼ね備えた淑女であった。髪は濃い金髪でスラリとした体つきをしている。シンプルなガウンを室内着としていたが、そのシンプルさがむしろ夫人の高貴さを際立たせていた。

 「いいんですよ、いつものことですから。それに彼は友達ではないし」

 朗らかにバラトフとの友情関係を否定するジェラール。

 二人の関係は第一次世界大戦の頃から始まっていた。ロシア人のイワン=バラトフは非常に精力的かつ極めて巧妙で大胆な怪しい山師であった。ロシア革命のさなかに国を追われたバラトフは、闇商売をしていた黒海でフランス軍の若き志願兵ジェラールと出逢い、その行動力と決断力、何よりも金銭に無頓着な性格に惚れ込んでスカウトしたのだった。戦争が終わるとジェラールは除隊し、バラトフの求めに応じて彼が住むポーランドへやって来た。ジェラールの主な仕事は亡命を望むロシア人をポーランドへと連れて来たり、亡命後のロシア人が故郷に隠した宝石や美術品、証券類などを発見して持ち帰ることであった。初めは人助けの気持ちが強かったジェラールだが、やがてバラトフが外国に資産を持つ富裕層や貴族相手にしか商売をしていないことに気がついた。

 それからは二人の関係は常に緊迫した綱渡り状態となり、お互いが自分の信念の為に相手を騙したり、重要な事柄を隠すようになったのだ。勿論、二人とも今の仕事を続ける為には相手が必要だということは解かっているので、表面的には穏便な関係を維持していた。

 例え密輸という犯罪行為であっても、ジェラールは冒険という名の麻薬に支配され決して抜け出すことができないのだ。不可能だと思われた事をやり遂げること、絶望を抱いていた人達の笑顔を見ること、それから旅先での出逢いとアヴァンチュール。冒険こそが彼の人生そのもの、生き甲斐なのであった。

 「恥ずかしながら主人を亡くしてから財産は減る一方ですので、あなたが満足できる金額の謝礼は御用意できないかも知れませんが、必ずこの御恩はお返しいたします」

 伯爵夫人が神妙な面持ちをしながらジェラールへ約束した。

 「いえ、報酬はもういただきましたよ」

 爽やかな表情を浮かべながら、ジェラールはからっと答えた。

 「えっ?」

 伯爵夫人が何のことか見当もつかず、不思議そうに問い返す。

 「娘さんとあなたの笑顔を見ることができて、僕はもう充分満足しました」

 「まあ! なんて人……」

 夫人の感嘆の声を背に部屋から出て行こうとしたジェラールは、ポケットに手を入れた瞬間、すっかり失念していた預かり物を思い出して振り返った。

 「ああ、そうそう。ついでに忘れ物も届けておきますよ」

 ジェラールがポケットから真珠のネックレスを取り出すと、夫人は言葉を失った。

 「失礼」

 彼女の手を取ってネックレスを手渡しする。

 「これは……主人から婚約記念として贈っていただいた品ですわ。失くしたと思っておりましたのに」

 伯爵夫人はネックレスを見つめながら想い出に耽った。

 「余計なお世話かとは思いますが、伯爵が隠しておいたということは装飾品として使って欲しいというわけではないと思いますよ」

 ジェラールの指摘を受けて、目元を拭った伯爵夫人が顔を上げる。

 「ええ。これだけあればこれからの私たちの慎ましい生活には充分すぎるほどです」

 ジェラールは聡明な伯爵夫人に敬意を表して一礼した。

 「もし宜しければ……」

 彼が頭を上げると、伯爵夫人は意を決して切り出した。

 「この後、我が家で晩餐を御一緒にいかがですか?」


 ジェラールと伯爵夫人親子を乗せたトロイカが、国境近くにあるバラトフの別荘から二十キロほど離れた街の郊外の一軒家へと辿り着いたのは夜も更けた時刻であった。

 別荘を出たばかりの頃は母親との再会に興奮していたスターシャであったが、長旅で疲れ切ったのか、今は隣に座っている伯爵夫人の胸に抱かれて眠っている。

 馬が脚を止めると、ジェラールがスターシャを優しく抱きかかえ、先導する伯爵夫人に続いて家へと入って行った。その家は屋敷とは異なりこじんまりとした二階建ての清潔感溢れる民家であった。ジェラールは二階へ上がり、伯爵夫人が用意していたスターシャの部屋へと入るとベッドに娘をそっと寝かせる。夫人とジェラールは安らかな寝息を立てるスターシャを起こさないようにそっとドアを閉めて出て行った。

 「お食事までもうしばらくお待ちいただけますか? 今婆やを起こして参りますので」

 階段を下りて一階にある召使部屋へ行こうとした伯爵夫人をジェラールが引き留める。

 「いいえ、料理は結構ですよ。それよりもあなたと二人で旅の成功を祝いたいですね」

 ジェラールの申し出に、夫人は恥じらいから頬を赤く染めながら答えた。

 「では、そちらの部屋でお待ちください。お酒とグラスをお持ちしますわ」

 伯爵夫人が階下へと消えると、ジェラールはスターシャの部屋の向かいにあるドアを開けた。そこは彼の予想した通り、夫人の寝室であった。室内には化粧台以外に椅子が無かった為、ジェラールは何の気なしに夫人のベッドの縁へと腰掛けた。

 そこへグラスとボトルを盆に載せた伯爵夫人が入って来る。

 「ウォッカで宜しいですか? 私はあまりお酒を嗜みませんので主人が残した年代物ですけど、お口に合いますかしら」

 夫人はジェラールと肩を並べるようにベッドへと腰を下ろすと、二つのグラスに黄金色の液体を注いで行く。グラスを受け取ったジェラールが乾杯の音頭を取った。

 「旅の成功に……それから二人の出逢いにも」

 グイッとグラスの中身を一息で飲み干したジェラールが伯爵夫人を見つめる。

 夫人は視線の置き場に困ってグラスへと口を付けた。

 口元を潤したグラスが唇を離れた瞬間、ジェラールは夫人を引き寄せて口づけをした。驚きに目を見張った夫人の手元からグラスが床へと滑り落ちる。

 夫人はジェラールへ身を委ねるように目を瞑り、全身から力を抜いた。ジェラールはそんな夫人の反応を見て、彼女を抱きかかえるとベッドの真ん中へと運び仰向けに寝かせた。

 「淫らな女だと軽蔑なさいますか?」

 そっと薄目を開けた伯爵夫人がジェラールを見つめた。

 「まさか! 伯爵だってあなたがいつまでも過去に囚われている姿を見たくはないでしょう。人は前を向いて進んで行くしかないのですから」

 伯爵夫人は真上に位置するジェラールの顔を両手で包み込んだ。

 「綺麗な瞳……あなたが私を救って下さるのね」

 ジェラールは夫人に引き寄せられるまま、口づけをした……。



4 なんと世間知らずな娘さんだ!


 翌日、バラトフの別荘へと戻ったジェラールは昼間の大部分を眠って過ごした。常人離れした体力と精神力で無理矢理乗り越えてきた困難や不眠不休の長い一日の疲れを癒すのも彼のささやかな楽しみの一つであった。

 シャワーを浴びてから身繕いを済ますと、階下にあるバラトフの書斎へと赴く。

 バラトフはドアに背を向けて、机の傍らに腰掛けながら〈フランス・ポーランド〉という名の雑誌を広げていた。ジェラールが彼の肩越しに覗き込むと、そこには若く意志の強そうな瞳をした美貌の持ち主が写っていた。

 「へぇ! 美人だなぁ。なんという名前の女優さんだっけ?」

 ジェラールの気配を感じていなかったバラトフは悪事がばれたかのように激しく動揺したが、懸命に己を律しながら答えた。

 「いいや、一般人の娘さんだ」

 「一般人? どこかで見たことがある気がするけどなぁ」

 ジェラールが身を乗り出しながら記事を読む。

 〈パリ発、フランス娘の美談。彼女は五百万フランの慈善募金を申し込む人物に、望まれるもの全てを提供する用意があると述べている〉

 「なんと世間知らずな娘さんだ!」

 ジェラールは呆れながら笑いを洩らした。

 「おまえは運命という物を信じているかね?」

 唐突にバラトフがジェラールへと問いかけた。

 「運命とはあんたらしくもないな。僕たちは不幸を運命だと決めつけて諦めている人々の人生を切り開く手伝いをしているんじゃないか!」

 ジェラールの答えにバラトフは鼻を鳴らした。

 「おまえらしい答えだ。恋はしても人を愛することを知らない。愛こそ運命が司る人生の理なのだよ」

 「愛? ハンッ! あんたからそんな言葉を聴くなんて! 彼女に恋でもしたのかい? 名前すら知らない娘のような齢の女性に!」

 ジェラールが笑い飛ばすが、バラトフは至って真面目に答えた。

 「名前は知っている。そもそも、今度のパリへの旅では彼女に会うつもりだったのだ」

 「知り合いかい? 名前は?」

 「ネリーローズ=デストールだ」

 反射的に答えてしまってからバラトフは後悔した。ジェラールは金銭的報酬に関しては無欲だったが、こと女性に関しては無欲ではいられない性格だったからだ。

 「ネリーローズ=デストール……ああ! 今回持ち帰った証券類の持ち主の娘さんか!」

 不意にジェラールは財布に入れてあった幼き日のネリーローズの写真を思い出した。スターシャ救出の際にお守り代わりとして彼女の写真を携行していたのだ。後で証券類の入った布袋へ戻すつもりであったのだが、すっかり失念していた。

 「いいかジェラール。私の邪魔をしようとしたら、今度こそ只ではおかないぞ」

 バラトフは先手を打って釘を刺した。

 「あんたの性癖は知っている。熟した果実よりも青い果実が好きなんだろう? だからって金で貞操を買おうとするのは感心しないな」

 「自分が歓楽街で女を買っている事には目を瞑り、私が愛情を金で補おうとすることは非難するのだな!」

 「ああ、あんたが彼女を幸せにできるとは到底思えないからな。僕には依頼人の家族を守る義務がある。証券類を渡して、正当な報酬を受け取ったら大人しくポーランドへ帰って来ればいいさ」

 「ハッ! おまえは何も解かっていない。そもそも依頼人は彼女の家族ではない。だからこそ、私はこのチャンスを逃すつもりはないのだ」

 バラトフが話は終わったとばかりに片手を上げて、部屋から出て行くように合図した。

 「だったら好きにすればいいさ! 僕も母へ会いにノルマンディーへ帰るよ。良かったらパリで美味しい物を御馳走してくれないか」

 突然のジェラールの申し出にバラトフは疑いの眼差しを向けたが、渋々と承諾した。

 「……いいだろう。二週間後にここを出て、ベルリンとロンドンに寄ってからパリへ行く予定だ。そうだな、五月八日の夜にシャンゼリゼ通りにある例の〈ヌーヴォーパラスホテル〉で待ち合わせとしようじゃないか。その頃には次の仕事の話もできるだろうからな」

 「決まりだ! じゃあ、三週間後に!」

 爽やかに言い放ったジェラールが部屋を出て行くと、バラトフは机の引き出しから小切手帳を取り出し、五百万フランの小切手を切った。


 それから数日後の月曜日の朝。ネリーローズは慈善事業計画委員会が本部としている実験会館へと呼び出された。住所は実験会館だが、宛名がネリーローズ=デストール様となっている書留が届いたからだ。ネリーローズは不安を募らせながらセダンを走らせ、実験会館へと到着した。

 ネリーローズの到着を知ると、館長であるルピエラール教授が興奮した面持ちで書留を片手に建物から飛び出してきた。

 「ネリーローズ! これは間違いなくあの件だよ!」

 普段は冷静沈着な人物として定評のある老教授が舞い上がっている姿を見て、逆にネリーローズは落ち着きを取り戻した。

 「落ち着いて下さい、教授。本当に五百万フランの小切手が入っていると思っているのですか? 例え入っていたにしても誰かの悪戯に決まっています」

 ネリ―ローズは教授から書留を受け取ると先導して建物内へ入って行く。教授は彼女を追い越して私室へと誘った。

 「事が事だからね。まだ騒ぎ立てない方がいいだろう」

 ネリーローズが教授に与えられている部屋のドアを閉めた途端、教授がペーパーナイフを差し出してきた。

 「さあ、開けてくれたまえ。我々が描いている夢が叶う瞬間だよ!」

 ネリーローズはじっと書留を見つめながら開封を躊躇った。封筒にはポーランドの切手が貼ってあり、差出人の名前はイワン=バラトフと書かれている。

 教授の無言の圧力に屈したネリーローズが意を決して封を切ると、中には一通の手紙と小切手が入っていた。小切手の額面は五百万フランとなっている。一瞬にして目の前が真っ暗くなったネリーローズは黙って教授へ小切手を差し出し、金額の確認を促した。

 「素晴らしい、ネリーローズ! 君は本当に有能だ!」

 停滞していた慈善事業計画に再開の目途が立ったことで浮かれた教授は、五百万フランと引き換えにすべき返礼品の存在を完全に失念して喜びを露わにした。

 最初の衝撃から立ち直ったネリーローズが同封されていた手紙へと恐る恐る目を通す。

 〈私が指定する日の夜中の十二時から朝の七時まで、あなたの私室へ私を迎え入れて下さい。この小切手が換金されたら連絡します。イワン=バラトフ〉

 ネリーローズは恥ずかしさの余り顔を真っ赤にしながら手紙をバッグへと押し込んだ。

 「これは悪戯です、教授。その小切手は破棄しましょう!」

 「それはどうかな。我々の活動に賛同して下さった支援者の方かも知れんよ。私の知り合いの銀行員へ預けてみれば、この小切手の振出人に換金できるほどの預金口座があるかどうかすぐに判るよ」

 老教授はネリーローズの嘆願をあっさりと却下した。

 普段から頑固な人物として有名な教授を説得するのを早々に諦めたネリーローズは、とにかく時間を稼ごうと心に決めて教授へと言い聞かせる。

 「解かりました。小切手が本物かどうか確認して下さい。でも絶対に換金しないで下さいね。より高額な寄付があるかも知れませんから」

 「解かっているよ、ネリーローズ」

 教授がホクホク顔をしているのに不安を覚えながらネリーローズは実験会館を後にした。


 ネリーローズがアパルトマンの駐車場にセダンを停めると、停車していた高級車の後部座席からヴァルネーが降りてきて彼女へ挨拶をした。

 「こんにちは、マドモアゼル。おや、顔色が優れないようですね」

 「大丈夫よ。それよりこんなところで何をしているの?」

 ネリーローズの質問の答えとして、ヴァルネーは無言のまま人差し指を立てて、耳をそばだてた。

 「聴こえるでしょう? ピアノとヴァイオリンが」

 ヴァルネーに促されてネリーローズも耳を澄ました。

 「ええ、微かにね」

 「この時間、お母様は部屋にいらっしゃるはずです。それにも拘わらずメイドとコックの夫婦が音楽に興じているということは……」

 「三銃士の誰かが来ているという事ね」

 ネリーローズは母親の色遊びに嘆息した。

 「ここへ来る途中、近くの駐車場にチャールスさんの車が停めてありましたからね。今日のお相手は彼なのでしょう」

 ヴァルネーはそう答えながら、ネリーローズを彼の車へと誘うように身振りで示す。

 「遠慮しておくわ。もし時間を潰したいのならば私の車でドライブしましょう」

 「喜んで」

 ネリーローズが小型セダンの運転席へと乗り込むと、その隣へとヴァルネーが座った。

 車があてどなく走り出すと、すぐにネリーローズが問いかける。

 「あなたはやきもちを焼かないの?」

 「何にですか?」

 一瞬、彼女の質問の意味が判らなかったヴァルネーだったが、すぐに大笑いを始めた。

 「ああ! あなたは私をそんな目で見ていたのですね! 確かにデストール夫人は魅力的な女性ですからビジネスの相手としては申し分ありませんが、ロマンスを語り合うには正直少々物足りなさを感じますね」

 「あら、随分母に対して辛辣なのね」

 ネリーローズの反応を受けて、ヴァルネーは慌てて捕捉する。

 「申し訳ありません、別にお母様を貶したい訳ではないのですよ。ただ彼女以上に魅惑的な女性が傍にいるのに、そちらを選ばない理由はないでしょう?」

 「それは褒め言葉と受け取っていいのかしら?」

 ネリーローズの機嫌が直ったのを見て、ヴァルネーは安堵しながら返答した。

 「頭の回転の速い女性といるのは楽しいですよ」

 それからしばらく二人は黙ったまま流れ行く街の景色を見つめていた。

 ネリーローズは切り出すべきか自問自答し、ヴァルネーはそんな彼女の気配を察し、話のきっかけを遮らないように気を使っていたのであった。

 「あなたにとって私の価値はどれくらいなのかしら?」

 思い切って話し出したネリーローズであったが、すぐに自分の発した言葉を後悔した。

 「おやおや! まさか本当に五百万フランを寄付する殿方が現れましたか!」

 察しの良いヴァルネーは彼女の質問の意図を見抜いた。

 「殿方とは限らないわよ」

 ネリーローズが微かな抵抗を示す。

 「いやいや、五百万フランを失っても惜しくないなんて、阿呆か偽善者か悪人だけですよ。よってそれは女性ではないと断言できますね。さてさて、これは想定外だぞ」

 ヴァルネーが独りごちるのをネリーローズは聞き逃さなかった。

 「想定外?」

 「ああ、こっちの話です。ではこうしましょう。私が六百万フラン寄付して、その権利を獲得します。あなたはお父様から引き継いだ遺産で自身に課せられた権利を買い取ればいいんですよ」

 「そんなこと無理よ! 約束できないわ。本当に油田の権利書が手に入るかも判らないのに」

 「おやおや、あなたにしては弱気ですね。私に打ち明けるほど切羽詰まっているということは、受け入れられないような条件を提示されたのでしょう? まあ、男という奴はそんなものですからね。会ったこともない男に身を委ねるか、私に託して奇跡を待つか。どちらを選ぶか、あなたなら迷う必要もないでしょう?」

 ヴァルネーの言葉にネリーローズの心は揺れた。

 「おっと、あそこを走っているのはチャールスさんの車だな。どうやら演奏会は終わったようですね。デストール夫人には面白くない話をしなければなりません。ネリーローズ、あなたにも関係する話ですから一緒に立ち会って下さい」


 前夜の母親との言い争いで疲れ果てたネリーローズが目を覚ましたのは昼過ぎであった。すでに研究所への出勤時間は過ぎている。今日はこのまま仕事を休もうと決めたネリーローズは、食堂へと入るとコックのドミニックが読んだまま開きっぱなしとなっていた新聞記事へと目を落とした。

 〈ロシア富豪、フランスの慈善団体へ高額寄付〉

 その記事はイワン=バラトフという気前の良いロシア人に対する賛辞に満ち溢れている。ネリーローズは詳しく記事を読む間もなく、その新聞を握り締めると着替えもそこそこに実験会館へ向けてセダンを走らせた。車を会館の入口へと横付けすると、そのまま車を放置してルピエラール教授の私室へと乗り込んで行く。

 「どういうことですか、教授!」

 ネリーローズの激しい剣幕を受けて、老教授は椅子の上で居心地悪そうに身動ぎした。

 「いやぁ、調べてもらったらね、このバラトフという人物の口座が凍結される可能性があることが判ってね。だったらその前に換金してしまおうと……」

 「口座を凍結されるような人物からの寄付を受け取ったんですか!」

 「まあ本人も国に差し押さえられるよりは寄付した方がいいと思ったのかも知れないし」

 「そんなの教授の願望じゃないですか!」

 呆れ果てたネリーローズは言葉を続けられなくなった。

 「君がそんなに反対するなら本人に現金で返すとしよう」

 沈黙に耐えかねた教授が渋々と提案したが、ネリーローズはそれをあっさりと否定した。

 「彼はそんなこと望んでいません」

 もはや契約は成立したのだ。

 その事実がネリーローズの全身へと重荷のように伸し掛かってくる。

 愚かな意地を張った娘はその報いを受けるのだ。



5 私だって子供じゃないわ。


 故郷であるノルマンディーを目指してポーランドから旅立ったジェラールは、途中プラハやヴェネツィアなど気に入った都市で暫し滞在し、夜には歓楽街へと足を踏み入れ、仮初めの恋に華を咲かせた。

ヴェネツィアの娼館。高級とまでは呼べないが、しっかりとした仕切りで区切られている個室で、行為を終え息を整えた女が振り返るとすでにジェラールは服を着始めていた。

 「急いでるの?」

 女が気だるげに立ち上げるとジェラールの元へと近寄って行く。

 「いや。でも君の方が忙しいだろう?」

 財布を取り出したジェラールが、中から数枚の紙幣を抜いて女へと差し出した。

 「そういうムードのないことを言わないでよ。あら? 何か落ちたわよ」

 女がジェラールの財布から落ちた写真を拾って、彼へと返した。

 「娘さん? 随分と綺麗な子じゃない」

 ジェラールは差し出された写真を受け取ると、少女の顔をじっと見つめた。バラトフに指摘された通り、ジェラールは人を愛するという感情を理解することができなかった。写真の少女がどんなに美人に成長したとしても、恋を語ることはあっても自身が愛を謳っている姿は想像もつかないのだ。だから彼女が生娘であってもその純潔には全く興味がなかった。純潔=責任と結びつけられたら面倒だからだ。それでも、この清純な少女がバラトフのような腹黒い男に穢されるのは正直言って不愉快ではあった。

 ジェラールは腹さえ決まれば行動に迷いはない。

 「なあ、ヴェネツィアからパリ行きの夜行列車はあるかい?」


 『不幸はある日突然やって来るわけではない』と言ったのは、どの教授だっただろう?

 セダンを運転しながらネリーローズは物思いに耽っていた。

 『我々は平穏な日常の中で、漠然とした気詰まりや説明のつかない不安などを感じることがある。それが予兆だ。我々は知らず知らずのうちに待ち受ける不幸を感知して、潜在意識の神秘の中でじっと待ち構えているのだ』

 (そんな予兆なんか全く感じなかったんですけど)

 ネリーローズは記憶に刻まれている言葉に対して文句をつけた。

 母親が浪費家であることは当然知っていた。それでもデストール家の資産はそんなに簡単に底をつくような規模ではなかったはずなのだ。ところが夫人が株に手を出したことにより、近い将来それも六か月以内にデストール家は破産する危機へと直面したのだ。

 ネリーローズは仲買人であるヴァルネーを責めた。彼を家から追い出すと、愚かな母親もなじった。しかし逆にデストール夫人はいつまでも結婚しようとしない娘をなじり返したのであった。

 そんな訳で母親の顔も見たくないネリーローズは普段より早く家を出た。しかし、職場へ行くには早すぎると思い直した彼女は、不意に見かけた花を売る荷車で贈り物を買おうと思い立った。

 (考えてみればヴァルネーさんが悪いわけではないのだわ。彼は母に言われるままにお金を動かしただけですもの)

 歩道に寄せて車を停めたネリーローズは一房のリラの花を買い求め、セロファン紙で包んでもらった。花束を足元へと置き、車を発進させると同時に後方から激しい衝撃が襲った。車を停めて後ろを振り返ると、赤ら顔の太ったタクシー運転手が何か喚き散らしている。どうやら追突されたらしい。

 (不幸は連鎖するのかしら)

 溜息を吐きながらセダンを降りたネリーローズの元へとタクシー運転手が駆け寄ってくると、男は更に激しく彼女を責め立てた。

 「酷いもんだ! 最近の娘っ子たちは出来もしない癖に車の運転をやらかしているんだからな! おかげで俺の車の左側の泥除けがいかれちまったじゃねえか! 全く何てこった! 俺ら労働者の車をぶち壊したりしないでダンスホールにでも行っていればいいんだ! 気取った姉ちゃんよ、一体どうしてくれる……」

 運転手の言葉が止まった。左肩に何者かの手が置かれたからだ。怒りに顔を歪めながら振り返った運転手は、次の瞬間拍子抜けしたような表情を浮かべながら問いかけた。

 「誰だ、おめえ?」

 「誰でもいいさ。それより手を貸してもらおうか」

 そこにはにこやかに笑いかけるジェラールがいた。

 「はあ? 何で俺が?」

 「あんたは事故を御婦人の責任にしたがっているが、追突したのはあんただ。前方不注意かスピードの出し過ぎかは知らないけどね。本来は警察を呼んで損害賠償を請求すべきだが、幸いにも御婦人は車が問題なく走るのならば見逃して下さるそうだ。そうですよね?」

 「は、はい」

 見知らぬ男に突然同意を求められて、ネリーローズは戸惑いながらも頷いてしまった。

 「だから、僕と一緒に引っ掛かっている泥除けを外そう、と提案しているんだよ」

 ジェラールはそう言いながらセダンの後ろへ回り込むと状態の確認をした。二台の車は互いの泥除けが食い込むように重なり合っている。

 「これならタクシーの泥除けを持ち上げてセダンを前に押し出せば簡単に外れるだろう」

 「簡単っていうけどな……」

 運転手が批判の言葉を洩らした目の前で、ジェラールはタクシーの左側面へ回り込み、引っ掛かっていた泥除けを持ち上げた。

 「すげぇ……」

 呆れて言葉を失う運転手。同じようにネリーローズも呆気に取られていたが、ジェラールに呼び掛けられてハッとなった。

 「お嬢さん、合図したら車を走らせてくれ! そのまま戻って来なくていいよ。さあ、あんたは反対側を持ち上げるんだ!」

 渋々と手を貸す運転手。慌ててセダンへ乗り込んだネリーローズはジェラールの「今だ!」という合図と共に車を発進させ、そのまま走り去った。

 「ふうー!」

 セダンが見えなくなると、ジェラールはタクシーから手を離した。運転手とまた一悶着あるかと身構えたが、運転手はぶつぶつ呟きながら車へと乗り込むと、道路脇で手を上げていた紳士を拾ってその場から去って行った。

 周りを囲んでいた野次馬が、あっけない幕切れに失望しながら立ち去って行く中で、ジェラールはセダンの停車していた場所に落ちているリラの花束を拾い上げた。


 「すみません、親分」

 タクシーを走らせながら運転手が後部座席に座る紳士へと謝った。

 「まあいいさ。おまえのせいじゃないよ、フィルマン」

 運転手へと鷹揚に答える紳士はヴァルネーであった。

 「姫の御機嫌を直すために寸劇を打つなんて姑息なことを考えた私がどうかしてたんだ。ほっといてもあと数日で全てが上手く収まるというのに。全くバラトフの奴め! 欲望に忠実すぎるのも考えものだな」

 「何か手を打ちますか?」

 フィルマンが運転しながら指示を仰ぐ。

 「いや、いいさ。バラトフ程度、私一人でなんとでもできる。それよりも先程の青年の方が興味深い。それこそ彼女が夢見ていた白馬の騎士の様じゃないか! まるで若い頃の私を見ているようだった。何者か調べてくれないか?」

 「確証はないのですが……いえ、裏付けを取ってから報告します」

 フィルマンは言い掛けた言葉を呑み込んだ。

 「おいおい、水臭いじゃないか! あてがあるなら教えてくれよ。外れていたって構わないじゃないか」

 ヴァルネーが部下へと笑い掛けながら続きを促す。

 「おそらく……あいつはバラトフに雇われているジェラールです。以前、バラトフの屋敷で見かけたことがあります」

 「ほう、そいつは面白い! バラトフめ、この私を出し抜くつもりか! 随分タイミング良く救いの手が差し出されたと思ったら、なるほど彼女を観察していたわけだ。よし、フィルマン! 次の主導権はこちらが握るぞ! ジェラールを尾行してくれ!」


 ネリーローズが自宅のアパルトマンへと帰ってくると、サロンでブリッジのテーブルを囲んでいたデストール夫人と三銃士が一斉に彼女を見た。

 「これは一体どういうことなの!」

 立ち上がったデストール夫人が手にしていた手紙を開いた。

 「ママ! 私の部屋へ勝手に入ったの?」

 デストール夫人が手にしていたのはバラトフからの書留に同封されていた手紙であった。

 「あなたに謝ろうと思ったのよ。そんなことよりバラトフって新聞に載っていたロシアの富豪でしょ? あの寄付の話ってあなたの提示した五百万フランだったのね! 真夜中に私たちの家を訪問するつもりだなんて、何て恥知らずな男なの!」

 ショックのあまりよろめいたデストール夫人を両脇からサイモンとチャールスが支えた。夫人が椅子に座ってウォッカを一口飲んでいる間に三銃士が次々とネリーローズを説得し始めた。

 「こんな人道に反する契約は無効だよ」

 「ここはフランスだからね。ロシアとは違うと言ってやるさ」

 「二人きりとは一言も書いてない。私たちも一緒に朝まで立ち会うよ」

 母親とその恋人たちが怒り心頭に発する姿を見て、ネリーローズは逆に冷静さを取り戻した。そして彼らの怒りっぷりがひどく滑稽なものに感じられて、思わず笑い出してしまった。

 「ネリーローズ?」

 気がふれたのかと心配になった夫人が娘へと呼び掛ける。

 「ああ! ごめんなさい皆さん、笑ったりして。でもこれが笑わずにいられるかしら。私が五百万フランの話を切り出した時は誰も本気にはしなかったのに。今になって慌てふためいているのね」

 「こんな常識外れで卑劣な男がいるなんて想像もしなかったからよ!」

 他人事のように言い放つ娘を窘めるように夫人が言い聞かせる。

 「ママ、それから皆さん。御心配いただくのは嬉しいけど、私だって子供じゃないわ。自分の言葉の責任は自分で取ります。それに、そもそもママたちの方が下品なことを考え過ぎなのよ」

 「若い娘の傍に一晩一緒にいられるだけで五百万フランも払う男はいないわ! 幻想を抱くのはやめて、ネリーローズ! 手遅れになる前に現実を知りなさい!」

 その時、ネリーローズはサロンの戸口に立っているメイドのヴィクトリーヌの姿に初めて気が付いた。どうやらずっと話に割り込むきっかけを窺っていたようだ。

 「どうしたの、ヴィクトリーヌ?」

 「お話し中に申し訳ございません。実はお嬢様あてに速達が届いておりまして」

 「あら、私に渡せば良かったのに」

 デストール夫人が速達を手渡すように合図するが、ヴィクトリーヌは深く頭を下げて女主人に詫びた。

 「いえ、本人へ直接渡すようにことづかっております」

 「まあ! 差出人は誰なの?」

 ネリーローズの問いかけに対して、サロンでのやり取りに耳をそばだてて事情を察していたヴィクトリーヌは言葉を濁した。

 「……御確認下さい」

 黙ってネリーローズへと速達を差し出す。

 ネリーローズが手紙を引っくり返して差出人を確認すると、そこにはイワン=バラトフの署名があった。


 デストール夫人に呼び出されたヴァルネーは、バラトフがネリーローズの部屋へ訪れる指定日を聞いて心の中で口笛を吹いた。

 (その日か! どこまでも効率重視の男だな、バラトフは)

 ヴァルネーが黙り込んでいるのを見て、事態を打開するために考え込んでいるのだと勝手に解釈した夫人が嘆く。

 「あの子の頑固さには本当に呆れるわ! 一体どうしたらいいのでしょう?」

 「いいアイディアがあります」

 「伺いますわ」

 ヴァルネーの提案に期待を膨らませながら、夫人が問いかけた。

 「この五月八日の真夜中を迎える前に、娘さんを誘拐するのです」

 「誘拐!」

 夫人が驚きに目を見張った。

 「ああ、言葉が悪かったですね。アンジアンにある私の別荘へとネリーローズを連れて行き、皆で朝まで彼女を監視するのです。そうすれば例えバラトフ氏がこの家に来ても、もぬけの殻。氏は怒り狂うかも知れませんが、高ぶった感情が鎮まる頃に五百万フランを返金すれば彼も納得せざるを得ないでしょう」

 「そんなに上手く行くかしら?」

 不安げな夫人へとヴァルネーが具体的な計画を提案する。

 「行きますとも。ちょうどその日に私は商談があって真夜中過ぎまで合流できませんが、夜九時に運転手のフィルマンを御自宅へと向かわせます。当日ネリーローズをオペラ鑑賞とでも偽って家から連れ出して下さい。そのままフィルマンがアンジアンの別荘へと車を走らせます。ご友人の方々にも別荘へと来ていただけたら、より心強いですね!」



6 ついにこの日がやって来た。


 ジェラールはリラの花束を手にして〈ヌーヴォーパラスホテル〉のラウンジにいた。

 (悔しいが今度ばかりは運命という奴を信じたくなったぞ!)

 パリへ到着したジェラールは駅からホテルへ向かう途中、偶然自動車同士の事故を目撃した。そしてその事故の当事者こそが探していたネリーローズ本人であったことに興奮を隠せず、思わずしゃしゃり出てしまったのだ。

 雑誌に掲載されていた写真以上に魅力的な女性だったことに感銘を受けると共に、より一層彼女をバラトフの毒牙から守らなくては、という使命感に燃え上がった。

 (しかし、どうするかな?)

 五百万フランを支払ってバラトフに手を引かせるのが現実的だが、ジェラールはそんな大金を持ち合わせていなかった。力技で彼女から引き離すのは容易いがバラトフの事だ、決して諦めたりはしないだろう。

 (そうだ! ネリーローズが僕に恋すれば全ては丸く収まるじゃないか! 彼女が処女で無くなればバラトフの奴はあっさりと諦めるに違いない!)

 そう結論付けたジェラールは「予約しているバラトフだ」とフロントへ告げて花束を預けると、〈フランス・ポーランド〉に載っていた寄付に関する連絡先である慈善事業計画委員会の本部がある実験会館へと向かった。

 会館の受付へと赴くと、ジェラールは慈善事業計画委員会の責任者に会いたい、と伝えた。内線電話に手を掛けながら受付嬢が問いかける。

 「大変失礼ではございますが、どちらさまでしょうか?」

 「イワン=バラトフと伝えていただければ解かると思います」

 ジェラールの思惑通り、ルピエラール教授は満面の笑みを浮かべながら自室へと迎え入れてくれた。

 「ああ、バラトフさん! このたびは我々の活動に協賛いただき本当に感謝の念に堪えません! お預かりしている寄付金は必ず有効に活用させていただきますよ!」

 ジェラールが差し出された教授の手を握ると、教授は彼の手を両手で包み込んで激しく上下に振り続けた。

 「ウッ、ウン!」

 ジェラールのわざとらしい咳で初めて気づいたかのように、教授がその手を解放した。

 「これは失礼しました。それで、本日はどのような御用向きでしょうか?」

 「実は私としてもこの度、あなた方の活動へ参加させていただいたことをとても光栄に感じておりまして。是非この感謝の気持ちを発案者でありますデストールさんへお伝えしようと思い、お伺いさせていただいた次第です」

 ジェラールは咄嗟に思い付いた口から出まかせをスラスラと淀みなく述べた。

 「ああ、なるほど! ではすぐに彼女を呼びましょう!」

 教授が電話を掛けようとするが、それをジェラールが止める。

 「いいえ、大丈夫です。彼女を煩わせたくはありませんのでこちらから出向きますよ。彼女の住まいの住所か電話番号を教えて下されば、私から連絡します」

 「そうですか。では連絡簿を捲ってみますので、暫しお待ち下され」

 教授はジェラールを微塵も疑うことなくネリーローズの連絡先を彼に伝えたのであった。


 ジェラールがトロカデロ広場にあるデストール夫人のアパルトマンへ着くと、そこはまさにパーティーの真っ只中であった。ジェラールが三階の入口付近に立つ婦人から訊いたところ、どうやらメイドとコックの夫婦が夫人の友人の支援を受けて独立して料理店を構えることになったため、彼らを送り出す惜別パーティーであるらしかった。

 「でも私は本当のことを知っているのよ」

 招待客である中年婦人は、いかにも噂話好きという様相でジェラールへ小声で囁いた。

 「デストール夫人が遂にご主人の遺産を食い潰したらしいのよ。それでコックとメイドを食わせて行けないから、愛人の一人に頼み込んで引き取って貰ったってわけなのよ。しかも羽振りの良い時は三人も愛人を抱えていらしたのに、今日のパーティーへいらっしゃったのはお一人だけ。斜陽よねぇ。でも希望もあるのよ。お嬢さんのネリーローズが大変美しい娘で、相当な資産を持つ株式仲買人が求婚しているらしいのよ」

 ジェラールは一気に捲し立てた婦人へと適当に相槌を打って離れると、彼女はまた別の来訪者を捉まえて同じ内容の話をし始めた。

 (なるほど。バラトフの前にその求婚者とやらと争う必要があるのか。それにしてもデストール家がそんなに困窮していたなんて。バラトフへ渡した証券類はどれくらいの役に立つのだろう?)

 考えごとをしながらサロンへと入ると、彼を女主人が出迎えてくれた。彼女は見知らぬ人物へ怪訝そうな表情を向けたが、娘の知り合いかと思い直して歓迎の笑顔を浮かべた。

 「ようこそ、我が家へ。ネリーローズのお知り合いの方かしら?」

 「ええ、実験会館から来ました。ジェラールです」

 (よし、嘘は言っていない)とジェラールは自身の返答に胸を張った。夫人へと御辞儀をし、差し出された彼女の手の甲へと口づけをする。

 「娘は会場のどこかにいるはずですわ。ごゆっくりなさって下さい」

 ジェラールはデストール夫人への挨拶を終えると、ネリーローズの姿を探して会場を覗き込んで行く。すると紳士淑女がブリッジのテーブルを囲んでいる中に彼女の姿を見つけた。自宅ということでコートも帽子も身に付けていないネリーローズの姿は、外で見た時よりも一段と輝いて見える。シンプルだが上品なドレスを着こなし品位に溢れたその姿はまるで何処かの国の姫君であるかのように見受けられた。

 テーブルに座っている四十代後半の紳士が何やらコミカルな表現で敗北を宣言したらしく、ネリーローズは笑っていた。その笑顔がジェラールの目線を捉えて離さなかった。

 (ああ! なんて愛らしいんだろう? あの子供の頃の写真のまま、苦難も挫折も知らずに成長したに違いない。男なら誰でも彼女を守る為に命を懸けてもいいと思うだろうな)

 その熱い視線を感じたのか、ネリーローズがジェラールへと視線を向けた。そして驚きの表情を浮かべる。暫し逡巡したが、やがて意を決したかのようにジェラールの元へと歩み寄って来た。

 「先日は有難うございました」

 ネリーローズが深々と頭を下げる。

 「でも、一体誰の招待で私の家まで来たのですか? 答えによっては警察を呼びますよ!」

 彼女が示す見た目からは想像できない予想外の気の強さに面を喰らったジェラールではあったが、すぐに笑顔を浮かべて切り出した。

 「招待はされていますよ、バラトフという名前でね」

 この場で聞くとは思ってもいなかった名前に、ネリーローズは身を固めた。

 そんな彼女の反応を遠目から窺っていたヴァルネーは、ブリッジのテーブルから立ち上がるとゲームで稼いだチップごと近くの客へと引き継いでネリーローズの元へと向かった。

 「やあ、初めまして。ジュスタン=ヴァルネーです」

 「ジェラールといいます」

 ヴァルネーから差し出された手を握り返しながらジェラールが挨拶を返した。

 「ジェラール? バラトフさんではないのね?」

 思わぬ援軍を得て気を取り直したネリーローズが問いかける。

 「バラトフは僕の叔父ですよ」

 いけしゃあしゃあと身分を偽るジェラールに、真実を知っているヴァルネーは内心で苦笑を洩らしながらも話を合わせることにした。

 「なるほど。叔父様の使者ということですか。で、ご用件は?」

 「いえ別に。パリ市内を散歩しておりましたら、たまたま人の出入りが激しい建物を見掛けましてね。興味が湧いたので覗かせていただいたという訳です」

 「あら、それは有難うございます。でも恥ずかしながら、今日は内輪だけのささやかなパーティーなのですよ。次回は正式に招待させていただきますから、招待状を持ってお越しになって下さい」

 ネリーローズはジェラールへ出て行くように暗に伝えた。

 「わかりました。でもその前に遠路遥々フランスまでやって来た旅人を憐れに思って一曲踊っていただけませんか?」

 ジェラールは彼女の前で恭しく御辞儀をし、ジャズが演奏されている細長い部屋へとネリーローズを誘った。すると彼とネリーローズとの間を遮るように立ったヴァルネーが二人へ向かって呼び掛ける。

 「待ちたまえ、ジェラール君。彼女はこの後、私と踊る予定だったんだ。そうですよね、ネリーローズ?」

 厚かましい客人と、この機会を存分に活用しようとする友人との狭間に立たされたネリーローズは困惑の表情を浮かべながら周囲を見回した。そして妻の手を取ってダンス部屋へと入って行こうとしているドミニックの姿を見掛け、彼へと呼び掛けた。

 「あら、ドミニック! 私と一曲踊って下さらない? 焼き餅なんか焼かないわよね、ヴィクトリーヌ」

 夫妻が快く承諾すると、ネリーローズは目の前の男たちへと優雅に頭を下げてその場から立ち去って行った。

 「おい、どうしてくれるんだ」

 バンドがゆっくりと軽快なワルツを演奏する中、ネリーローズがコック相手に完璧なダンスを披露している。その姿を眺めながらヴァルネーがジェラールへと苦言を呈した。

 「何がですか?」

 「君が邪魔をしたせいで彼女と踊り損ねたじゃないか」

 「それはお互い様でしょう?」

 ジェラールはヴァルネーの存在など忘れたかのように踊るネリーローズに魅入っていた。

 「やれやれだ。ここまで存在を軽視されたのはアンベール家で秘書をしていた時以来かな? 全く、この私を無視するとは。恋は盲目とは良く言ったものだ!」

 ヴァルネーはジェラールへ向けて文句を吐き出しつつも、どこか楽しげであった。


 一旦はデストール家から辞去したジェラールであったが、タクシーで〈ヌーヴォーパラスホテル〉まで戻ると、リラの花束を片手に再びアパルトマンへと戻って来た。三階まで昇ったところで、右手のパーティー会場から次々と来客が帰って行くのに出くわした。さり気なく左側の廊下を進んで行く。

 (三階が全てデストール家の持ち物だとしたら、この廊下にあるドアは使用人の物かな? いや、あんなに広く幾つも部屋があるってことは、夫人と娘のそれぞれの個室もこの通路沿いに別の出入り口があるに違いない)

 半開きになっているドアからそっと中を覗き込むと、そこは食堂であった。この扉から料理が配膳されるのであろう。ちょうど今、夫人やネリーローズら身内だけでテーブルを囲んだ食事会が開かれようとしていた。

 (こいつはチャンスだな!)

 ジェラールは廊下の突き当たりまで進むと、仕事で身に付けた鍵開けの技術で一番奥にあったドアを開錠する。扉を細く開いて部屋を覗き込むと、そこは地味にならない程度にシンプルで感じの良い室内装飾が施された居間であった。

 (ビンゴだ!)

 周りに人がいないことを確かめると、素早く室内へと滑り込む。

 この部屋はパーティー会場の所有者である女主人の気質とは明らかに異なっていた。雑多とした見せかけの高級感とは無縁の、気品に満ちた空間。そんな印象を抱かせる。

 ジェラールはこの部屋で暮らす娘の性格を想像しながら、ますます彼女に魅せられて行く自身の心を不可思議に感じていた。

 (彼女の魂は強く、清く、美しい。それを僕の物にできたらどれほど幸せだろう)

 そう考えた時、招かれてもいない部屋へと侵入した自分自身が、急に恥ずかしく思えてきた。テーブルの上へとリラの花束を置くと、入って来たドアから誰にも見られないようにそっと出て行く。

 (僕は何をしたかったのだろう? こんな風に自分自身の存在をアピールしたところで一体どうなるっていうんだ? 結局のところ、まずはバラトフをどうにかしなくては)

 ジェラールは固い決意を秘めながら、アパルトマンを後にした。


 五月八日、朝九時。

 (ついにこの日がやって来た)

 前日までは意識的に今日のことを考えないようにしていたネリーローズも、昨夜は異常なほど気持ちが高ぶって満足に眠ることができなかった。

 母親は朝食の際にそのことに触れるでもなく、今夜のオペラ鑑賞を誘って来た。ネリーローズも「そんなに遅くならないなら……」という条件付きで承諾した。何かをしていないと真夜中までに不安で押し潰されそうな気がしたからだ。

 彼女には「逃げ出す」という選択肢はなかった。

 (私は約束したのだから。彼を家に迎え入れなければ、私は彼から五百万フランを騙し取ったことになる。あとは見も知らぬあの人の誠実さと心遣いを信じるだけ)

 昼間は研究所へ出勤し、何の問題もないかのように明るく振る舞った。親友のクセーニアだけは物問いたげな顔をしていたが「困ったことがあったら相談してね」と声を掛けるに留めていた。結局のところ人生の選択の結果を他人と分かち合うことは出来ず、その責任は本人が未来永劫背負って行くしかないと判っていたからだ。

 夕刻、研究所を出たネリーローズはその足で実験会館へと立ち寄った。早急に何かすべきことがあった訳でもないが、とにかく忙しく働くことで気を紛らわせたかったのだ。

 家に帰ると一時間ほど眠ろうと努めたが、結局は眠りに落ちることは叶わず、母親と出掛ける約束をした夜九時が近づいてきた。赤絹のコートと良く似合う白のドレスへと着替えてサロンへ行くと、夫人と彼女の〈三銃士〉の一人であるアーサーが準備を整えて待っていた。二人に連れられて階下の駐車場に停まっている高級車へと乗り込んだ。

 「あら? あなたの運転ではないのね」

 ネリーローズはアーサーが連れてってくれるものだと思っていたのだ。

 「今日の為に雇った運転手のフィルマンよ」

 夫人が紹介すると、鳥打ち帽を被り外套を着こんだ太った男が運転席から後部ミラー越しにペコリと頭を下げた。ネリーローズは彼と何処かで会っているような錯覚を覚えたが、明確な記憶が蘇って来ず、思い出すのを諦めた。

 車内ではアーサーが、先日鑑賞したオペラの感想を生真面目に語り続けた。その話に退屈したネリーローズは窓の外を見てハッとなった。

 「大変よ、ママ! この車はオペラ座へ向かっていないわ!」

 ネリーローズが示す動揺を、デストール夫人は落ち着いて受け流す。

 「今夜はオペラ座には行かないのよ、ネリーローズ」

 「一体何処へ向かっているの?」

 驚いたネリーローズが母親を問い詰める。

 「アンジアンにあるヴァルネーさんの別荘よ。フィルマンは彼の運転手なの」

 夫人は娘からの激しい抗議を予期して身構えた。しかし、ネリーローズはあっさりとした口調でこう言い返すだけだった。

 「それは良くないわ、ママ。約束は破れないわ」

 「あなたは約束を守ろうとしたわ。これはあなたにとっては不可抗力よ。そうでしょう?」

 ネリーローズは母親の呼び掛けに返事もせず、郊外の国道に沿って走る車の窓越しに静まり返った闇の中を見つめ続けていた。


 アンジアン湖に沿ってサンチュール通りを進んだところにヴァルネーの別荘があった。車は建物の背後に広がる庭園を抜けて別荘の前へと停車する。一行が別荘へ入るなり、時計が十時を告げる鐘を鳴らした。

 フィルマンが先に立って二階の部屋の暖炉へ火を付けに行く。彼が戻って来ると入れ替わりにネリーローズが与えられたその部屋へと引き籠った。

 夫人とアーサーは暫くフィルマンと共に別荘の入口の部屋で待機していたが、夫人が寒さに肩を震わせるとフィルマンが寝ずの番をすると申し出て、二人にも二階の個室へ行くように促した。

 部屋へ入るなり、アーサーが夫人を抱きしめて激しい口づけをした。夫人が逃げるように唇を外す。

 「ダメよ、アーサー! ここは他人の別荘だし、隣の部屋には娘がいるのよ。状況を考えて頂戴」

 「あなたこそ状況を考えるべきだ。サイモンが去り、チャールスが去り、なぜ私だけが残ったと思います? 私はあなたの資産など望んでいませんよ。そりゃあ確かに今までのような暮らしを支えるほどの収入はないかも知れない。だけど、あなたを愛する気持ちは誰にも引けを取りません」

 そう言いながらアーサーは夫人の手を取った。

 「ああ、アーサー! こんな状況でなければ私だって今すぐにあなたの気持ちに応えたいわ」

 「大丈夫ですよ。玄関にはフィルマンがいるし、こんな辺鄙なところからパリへ戻る手段などありませんよ」

 言葉と共にアーサーの顔が再び夫人へと近づいて行く。今度は夫人からも顔を寄せて行った……。


 ネリーローズは暫く暖炉の前で毛布に包まって丸くなっていたが、隣の部屋で〈始まった〉のを感じ取ると、音を立てないように窓を開いた。

 別荘は台地の上に建てられており、今いる部屋から地面までの高さは三、四メートルしかなかった。ネリーローズはベッドへ戻ると二枚の毛布を引き剥がし繋ぎ合わせて、一本の太いロープを作り上げた。窓の手摺りへ毛布の端を縛り付けるとコートを着て手摺りを乗り越える。そのままロープを伝って下へと降りて行った。

 問題はこの後だった。ネリーローズはいつかヴァルネーが夫人たちの前で別荘に置かれているボートの話をしていたのを覚えていた。

 (あれがこの別荘のことだと良いけれど)

 台地を支えている石壁の間に作られた階段を下り、桟橋へと向かう。

 「あったわ!」

 ネリーローズは思わず声に出して喜んだ。今の彼女はバラトフと会った後に起こるであろう出来事に対する不安など微塵もなく、ただ約束を守らなくてはならないという使命感に囚われていた。

 ボートへと乗り込み、繋いでいた鉄の輪を解き放つと、オールを使って静かに漕ぎ出す。時折雲間から姿を見せる三日月を軒先案内人として、ネリーローズは遠くの湖周辺に浮かぶ光を目指して行った。そこに街と鉄道があるのを行きの車の中から確認していたのだ。永遠にも感じる時間、ボートを漕いでいたネリーローズは明かりに照らされた桟橋を見つけて接岸した。顔を上げるとそれほど離れていないところに線路が敷かれている。

 (これを辿って行けば駅へ着けるわね)

 早足で線路沿いを歩いて行くと、間もなく駅が見えてきた。遠くから十一時を告げる鐘の音が聴こえてくる。ネリーローズの足取りに迷いはなく、出発間近であったアンジアンからパリへ向かう列車に乗り込むことができた。

 パリの北口へ降り立つと同時に時計を見た。十一時半だ。タクシーを捉まえてトロカデロの自宅へと向かう。家に着いたのは十二時十五分前であった。

 部屋へ入るとコップ一杯の冷たい水を一気に飲み干した。やけに喉が渇く。心臓もバクバクと激しい音を立てているようだ。

 (そうだ、ここからが私の人生を左右する重要な時間なんだ)

 母親だけでなく、メイドとコックの夫婦も家にはいない。

 誰もいない家で、会ったこともない男と二人きりの夜を過ごすのだ。

 緊張のあまり手が震えてきた。

 居間に置かれた椅子に座って時計を見る。

 三分前……二分前……一分前。

 秒針を目で追って行く。

 真夜中を告げる鐘の音と重なりか合うように、ドアの呼び鈴が鳴り響いた。

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