第7話 姉の親友は、とってもたわわ。

 翌朝。

 俺は6時に目を覚まし、ベッドから起き上がった。

 

 ぼんやりしていた頭に血が巡っていくうち、昨日のことを思い出す。

 

 結局あのあと、リビングの隣にある和室に布団を敷き、酔い潰れた詩織さんを寝かせることになった。代わりに姉が2階の部屋で寝ている。


 すでに朝の太陽が昇り、カーテン越しに陽射しが差し込んでいた。

 日光を浴び、次第に体が覚醒し始める。

 気力が充実したところで、ベッドを降り、朝のルーティーンを開始。


 ジャージに着替え、そっと1階に降りると、詩織さんたちを起こさないように玄関を開けた。


 玄関を出た直後に広がる、朝の景色。

 まだ目覚めきっていない街の空気を肺に満たし、家の前で軽く柔軟体操を行う。

 ひとしきり体がほぐれたところで、走り始めた。


 外気に触れる。身体を動かす。

 全身に血流が巡るうち、思考がクリアになる。


 考えていたのは詩織さんのこと。

 そして昨日の姉の話。


 詩織さんが抱えている苦しみも、病気も、きっと俺はなんの力になれない。

 背負えない苦しみを無理に背負う必要はない。

 それは詩織さんだって望んでいないだろう。


 考えないといけないのは、もっと当たり前のこと。


 いかにして詩織さんと足並みを揃え、お互いに不満なく、健全な生活を送るか。

 そこではないかと思う。 


 俺も、詩織さんも、これまで培ってきた習慣がある。

 好きな食べ物、嫌いな食べ物、家事の分担、風呂の時間、やってほしいこと。

 逆にやってほしくないこと。


 それは互いに違っているし、絶対にズレている部分はあるはずだ。

 だからこそ話し合い、いい落とし所を探らないといけない。


 これがラブコメ系の漫画やアニメなら、いろんなハプニングが起こって、ヒロインとの仲が深まるイベントとして消化されるのだろうが、あいにく俺は現実と二次元の区別がつく男だ。

 

 刺激に満ちたえっちちなエロコメよりも、ノンストレスな日常系を好んでいる。

 ラッキースケベ? そんなのNGに決まってるだろ。


 とにかく、どこかのタイミングで詩織さんと話をしないと。

 

 結論が出たところで、所定のコースを走り終えた。

 ランニングを終えた俺はふたたび家の前でストレッチをしたあと、帰宅する。

 

 そっと玄関を開けると、家の中は出たときとおなじく静まり返っていた。

 まだ詩織さんも、姉も寝ているのだろう。

 さっさとシャワーを浴びて、軽く汗でも流すか。


 一旦、自分の部屋に戻り、着替えの制服を取りに行ってから、ふたたび1階に降り、脱衣場の扉を開ける。

 手にした着替えを洗濯カゴに入れようとした俺は手を止めた。


 折り畳まれた服が洗濯カゴにしまわれている。

 

 オーバーサイズのTシャツとショートパンツ。

 見覚えのない服である。

 さらに折り畳まれた服の上には大きなお椀を2つくっつけた白い物体が鎮座していた。少し遅れて、それが花柄のブラジャーだと気づいた。


「アサちゃん?」


 チャポン、という水音とともに風呂場から声がした。

 心地よく響く澄んだ声。


 詩織さんの声だ。


 風呂場と脱衣所を隔てる扉のすりガラス越しに、詩織さんの一糸まとわない肌色の

影がぼんやりと浮かび上がった。


「ごめんなさいっ」


 俺はすぐに脱衣場を出て、扉を閉める。

 心臓が早鐘を打っている。


 …………やっちまった。

 こんな初手から、気まずくなるようなトラブルを打つとかある???

 

 扉の向こうから、詩織さんが風呂から上がる音が聞こえた。

 水音や風呂のタイルを踏む音が生々しく響く。


「ごめんね、ハルくん。いま身体拭いちゃうから、ちょっと待っててね」

「いえ、ゆっくりで大丈夫です!」


 俺は上ずった声で返事をし、玄関まで引き返した。

 すぐに脳裏から先ほど見た光景を忘れようとする。

 が、忘れようとすればするほど、洗濯カゴに畳まれていたブラジャーと、詩織さんのシルエットが頭から焼きついて離れない。


 小ぶりのスイカが入りそうなほどの大きさがあった。

 姉のブラとは比べものにならないほど、ボリュームがあった。

 あまり気にしていなかったけど、詩織さんって、じつは相当着痩せして――


 すぐに頬を両手で叩いた。

 何を考えてる。さっさと忘れろ。


 煩悩退散。風林火山。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。般若波羅蜜多般若波羅蜜多。色即是空空即是色。心頭滅却火もまた涼し!


「お待たせ~。もう上がったから、入っていいよー」


 振り返ると、風呂上りの詩織さんが俺の後ろに立っていた。

 オーバーサイズのTシャツに、ショートパンツを履いている。

 身体からは湯気がたちのぼっていた。

 

 化粧をしていないはずなのに、肌は抜けるように白い。

 ふんわりといい匂いがする。

 これは、シャンプーの匂いだろうか。


「あの、すいません。さっきのは――」

「ああ、全然っ。気にしないでいいよぉ。私もぼーっとしてたし」


 詩織さんはケラケラと笑ってから、慰めるように頭をポンポンと叩いた。


「汗、流してきたら? 走ってきたんでしょ?」


 詩織さんはまったく気にしたそぶりを見せず、リビングに引っ込む。

 俺は安堵とも脱力とも言えない気持ちになりながら、脱衣所へと向かった。


 脱衣所には、先ほどの詩織さんとおなじ匂いが漂っていた。

 

 シャンプーと石鹸の匂いだとわかっているのに、顔が火照ってしまう。

 変な想像しそうになるのを抑えながら、俺はさっさと服を脱ぎ、風呂場に入った。


 風呂桶にはお湯が張られている。

 溜める手間が省けたと安堵するが、そこではたと気づく。


 さっきまで詩織さんがこの浴槽に入っていたんだよな???


 果たしてこのまま入るのはアリなのか。それともナシなのか。

 いや、なにをうろたえる必要がある。


 これまでも姉が入ったあとの風呂になんの躊躇もなく入っていたではないか。 

 同居生活を始めるのに、間接風呂くらいで狼狽えてどうする。

 

 5分ほど懊悩し、結局風呂桶から湯を抜くことにした。

 意識しすぎなのはわかっている。

 しかし先ほど見た詩織さんの裸の残像が脳裏からこびりついて離れない。己の思春期が憎くなる。


 とにかく詩織さんへの相談事項がまたひとつ、追加で決まった。


 できるだけ風呂は詩織さんより前に入れさせてもらうようにしよう。

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