第6話 姉の親友は、苦しんでいる。
掃き出し窓を開けると、すぐ軒下に出る。
せり出した
爽やかな香りを運ぶ夜風がどこかで咲いた名も知れない花の存在を伝える。
まだ夜の空気は涼しさを残しているが、いずれは湿気を纏うようになるだろう。
姉は余っていたオリオンビールを開け、ごくごくと喉を鳴らす。なんだか自分に発破をかけるような飲みっぷりだった。
一気にビールを飲み干し、空き缶を脇に置いくと、口を開いた。
「あいつさ、いま仕事に出られねーんだよ」
「出られない? なんで?」
「収録現場……、スタジオっていうの? そこに行くと発作が出ちまうんだとさ」
物騒なワードが飛び出し、俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。
「だから、いまは仕事を休んでクリニックに通ちながら治療を受けてるんだと。回復はしてるが、まだ調子は戻ってない」
「……詩織さん、どこが悪いの?」
「メンタル」
姉の答えで俺が連想したのはニュースで聞きかじった幾つかの言葉だった。
鬱病、適応障害、パニック障害、PTSD。
この世にそう呼ばれる病気があるのは知っている。
だがそれは正確な知識などではなく、テレビや映画などで見てきたうすぼんやりとしたイメージとしてだけである。
「普段の生活に支障はねぇよ。身体を診断しても、特段異常はなかったって聞いてる」
「じゃあ、なんで発作なんか」
「わからん。あいつ、死ぬほど仕事してたみたいだから。過労によるストレスが原因だろ、って医者は言ってるみたいだけど」
部屋で見た詩織さんの演技を思い返す。
あの演技を仕事場で披露することができない。本来の仕事を果たせない。
その苦しみがどれほどのものか。
俺には想像もつかなかった。
だからこそ、疑問がわく。
「姉さんはなんで俺と詩織さんを同居させようとしたの?」
「……別に。丁度いいのがお前しかいなかっただけだよ」
「丁度いいって、なんだよそれ」
俺は続ける。
「詩織さんを1人にさせときたくないのはわかる。でもその役目は、もっとほかにふさわしい人がいるでしょ」
「ふさわしい人って?」
「そりゃあ……家族とか、ほかの友達とか?」
よくわからないが、霧山シオンほどの人気声優であれば、おなじ業界の仲間だっているはずだ。
あてなんていくらでもあるだろ。
親友の弟でしかない俺の役目ではないはずだ。
「それができたら、よかったんだけどな」
姉はあぐらをかきながら、両手を後ろにつけながら、のけぞる姿勢を取る。
その視線は目の前の生垣に据えられているが、たぶん本当に見ているのは別のものだろう。
「お前の目から見て、詩織ってどんな奴に見える?」
突然、かけられた質問に俺は一瞬戸惑う。
ただ考えても仕方ないので、思ったままの印象を答えた。
「綺麗でおしとやか。優しい人、だと思うけど」
「うわぁ、出た。あいつの外面に騙されてる典型パターンじゃん」
「……親友によくそんなこと言えるな」
「親友だからこそ言えるんだよ」
「じゃあ、姉さんは詩織さんをどういう人だと思ってるの?」
「生粋の負けず嫌い」
即答だった。
負けず嫌い。
おっとりした詩織さんには似合わない言葉な気がする。
「……詩織さんが勝ち負けにこだわっている姿なんて見たことないけど」
「遥生の前では見せないようにしてたのかもな。自分が努力してる姿を隠したがるタイプだからな、あいつ」
しょうがねーよな、と姉は言った。
「なんというか、隙を見せるのを怖がってる節があんだよ。自分の内側を決してさらけ出そうとしない」
「そういう人は珍しくないでしょ。俺の周りにもいるよ」
「詩織は筋金入りだ。本人も自覚ないから、余計にタチが悪い」
寂しそうに姉は苦笑する。
「だから、いまのあいつには必要なんだよ。遠慮なく隙を見せられるような相手が、さ」
「隙って、そんなの俺が相手でも見せては――」
「いやいや。もうだいぶ見せてるだろ。ほら」
姉は顎をしゃくって、ソファのほうを指し示した。
いまも詩織さんは酔いつぶれて、無防備に寝息を立てている。
俺の存在なんて、全然気にしてないように。
「あいつの中じゃ、お前は小さい頃に遊んだハルくんのまんまだからな。ガードは緩くなると思ってたけど」
だんだんわかってきた。
つまり、姉の目論見とはこういうことらしい。
詩織さんは決して他人に気を許さない。
負けず嫌いで、プライベートでも、仕事でも誰かに隙を見せない生き方が染みついているのだという。
おなじ業界にいる声優仲間なら尚更だ。
同業者はライバルでもある。弱みなんてとても見せられない。
だから姉は俺を選んだ。
声優、霧山シオンとしてではなく、姉の親友としての詩織さんしか知らない俺ならば、遠慮なく隙を見せて振る舞うことができると見込んで。
「姉さん、それってさ」
「ん?」
「俺、詩織さんに異性としてまったく意識されてない、ってこと?」
「ハァ? 当たり前だろ」
誤解しないでほしい。
別に詩織さんに対する恋愛感情があるわけではない。
モテたいわけでもない。
俺のモットーは分相応。
詩織さんとは釣り合ってない自覚はあるし、それをどうこうしようとも思わない。
ただ、あまりに意識されないのも、それはそれでショックだ。
「嘆くことはない。あいつはお前のこと結構信頼してるぞ。じゃなかったら、あたし以外の前であんなに酔い潰れたりしない」
「それは喜んでいいの?」
「ああ、喜べ。誇るがいい」
「ハハハハ」
もう一つ、気になっていることがある。
詩織さんの家族のことだ。
姉は一度も、詩織さんの家族の話をしなかった。
なにか事情があるのか。
それとも最初から頼りにならないとわかりきっているのか。
いずれにしろ、詩織さんの置かれている状況はおぼろげに理解はできた。
苦しみまでわかったとは、とても言えないけど。
「本当はさ、あいつを沖縄に呼び寄せて一緒に住もうって話をしたんだけどさ。東京から離れるつもりはないの1点張りで」
「知らない土地に住むのは大変だろうしね」
「というより、仕事に支障があるとか言われた。何かで呼ばれたとき、東京にいたほうが便利だからな」
「詩織さんは休業中でしょ?」
「現場から遠ざかるのが怖いんだろう。気持ちはわからなくもない」
姉は左耳のピアスに触れた。
耳たぶに仲良く並んだピアスを順番にひとつずつ、指先でなでていく。
端から聞くと、詩織さんの言葉は矛盾している。
いま詩織さんは仕事を休んでいるのだから、仕事から完全に離れた土地に行っても支障はないように思える。
でも詩織さんは東京に残る選択をした。
姉はそんな詩織さんの選択を尊重することにした。
「だから、うちに来いって言ったの。悠生なら、いくら迷惑かけても大丈夫だからって」
「おい、コラ」
「でも、詩織もまんざらじゃなかったぞ? たぶん詩織もこの生活に期待してる面はあるんじゃないかな」
「期待ってなにを?」
「また、歩き出すことへの期待だよ」
「だとしたら、なおさら俺じゃないでしょ」
「でも、あたしじゃ無理だ」
姉は鋭い声で断言してから、もう一度「無理なんだよ」と消え入りそうな声でつぶやいた。柳眉を逆立てながら、姉のまなざしはどこか苦しげだった。
俺はなにを言っていいかわからず、ただ頭をあげて、タイルが色あせた軒裏を眺めた。
正直に言えば、荷が重い。
詩織さんの苦しみを背負えるほど、甲斐性のある人間じゃないからだ。
これが漫画や映画の主人公だったら、ヒロインの苦しみに共感し、手を差し伸べることだってできたかもしれない。
ヒロインの問題を解決し、背中を押すことだってできただろう。
だが、現実の俺はただの高校生だ。
17年間、人より秀でた技能もなく、英雄にふさわしい行為をしたわけでもなく、温かい家族に囲まれてぬくぬくと育った。
詩織さんが戦ってきた世界の光景も、詩織さんが内に抱えた苦しみも、わかったふりなんかできない。
『できる』なんて口が割けても言えない。
しかし、それでも。
分不相応で、傲慢な願いだとわかってはいるけど。
こんなちっぽけな俺でも詩織さんの力になれるのなら。
俺は詩織さんの力になりたかった。
昔、さんざん一緒に遊んでもらって、世話にもなったしな。
そういう人が苦しんでいる姿はやっぱり見たくない。
「……俺が詩織さんにできることって、なにがあるんだろう」
「そうだな。毎日規則正しく起きて、飯食って、寝て、詩織と話をすればいいんじゃね?」
「真面目に聞いてるんだが」
「こっちも真面目に答えてる。特別なことなんか必要ない。たった、それだけのことで救えるものだっていっぱいあるんだよ」
姉はぽんと俺の肩を拳で小突いた。
「詩織のそばにいてやってくれ。頼む」
それからしばらくして、姉は風呂に入るといって風呂場に引っ込んだ。
俺は食卓の片づけをしたのち、ソファで眠る詩織さんの様子を見に行く。
相変わらず詩織さんは熟睡を続けている。
このまま朝まで寝てしまうかもしれない。
さすがに2階のベッドまで運ぶのは大変安野で、隣の和室に布団を敷いて寝かせようかと考える。
すると詩織さんは「ううん」と寝返りを打った。
その拍子にずれたブランケットをかけ直すため、手を伸ばそうとして、気づいた。詩織さんのまなじりには涙のこぼれた跡があった。
よく耳を凝らすと、か細い声で寝言を繰り返している。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
なにに対して謝っているのか、俺にはわからない。
だけどなんだか猛烈に悲しくなって、思わず俺は詩織さんの手を握った。
「大丈夫ですよ。大丈夫、大丈夫」
根拠のない“大丈夫”をおまじないのように繰り返し続けた。
おまじないの効果なのかはわからないが、次第に詩織さんの寝息が安らかになっていく。
だけど、俺は詩織さんの手を握り続けた。
願いを込めるように。
祈るように。
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