第8話 姉の親友は、食べさせたい。
シャワーを浴び終えてから、俺は制服に着替え、リビングに戻る。
リビングに入ると、焼けたトーストの匂いが漂っていた。
いつのまにかテーブルには皿が並べられている。黄金色に焼けたトースト。綺麗に添えられたレタス。
カウンターキッチンに目をやると、エプロンを着けた詩織さんが鼻歌を歌いながら、フライパンを手にしている。
料理の邪魔にならないようにか、髪留めで髪をひとつに束ねている。
白いうなじをさらしながら、明るい色の髪がしっぽのように揺れていた。
「あ、ハルくん。もうすぐ朝食の準備終わるから、ちょっと待ってね」
「朝食の準備?」
「そっ。いまベーコンエッグを焼いてるからね~~」
カウンター越しにのぞき込むと、IHコンロに熱されたフライパンの上で、卵の黄身が3つ、正三角形の頂点を結ぶように置かれている。
それぞれ白身は流れでた溶岩のように混ざり合っており、プツプツと白い泡を不聞き出している。ベーコンは固化した卵の下敷きとなり、ジュージューと脂が爆ぜる音を発していた。
胃を刺激する香ばしい匂いがカウンター越しにまで漂う。
「詩織さん、なにか手伝うことあります?」
「うーん。そうだねぇ。……あ、まだコーヒー煎れてなかったな。ハルくんはどうする? それとも朝は紅茶派の人?」
「いや、コーヒーです。そこのラックにコーヒーメイカーあるので、俺煎れときますね」
「ほんと? 助かる~」
フライパンの上を眺める詩織さんを横目に、キッチンに入った俺はコーヒーメイカーに豆が入ったフィルターをセットし、タンクに水を注ぎ込むと、電源を入れる。
仕事を始めたヒーターが駆動音をあげながら、コトコトと水を熱していく。
「ハルくん、もしかしてコーヒーはブラックで飲める人?」
「いや、牛乳で割って飲む人ですね。詩織さんは?」
「私はソイラテ派だよぉ。ちなみに目玉焼きは断然半熟だけど」
「奇遇ですね。俺も半熟が好きです」
「オッケー。じゃあ最高の半熟にしないとね。……うん、そろそろかな」
詩織さんはフライを手に取り、ベーコンエッグをひとつずつ皿に乗せていく。
黄身も白身も熱で固まっているのに、水分を残していた。
完璧な見た目のベーコンエッグだ。自分で作ってもこうはならない。
「姉は? まだ寝てます?」
「まだベッドでのんびりしてたよ。アサちゃん、名前の割に早起き苦手だからなぁ」
話しながら、詩織さんはベーコンエッグが置かれた取り皿を持ち、食卓に配置していく。朝食としては十分すぎるほどのメニューだ。
ちょうどそのタイミングで豆の抽出を終えたコーヒーメイカーがポッドに淹れたてのコーヒーを注ぐ。
そういえば詩織さんの分はどうしよう。
予備のマグカップ、どこにしまっていたっけ。
「ハルくーん。私のコーヒー、これに入れてもらっていい?」
「わかりました」
詩織さんが取り出したのは、アニメキャラの描かれたマグカップだった。
ウェーブのかかった黒髪に、利発そうな目が印象的な大人っぽい女性キャラで、肩を露出したコスチュームを着ている。アイドルの衣装らしい。
女性キャラのそばには『アイドライド』というログがプリントされている。陶器製のマグカップは作りが丈夫で、普段使いによさそうだった。
「これは詩織さんのキャラですか?」
「そう。生徒会長アイドルの
「ええ、とっても」
詩織さん本人というより、どこか霧山シオンのほうにイメージが近い気がする。
俺は詩織さんのマグカップにコーヒーを入れ、食卓に運ぶ。
一通りのモノがそろい、朝食の準備が完了する。
「すいません。朝から詩織さんにいろいろやってもらって」
「いいって、いいって。居候させてもらってる身なんだから、これくらい」
詩織さんは俺と向かい合うように座った。
「では、いただきます」
「いただきまーす」
2人そろって手を合わせたあと、俺は箸でベーコンエッグの黄身を割る。
ちょうど半熟の状態だったらしく、とろりと溶けた黄身が溶岩のように白身のほうへ流れ込んできた。白身と一緒に口へと運ぶ。
「うまっ」
思わず声が出た。絶妙な焼き加減である。
自分でも目玉焼きを作ることはあるが、だいたいいつも黄身を固くしてしまいがちだった。半熟の状態が一番好きなのに、なかなかこの状態にならない。
「でしょ~~? 目玉焼きの焼き方、結構練習したんだから」
「すごいですね。俺もたまに作りますけど、いつもうまい具合に半熟にならなくて」
「ふふ。コツはね、焼く前に卵を常温に戻すこと、熱したフライパンを濡れ布巾の上に置いて、温度を下げることかな。焼くというより蒸すを目指すのが肝心かもね」
「詩織さん、いつも自分で料理を?」
「たまにね。1人で食べるときはもっと簡単なのに済ませちゃうんだけど」
詩織さんは楽しそうに言いながら、トーストをかじった。
「でも、ハルくんの口に合ってよかった~~。飯マズって言われたら、立ち直れないところだったよ」
「そんなこと言うわけないじゃないですかっ」
想定外に大きな声が出てしまった。
自分の声量にビックリしていると、詩織さんは愛おしそうに笑いかけてくれる。
その笑顔を直視するのが照れくさくなり、俺は強引に話題を変えた。
「……それより、詩織さん。相談があるんですけど」
「相談?」
今朝、考えていた生活のルールに対する相談ごとについて話すと、詩織さんは真剣な面持ちになってくれた。
「確かにね。私とハルくんじゃ、生活リズムも違うし。ちゃんとルールは決めないとだね」
詩織さんがおなじ意見だったことに安心する。
さすが社会人は話が早い。
「さっきみたいなお風呂場のハプニングが起きちゃったら恥ずかしいしね」
「ぐはっ!?」
予想外のタイミングで来た攻撃に、その場で悶絶しそうになる。
このまま流せると思っていたのに、全然流してくれなかった!
「大丈夫だよ~~、ハルくん。全然気にしてないから。男の子に裸見られるなんて、アニメで慣れてるし」
「裸は見てませんっ。あと現実とアニメは違いますっ!」
「でも、いまさら恥ずかしがることもないんじゃない? 昔は一緒にお風呂に入ったりしたよ?」
「いやいや、詩織さん。さすがにお風呂入ったっていうのは――」
言い掛けた俺は、はたと思い返す。
あれは小学校に上がる前。
俺は姉と一緒に時々お風呂に入っていた。
それでたしか外で友達と遊んできた姉が泥んこになって、一緒に入ったんじゃなかったか?
そのときに、まだ小学生だった詩織さんも……。
「俺は犯罪者です。このまま葬ってください」
「ちっちゃい頃の話だよ!? そんなに落ち込まないで!」
俺を慰めようとしてくれるのか、詩織さんは必死に慰めてくれる。
「あの頃といまじゃあ身体つきも全然違うし、胸なんて昔よりも桁違いに――」
「おっぱいの話はやめろーーーーーー!」
この人、いまさりげなくおっぱい自慢してなかった???
俺が叫ぶと、しーんという沈黙があたりを支配した。
やがて詩織さんはこらえきれないという顔で吹き出す。
そこでようやく、俺はからかわれたことに気づいた。
「……趣味が悪いですよ、詩織さん」
「ゴメンって。ハルくん、いい反応してくれるんだもの。ちょっかいかけたくなっちゃって」
「もう小さい頃と違います。俺だって成長してますよ」
「知ってる。だから、昔の面影を探したくなっちゃうんだよね」
「……わざわざ探すような価値のある面影ですかね」
「価値あるよ。どんな宝石よりも価値がある!」
本気とも冗談ともつかない調子で断言されてしまった。
しかし、なんだろう。
こんなふうに他愛のないことを話しながら、食事をするのって新鮮でかなり楽しい。
その後、俺と詩織さんは互いのルールについて話を進めた。
洗濯はどうするか、食事当番はどうするか、お風呂の順番はどうするか。
そんな話をしているうちに、時計は朝の7時半を回っていた。
「すいません。詩織さん、俺そろそろ学校に行かないと」
「了解。食器はこっちで片付けておくから」
「ありがとうございます。お願いします」
俺が玄関先に出ていくと、詩織さんも一緒についてきた。
「ハルくん、ネクタイ曲がってるよ」
詩織さんは遠慮なく距離をつめて、俺のネクタイの結び目を手に取る。ほとんど密着しそうな距離まで接近しながら、詩織さんは俺のネクタイの結び目を直していく。
「いいですよ、自分で直しますから……」
「照れない、照れない。……はい、これでOK!」
詩織さんは俺を姿見の前に押し出す。
たしかにネクタイの結び目がいつもよりも収まりよくなっている。
俺は感心していると、急に詩織さんは耳元でささやいた。
「カッコいいよ、ハルくん。副生徒会長なんだからしっかりしないとね」
「詩織さん! どうしてそれを――」
「アサちゃんから聞いたよ。この前、自慢してたもの」
あの姉が俺を自慢?
いやいや。そんなの天地がひっくり返ってもあり得ないだろ。
と、思っていると、階段のほうから足音が聞こえた。
「なんだよ、朝っぱらからイチャイチャと……。うるせぇなー……」
のそりのそりと、冬眠から目覚めたクマのような足取りで、姉が階段を下りてくる。
眠そうな目をこすり、不機嫌さを全面に漂わせながら、俺を見つめている。
「……悠生。学校、行くの?」
「うん。姉さんは? 次はいつ戻るの?」
「しばらく東京に戻る予定はないな。ま、そのうち連絡するぅ……」
二日酔いなのか、ふらふらと廊下を歩きながら、トイレのほうへ向かっていく。
大丈夫か、と思っていると、急に姉は立ち止まった。
俺のほうに背中を向けたまま、ひらひらと手を振る。
「じゃあ。頼んだぞー」
それだけ言い残し、姉はトイレのほうへ引っ込んで言った。
俺は詩織さんと顔を見合わせ、ぷっと吹き出す。
「アサちゃん。熊みたいだったね。テディベアだ」
「どっちかというとヒグマですよ、あれは」
革靴を履き、俺は玄関の扉を開ける。
朝の陽ざしに照らされる中、詩織さんは言った。
「いってらっしゃい、ハルくん」
「いってきます、詩織さん」
詩織さんに手を振られながら、俺は玄関を出る。
胸の奥はじんわりと温かく、清々しい気持ちで満たされている。
この気持ちがなんなのか、俺はうまく言葉にできない。
ただ、芽生えた気持ちの赴くまま、学校へと向かった。
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