第9話 親友の弟は、成長している。
親友の弟と、暮らすことになった。
彼の名前は千川悠生くん。
親友が気高き狼だとするなら、ハルくんは物静かなシベリアンハスキーっぽい。
2人とも見た目はよく似ているけど、性格も価値観も全然違ってる。
「アサちゃーん、どーですかー?」
「んー。頭がグラグラするぅー」
「そりゃー、頭を揺らしてるからねー」
千川家のリビング。
あぐらをかいてるアサちゃんに、私はヘッドマッサージを施していた。
頭皮をもみながら、アサちゃんはなすがままに頭を揺らされている。
朝子という名前に反して、昔からアサちゃんは朝に弱い。
目覚めてから活動のスイッチが入るまで時間がかかる。
だから、私がいるときはこうしてマッサージを施し、アサちゃんの活動スイッチを入れている。
さすがにアサちゃんが沖縄に行ってからは、ほとんどやらなくなったけど。
「だいぶ凝ってるねぇー。大学、忙しいの?」
「ん-。まぁーな。楽じゃねーな」
「ちゃんと休むときは休まないとだめだよー。身体を壊したら元も子もないし」
「お前にだけはー、言われたくねー」
「だからー、説得力あるでしょー?」
アサちゃんのこめかみを親指で強く押す。
んっ、とアサちゃんは声を漏らした。
「あっ。ツボに入った」
「入ってない」
「えー、ウソだよー。入ってるって」
「うるせー。入ってねーって言ったら入ってねー」
全然素直に自分の反応を認めようとしない。
アサちゃんは昔からこういうトコがある。
可愛さを弱さだと考え、少しでも隙を見せないよう、自分の可愛さを押し殺そうとする。
その反応がなによりカワイイ。
「医学部って、6年制だっけ。お医者さんになるのは再来年?」
「だな。医師免許取れれば、だけど」
「取れなかったら、ブラックジャックになるしかないねー」
「あたしはブラックジャックより、Dr.コトー派だなぁ」
「えー、離島のお医者さんは困るよー」
「なんで?」
「そうなったら、アサちゃんに診てもらえないもん」
「だったら、お前も島に来ればいいだろ」
「それは――」
答えようとして、私は言葉に詰まる。
マッサージの手が止まった。
アサちゃんはこちらを振り返る。
そのままデコピンをされた。
「痛っ」
「まーた余計なこと考えてたろ」
アサちゃんは狼のような目つきで笑う。
眠たげな様子はない。
活動スイッチが入ったらしい。
「この家にいるあいだは、好きに過ごせよ。全部あいつに任せてゴロゴロしたっていいし」
「……そんなの、ハルくんに悪いよ」
「そうか? あいつは気にしないと思うけどな」
アサちゃんは軽く咳払いしてから言った。
「お前のこと、昨日伝えといた。発作のこととかいろいろ」
「そう」
なんとなく、そんな気はしていた。
昨日、酔いつぶれていたとき、2人がなにかを話していたのはわかったから。
「あいつがどう受け止めたのかはわからんけどな。あいつなりに思うところはありそうだったよ」
「……やっぱり引いちゃったかな?」
「わからん。でも嫌がってる感じじゃなかったぞ」
たしかに今朝のハルくんは、昨日となにも変わっていなかった。
私への態度も、まなざしも。
いろいろ気遣ってくれていたけど、腫れ物に触れるような感じはなかった。
それがありがたかったし、寂しくもあった。
「ハルくん、成長したよね。背も伸びて、大人っぽくなってた」
「そうか? 昔とちっとも変ってねーと思うけどな」
「でもアサちゃん、昔はハルくんのこと、天使だって言ってなかった?」
「……そんな昔のことは忘れた」
アサちゃんは不機嫌そうにそっぽを向く。
都合が悪いことを指摘されると、すぐ不機嫌なそぶりを見せて誤魔化そうとする。
昔から変わらないアサちゃんの癖。
「っていうかさ、詩織」
「ん?」
「ああ、いや……」
なんだろう。アサちゃんにしては珍しく歯切れが悪い。
言いにくいことを伝えるというより、どう尋ねていいのか迷っているようだった。
「なになに? 気になるって。教えて教えて~♪」
「ウザ」
アサちゃんは眉間にしわをよせて顔をしかめるが、やがて観念したように口を開いた。
「一応な? 確認しとくんだけどさ」
「うん」
「もしかして悠生のこと好き?」
リビングを沈黙の空気が支配した。
真顔になってるアサちゃんに、私は笑顔で答える。
「もちろん、だーい好きだよ♡」
「……こっちは真面目に聞いてるんだが」
「私も真面目に答えてるよ?」
自分でもクサさを自覚している笑みをやめる。
「ハルくんのことは好きだよ。アサちゃんとおなじくらいに」
「……ライクの意味でいいんだよな?」
「もちろん」
「恋愛感情はない?」
「ない」
私は断言する。
「こーんな小さいときから知ってるんだよ? 私にとってもハルくんは弟みたいなもの。そういう関係になるのは想像できないかな」
「悠生はあたしの弟だが?」
「わかってるってば」
「……ならいいけど」
アサちゃんはジト目で私を見つめる。
「あんまり、悠生をいじるのもほどほどにしとけよー。アレでも一応、思春期男子だからな」
「ゴメン。わかってるんだけど、ハルくん、いい反応してくれるからさ。なんか可愛くて」
「やめてやれよ。お前のことをおしとやかで優しいって勘違いしてるんだぞ?」
「えっ? 正解でしょ?」
「そこで正解とか答える奴がおしとやかなわけないだろ」
アサちゃんはヨッと声を出して立ち上がる。
時計を見ると、もうすぐ正午になろうとしていた。
「もう行くの?」
「さっき羽田までの高速バスを予約したから。ぼちぼち出ないとな」
「次はいつ東京に来れる?」
「しばらくは厳しいかも。大学のほうがバタバタしてるし」
「そっか。じゃあ、一緒にお酒を飲めるのは当分先か」
当分先。
自分で言った言葉が妙に胸に突き刺さった。
ついこないだまでは2年先のスケジュールまで埋まっていたのに、いまは全部白紙になった。
この先の予定がいまの私にはない。
「次会うときは、ちゃんと声優として復帰できてるかな」
つい声に出てしまった。
あ、やば、と思ったときには、アサちゃんからのチョップを食らう。
「戻る時は連絡する。それまで元気でいろよ」
「……うん。わかってる」
「あと、あいつに変なことされたらすぐ連絡しろ? 速攻締めに戻るから」
「ははは、ハルくんはそんなことしないって」
あやうく脱衣所でランデブーしかけたけどね。
「あたしとしては、もうちょい隙を見せてもいいと思うけどな」
「えっ?」
「隙っていうか、素っていうか。べつにお前の素を見せても悠生は引かないと思うぞ?」
玄関先でアサちゃんはブーツを履き、カバンを手に持つ。
「とにかく通院は絶対に続けろ。どうせ医者は頼りにならんけど、処方された薬だけはちゃんともらっておけ。いいな」
「はい」
「あと、規則正しい生活を送ること。三食しっかり食べて、早寝早起きを心掛ける。メンタルの回復には一番これが効く。いいな」
「はいはい」
「あとは、ええと、無理な外出をするな。エゴサやめろ。ネットは見るな。それと――」
「はいはいはい、わかったから」
私とアサちゃんはしばらく見つめ合い、互いにクスクス笑った。
去るタイミングが掴めなかったのか、去りがたかったのか。
しばらくアサちゃんはその場に留まっていた、やがて意を決したように扉を開ける。
「じゃあな。また来る」
「うん。またね」
左耳に付けた2個のピアスを光らせながら、アサちゃんは出て行った。
バタンと音を立て、扉が閉まる。
千川家に私だけが残された。
私はリビングに戻ると、そのままソファに倒れ込んだ。
お昼を用意しないとだが、食べる気がしない。
目を閉じて、昼寝を試みる。
そしてふと、これからのことを考える。
予定してた番組も、決まってた役も全部パーッになっちゃった。
ライブもイベントも中止。気に入っていたミーアの役も降板になった。
ホントだったら来月、TOKYOドームでライブするはずだったのに。
全部でどれくらいの損害が出たんだろ。
復帰したあと、損害分をペイできるほど稼げるのか。
っていうか、私は必要とされるのかな。
もうオーディションにも呼んでもらえないかも。
缶を振ったコーラの泡のように、どうしようもない思考が次から次へとあふれ出し、頭の中を圧迫する。
吹き荒れるネガティブの嵐。
一度吹き荒れたモノは仕方ない。感情と思考を切り離し、嵐が過ぎ去るのを待つ。
ソファにぐでっと仰向けになりながら、ひじ掛けに首を載せていた私はそのままぐで~~っと伸びをして、完全にひじ掛けからのけぞるような格好になる。
そのままリビングの棚に飾られた写真を眺めた。
フレームに入った千川家の家族写真。
おじさんやおばさんと一緒に小さかったころのアサちゃんやハルくんが笑顔で写っている。
この家はあったかい。
ご両親は海外に出ていて、アサちゃんもいまは沖縄の大学に在学。
ハルくんがひとりで住んでいるのに、この家の温もりは昔とちっとも変っていない。
とても穏やかで、居心地がいい。
アサちゃんも、ハルくんも見た目はよく似ているけど、性格や価値観は全然違ってる。
それなのに纏っている空気がおなじなのは、この家で育ったからだろう。
だらこそ、思う。
私なんかが、本当にここにいてもいいのかと。
私は手のひらをかざす。
昨日、握手を交わしたハルくんの手の感触を思い出す。
昔のハルくんの手は小さくて、柔らかくて、温かくて、天使の手とはこういうモノを指すのではないかと思った。
いまのハルくんの手は、全然天使じゃない。男の子の手だ。
大きくて、ごつごつして、少し冷たく、力強い。
だけど、あの頃とおなじように私の手を労わるように握り返してくれた。
私が悪夢にうなされていた時も。
――大丈夫ですよ。大丈夫、大丈夫。
ハルくんが唱えてくれた「大丈夫」のおまじないが、まだ耳の奥に響いている。
いつのまにかネガティブの嵐は止んでいた。
心なしか胸の鼓動だけはやけに強く響いている。
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