第9話 マルクト広場

 洗面所の鏡がっ! 洗面所の鏡がっ!

 つま先立ちしないと顔が全部写らない。

 いくらなんでも、こんなに身長差があるのかと日香里はちょっと悔しい。


 オランダ到着の翌朝、日香里はシャワーを借りた。そしてそのまま浴室内の洗面所でメイクを始めたのだが、その鏡の位置が規格外に高い。

『いや、規格外ではないんだろうな、オランダの人々にとっては』とは思うが訳もなく何だか悔しい。

 とにかく、日香里はつま先立ちでプルプルしながら必死にメイクしていた。


「ひかちゃん、踏み台、借りて来たよ」

 そこへ美乃里が踏み台を持って現れた。

「さっきさ、トイレに入ったときにびっくりしたのよ。この鏡の位置に。びっくりして何か笑っちゃった。でさ、多分ひかちゃんつま先立ちでメイクしてるだろうなって思って借りて来た」

「ありがとう! でもさ、踏み台使うの何か悔しくない? 負けたような気がするんだけど」

「あはは。そんな変な意地はって足がつっても知らないわよぉ。今日は凄いパイプオルガンのある教会見に行くのに」

「え? そうなの? 凄いパイプオルガン?」

「そう。ここから直ぐのとこに結構有名な教会があるんだって。そこのパイプオルガンが凄く大きくて歴史的にも素晴らしいものなんだって。モーツアルトとかヘンデルも弾いたことがあるそうよ」

「へえ、うん、それは見たいわ! うん! 確かに、ここで疲れてる場合じゃないわね。意地は捨てて遠慮なく踏み台借りるわ」



 そうしてお昼少し前、三人は夕食の買い出しを兼ねて、ご近所散策に出かけた。ついでに何処かでランチも済ませよう、という事になった。幸い天気も上々だ。

 ところでロバートはと言えば、今日は平日だから日香里達が寝ている間に出勤してしまったそうだ。少し申し訳ない。

「いいの、いいの。ロバートは朝、瞑想するの。独り時間を楽しんでるみたいだから、私も邪魔せず、いつも寝てるのよ」

 満里奈がそう言うから、美乃里は思わずロバートが瞑想している様子を想像してクスリと笑う。

『西洋人と瞑想・・・・何だか妙に様になるな』


 階下に降りて通りに出ると、さすがは商店街の真ん中。平日にもかかわらず賑わっている。

 但し営業は木曜日を除いて夕方五時まで。木曜日だけは二十一時まで延長になるという。なぜ木曜日なのかはよくわからないけれど。


 五分ほど歩いて商店街を抜けると、大きな広場に出た。

 ヨーロッパではよく見かける『マルクト』と呼ばれる石畳の広場だ。国によって呼び名や歴史的背景、使われ方は様々らしい。

 ここ、オランダではその名の通りもっぱら『マーケット』的に使われることが多く、屋外店舗が立ち並んだり、蚤の市が立ったりするそうだが、時にはカーニバルが催されたりもするらしい。

 そして、そういう事のある日も無い日も、マルクト広場を取り囲む飲食店のテーブルや椅子が無造作に(そう見えるだけで一定のルールはあるのかもしれない)並べられる。大抵のお客さんは本体の店舗内より、このマルクト広場に並んだテーブルに着く。

 店舗内の席はゆったりしてて座り心地もはるかに良さそうなのに、何故かみんな外の席に座る。外の席はテーブルはガタついているし、椅子はクッションもなくお尻が痛い。隣の席との隔たりもなくギュウギュウ詰めだ。あの飛行機のエコノミー席より狭いかもしれない。オランダの乾燥した空気の中だ、ほこりも多い。それでも、人々は店内の席など目もくれず当たり前のように外の席に座る。

 (※ これはコロナが猛威を振るう前年なのでコロナが影響しての事ではないです。 そしてコロナ収束?の四年後も同じでした)


「なんか圧巻。これが日常なんでしょう? 日本だったらイベントでしか見られない景色だわ」

 日香里にとっては目に入るもの全てがカルチャーショックだ。

「ほんとに。以前、何処だったかな、トラム(路面電車)の線路ギリギリのとこまでテーブルが並んでるところがあって。よくもまあ事故が起きないもんだなあって感心したわよ」

 美乃里が言うと、満里奈が付け加える。

「それがね、結構、事故あるのよ。それでもこの文化は変わらないの。日本だったら、そんな事故があったら社会問題になりそうだけど。」

 実は店外にテーブルや椅子を並べるのはマルクト広場に限った事ではない。道路沿いの店舗でも、ほんのちょっとのスペースがあれば、そこにテーブルを並べる。それも信じられないくらいギュウギュウ詰めに。

「命をかけてでも外で食べたいのね」

 日香里は、それなら仕方がないという顔で頷きながら呟いた。

「命をかけてるつもりはないと思うけどね」

 思わず美乃里が笑いながらツッコむ。


 目当ての教会は『聖バーフ教会』というゴシック様式のプロテスタント教会で、このマルクト広場の主役でもあるのだが、ドーンと存在感を主張する感じではなく、風景そのものといった感じで建っている。

「もともとはロマネスク様式で建てられていたんだけど、二度ほど火災に遭って、ゴシック様式で建て直されたんですって。しかも、最初はカトリック教会だったけれど十六世紀の宗教改革後プロテスタントに変わったそうよ。って、にわか仕込みの知識だけどね。ふふふ」

 満里奈が一応、ガイドの役目を果たそうと一夜漬けの知識を披露する。

「なんだか『テセウスの船』みたい」

 思わず美乃里がそう言うと満里奈もパンと手を叩いて同意する。

「ほんと! 言われてみればまさに!」

「テセウスの船?」

 しかし、日香里には初めて聞く言葉だったようだ。

「えっとね、船が一隻あるとするでしょ? その船がさ、長い年月の間に何度か修理とかして最終的に全部のパーツが入れ替わったとしてさ、そしたらその船は、最初のものと同じ船と言えるのか? っていう何だか意地悪な問答なのよ」

「あはは。なるほどね、そりゃ難しい問題だわ。でも、私には簡単よ。この教会に関して言えば同じものよ。そうじゃなきゃ困るわ」

「え? 困る?」

「そうよぉ。今、満里奈さんの説明聞いて、長い年月と歴史を全身で感じてたんだもの。そういうの全部ひっくるめてこの教会がここに建ってる訳でしょう? なのに、最初の教会とは全くの別物、なんて言われたらショックだわ」

「そうか、あはは。そうよね。全部、この教会の歴史なんだものね」

「でもさ、最初にこの教会建てた人達からすれば、別物って事になるかもよ。あと、カトリック教会の頃にここで祈った人達とかも同じ教会とは認めないかも。ふざけるな、くらいに思ってるんじゃない? ふふふ」

「なるほどね。結局、見る人によって変わる訳ね。そりゃあそうよねぇ」

 とはいえ、キリスト教に馴染みのない日香里や美乃里にはキリスト教信者の細やかな心の有りようまでは想像できない。あくまでも無責任なビジターとして、この建物の歴史的背景に心を馳せながら今この時間を楽しんでいるだけだ。


 教会の中に入ると、信者ではない日香里達でも何となく厳かな空気を感じる。美しく、それでいて華美でない内装。それに日常的にここに通っている風な人々。

 歴史と宗教の重みがありながら、地域の人々に馴れ親しまれているのが伝わってくる。

 中央部分が部屋のように仕切られていて中は見えないが、讃美歌の練習中のようだ。合唱の歌声が響いて、日香里達はとても幸運な気持ちになった。練習とは言えタイミング良く生の讃美歌まで聞けたのだ。


 そして『凄いパイプオルガン』との対面。

 入り口から入って一番奥の突当りの壁一面がそのパイプオルガンだった。様々な彫刻も施され、巨大かつ美しい。

 1738年にドイツ生まれのオランダ人、クリスチャン・ムラーという(!)が製作、当時は世界最大のパイプオルガンだったそうだ。1766年には10歳のモーツアルトも演奏、それより前にはヘンデルも二度演奏しているとか。

 教会といい、パイプオルガンといい、まさに歴史を超えてそこに存在している感が凄い。そして美しい。

「これは最早、楽器というより建造物ね。そりゃあ、オルガンって表現になって当然だわ」

 オルガンのパイプを見上げながら美乃里が言う。

「今現在は世界最大のパイプオルガンはアメリカの何処だかにあるんですって。ごめん、何処の州だったか忘れちゃった。でね、そのオルガンはもう大きすぎてパイプが一体何本あるかはっきりとは判らないんですって。って、そんな事ある? 建築家が作ったんなら設計図とかちゃんとありそうだけど」

 追加の一夜漬け知識を笑いながら披露する満里奈に日香里も美乃里も

「ええーっ?」

「在り得ない!」

 などと言いながら一緒に笑っていたが、ふと日香里が真顔で言う。

「じゃあ、もしかしたらこのオルガンには鍵盤が無いの? オルガンというからには鍵盤があるはずだけど?」


 日香里の問いに、美乃里も満里奈も『そう言えば』という顔をして、鍵盤を捜してみるが見当たらない。

 見えているのは巨大なパイプ部分だけなのだ。ただ、位置的にこの辺だろうという部分には大きな扉があったから、おそらくその扉の奥にはちゃんと鍵盤があるのだろう。

 その扉を恨めしそうにじっと見ている日香里に美乃里は身構える。日香里が扉を開けようとしたら止めなければと考えているのだ。時々、好奇心の奴隷になる日香里には用心しなければならない。異国の地で警察沙汰は勘弁だ。

「普段は見られないのね」

 さすがの日香里も扉を開けようとまではせず、残念そうに言ったから美乃里はホッとして言う。

「でも、これだけのパイプと彫刻だけでも十分よ。普通の観光地みたいに混んでもないし、穴場中の穴場だわ」

「それは、ほんとそう。こんなにゆったりとこれほどのものが見れるのは贅沢すぎるわ。満里奈さんに感謝ね」

「いえいえ、私こそ。近くにこんなに素敵なものがあるのに、こうやってしっかり見学する事って意外に無いのよ。二人のおかげで新しい発見が出来たわ」


 その後、三人はマルクト広場の一角でお洒落なランチを食べて、写真を撮り、スーパーマーケットで夕食の買い物をした。

 スーパーの買い物カートも、レジのシステムも、棚に並ぶ食品も、全てが物珍しい。けれども、ここに暮らす人たちにはこれが日常なのだ。


 運河と自転車が象徴的な国、オランダ。

 明日はSLと船で遠足だ。




 



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