第8話 日香里と美乃里の欧州旅行③ オランダ到着
日香里は身のまわりを片付け、シートベルトを締める。いよいよ着陸だ。
機内での十二時間は狭いながらも結構楽しかった。食事も美味しかったし、映画も二本見た。
離陸したのが十四時過ぎだから日本は今、夜中(早朝?)の二時過ぎのはず。一方、夏時間のオランダは十九時過ぎ。それなのに窓の外は夕暮れ前のように明るい。この季節のオランダは明るい時間が長いとは聞いていたが、予想を上回る昼間感。
「どうしよう、ひかちゃん。私、寝すぎちゃったわ」
シートベルトを締めながら美乃里がそう言った。
「仕方ないわよ。日本は今、夜中だもん。眠くなって当然よ?」
日香里はむしろ眠くならない自分に少し引きながら返答する。
「そうなんだけど、今夜、眠れなくなるかも」
「そっかあ、そうやって時差ボケってのになるのね。でもさ、私も私で、ちっとも寝てないのに今夜も眠れそうにない気がするんだけど」
「あはは。ひかちゃんらしいわ。でも、今夜はちゃんと寝ないと明日からの観光に響くわよぉ」
「え? そうね、本当にそうよね。どうしよう、困ったわ」
「でも、結構疲れてるはずだからベッドに入ったら案外すぅーっと寝ちゃうかも」
「そうね。うん。今から心配する事ないか。あはは」
そんな話をしているうちに前方に陸地が近づいてくる。
日香里は窓からの景色に目が離せない。何だか大きな地図を見ているようだ。それがどんどん立体的な風景になり、眼下に街が広がる。間もなく真っ直ぐな滑走路が現れ、軽い衝撃で着地したのが分った。
飛行機はなおも疾走する。
この長い時間、空の上にいたというのに日香里はあらためて信じられない気持ちになった。これだけの人間やら荷物やらを載せたこの重たそうなモノが、どうして空を飛んだりできるのだろう、と。
確かに翼はついているが、機体に比べて小さい気がする。空を飛んでいる鳥たちの羽は広げれば体より大きいか同等くらいだ。どう考えても納得がいかない。
しかし、飛行機にとっては日香里の納得など必要ない。今も世界中の空を飛び回っている。日香里が不思議がろうが何だろうが、飛行機は飛べるのだ。
到着後は結構な緊張が続く。まずは入国審査。
「EU圏外のレーンに並ばなきゃいけないんだけど」
「みーさん、こっちで良いんじゃない? 日本人が沢山いるわよ」
日香里が美乃里の服を引っ張りながら小声で言う。ありがたい事に日本人はいつでもどこにでも一定数いる。
一見しただけでは中国人や韓国人も日本人と区別がつかないが、装いや連れとの距離感、雰囲気などで何となくわかるから不思議だ。
「みーさん、私、英語判らないわよ。大丈夫かしら」
「私だって、よっぽどゆっくり喋ってもらって、わかるのは三分の一くらいよ。とりあえず困った顔で笑いながらイエス、イエスって言っとけば何とかなる、と、思う。あ、それから多分最後に滞在日数聞かれるからトゥウィークって言えば大丈夫。おそらく」
美乃里が日香里に伝授した対策は実にふんわりしたものだった。おまけに最後に『おそらく』なんて言葉もくっつけるから、日香里は不安が拭えない。
不安を抱えたまま並ぶこと十数分。ついに日香里の番が来た。
入国審査官は表情を崩さない。怖い。
何を聞かれているのか分からないが愛想笑いでごまかしながら、美乃里に言われた通り、いえす、いえす、と繰り返す。最後に審査官が指で 一? 二? とやって数字を聞いているようだったから
「トゥウィーク」
と、日香里も指でVサインしながら答えると
「オーケー」
と、ようやくパスポートにスタンプを押してくれた。
そのやり取りの間中、日香里の頭の中では突然現れた複数の警察官風の人間に取り囲まれ腕を掴まれ別室に連れていかれる自分の姿があったから、オーケーと言われた時には、その場に座り込みそうなほどホッとした。
「みーさん、私の審査官、怖い人だった」
「まあ、あっちも仕事だしね。言ってみれば国を守る大事な門番なんだからヘラヘラしてる訳にもいかないんじゃない?」
「あ、そっか。門番なのか、そうよねえ。重大任務だものね。じゃあ仕方がないか」
「でも、私、横から見てたんだけど、ひかちゃんの審査官、何だか笑いを必死にこらえてる顔に見えたわよ」
「ええっ?! 私、なんか変だったのかしら。やだなあ」
とは言いながら、それでもそんな話を聞いた途端にさっきの審査官に親しみがわくから妙なものだ。
そんな会話をしながら荷物を待っていると、ようやく次々鞄が流れて来た。
「なんか回転ずしみたいね。お腹がすいて来た」
「おにぎり、あるわよ」
そう言って美乃里がニヤリと笑う。
「あはは。今ここで食べるわけにはいかないわよ、さすがに」
「ふふふ。そうね。動画とられちゃうかも」
そう、今の時代、ほぼ全ての人間がいつでも動画撮影できてしまうのだ。
「もはや『旅の恥はかき捨て』なんて通用しないわね」
「そうよぉ。お行儀よくしときましょ。あ、ほら、あれ、ひかちゃんのじゃない? あのピンクの」
「あ、ホントだ。良かったぁ。ちゃんと出て来た」
「私のも出て来たわ」
そうして二人は自由の身になったが、おにぎりはまだ食べられない。
この後二人はタクシーでアムステルダムの隣のHaarlem(ハールレム)という都市に向かう。美乃里の友人、
満里奈は空港まで迎えに行くよ、と言ってくれたのだが、到着時間が結構遅いこともあって美乃里は辞退した。そこまでの面倒は掛けられない。
Haarlem(ハールレム)までは鉄道やバスを利用するのも面白そうだが、駅やバス停から友人宅までは結構距離がある。荷物の事を考えるとタクシーが無難だろうという事になった。案内看板に沿ってタクシー乗り場まで移動する。
「ひかちゃん、はぐれないようにねー。私とはぐれるとWi-Fi使えなくなるから」
「そっか。ポケットWi-Fi、みーさんのカバンの中だもんね」
「私、看板の道案内に気を取られてひかちゃんの事見失いそうだから、ひかちゃんは私を見失わないでね」
「うん。頑張るわ。こんなところで迷子になっておまけにスマホが使えなかったらお仕舞だもん」
「あ、でも万が一はぐれた時は電話してね。電話は使えるから」
「そうなの? でも通話料、高いんじゃないの?」
「国内よりは高いけど、知れてる。長電話しなきゃ、そんな千円も二千円も掛かったりしないから大丈夫。多分」
「みーさん、最後にいつも保険掛けるのやめてよ、怖いじゃない」
日香里は笑いながら抗議する。
「あはは。バレてた? 悪いクセよね。気を付けるわ」
案内看板通りに進んで空港の外に出ると道を一本隔ててタクシー乗り場が見えた。時間帯のせいか空いている。
飛行機を降りてから、なんやかやで現在二十一時前。外はまだ明るいけれどタクシーは夜間料金になるんだろうな、と美乃里は何だがうらめしい。
ドライバーさんは車を降りて、二人の荷物をトランクに積んでくれる。日本のタクシーと何ら変わらない。良い感じのドライバーさんだ。
行き先はスマホの地図と、あらかじめプリントアウトしておいた住所(英語表記)書きを見せる。ドライバーさんは頷きながら運転席横のナビに設定している。後部座席からも見える縦長の大きなナビで、美乃里はこれなら乗客も安心だと思って見ていた。
日香里はといえば既に車窓から初めてのヨーロッパを楽しんでいる。
満里奈の住まいはちょっとした商店街の中にあった。薄明るいとはいえ二十二時近くだからどの店もシャッターが閉まっている。そのうちの一軒の上階が借家になっていて、満里奈の住まい以外にも複数の住まいがあるようだった。
満里奈と夫のロバートは通りの端の判りやすい場所まで迎えに出てくれていた。
店舗横のドアを開け、急な階段を上ると満理奈宅の玄関ドアが現れる。その急な階段をロバートが荷物を運んでれるので、美乃里はとてつもなく申し訳ない気持ちになったが、彼はニコニコしている。
そこは一般的なアパートとは違い、かなり変則的に別の住まいが配置されているようだった。中二階のようなところから廊下が伸びて玄関ドアに繋がってるふうな何階なんだか判らない不思議な位置の住まいもある。
その共用階段の手すりの横にちょっとした棚程度のスペースがあり、ワインやら缶詰やらが無造作に置いてあるのに美乃里は目をとめた。
「これって、誰かの忘れ物?」
と問うと
「今月末にここの住民でバーべーキューをやる企画があるの。で、ここに寄付の飲食物を置くことになってて。あ、うちもワインを一本置くつもりで忘れてるわ。ロバート、後でついでに持って来て」
「オーケー」
それだけで住民同士フレンドリーなんだ、とか盗まれる心配もなくて治安が良いんだ、とかいろんな事がわかる。
後で聞いたことだがオランダの窓は大きめにも関わらず暗くなってもカーテンを閉める家は少ないのだそうだ。中が見えても気にしていないようだと言う。それにはさすがに日香里も美乃里も驚いた。いくら治安が良いとはいえ、テロも詐欺も殺人も普通に起きている国だ。やはり国が違えば感覚も違う。それはもはや理屈ではないのだろうな、と納得するしかない。
「明日は休憩がてらご近所の散歩でもして、あさってはロバートも休みだから一緒に出かけましょう。蒸気機関車とフェリーで遠足よ」
就寝前だが『お腹が空いてるでしょう?』と満里奈は軽い食事をテーブルに並べ、ワインを飲みながらそんな提案をしてくれた。その提案に美乃里は驚く。
「遠足って、あれ、チケット取れたの?」
「うん。取れたの。お天気が心配だったから当日にしようかと思ったんだけど、やっぱりそれだと売り切れてるかもしれないし。週間予報で大丈夫そうだったから取っちゃった。ただ、チューリップ畑は季節的にギリギリ終わっちゃった。残念」
「わあ。素敵! 楽しみ! チューリップは残念だけど、でも、だからなんとかチケット取れたんじゃない? チューリップの見られる時期はほぼ無理みたいだもの。逆にこの時期でラッキーだったのかも」
チケットが取りにくいと聞いていた美乃里は半ば諦めていたのだが、満里奈に感謝だ。
「機関車と船?」
日香里が尋ねると満里奈がパンフレットを渡してくれた。
オランダ語だから、日香里はスマホの翻訳アプリを使って読んでみる。かざすだけでちゃんと日本語に訳してくれるから感動ものだ。飛行機が空を飛ぶくらい不思議だが、世の中には賢い人が沢山いるという事だ。そういう賢い人たちのたゆまぬ努力のおかげで私達凡人は豊かな毎日を送れているんだなあと考えて、日香里はふと思う。この世界で一番のVIP待遇を受けてるのは凡人なのかもと。
まあ、それはさておき、パンフレットには魅力的な内容が並んでいた。
Hoorm(ホールン)~Medemblik(メーデルブリク)間を蒸気機関車でゆったりと走り、Medemblik(メーデルブリク)で一時間二十分休憩の後、Friesland(フリースラント)と言うフェリーでEnkhuizen(エンクハウゼン)まで、というコースだ。
Medemblik(メーデルブリク)での休憩時間は丁度ランチタイムになるので、どこかのお店で食事はいかが? という丸一日かけての楽しそうなプランになっている。
これは、こんなワクワクを用意されては、きっと今夜は眠れない。日香里はそんな嬉しい悩みを抱える羽目になった。
けれど、その二時間後、日香里は眠れぬ美乃里の恨めしそうな視線をものともせず、しっかり眠りについていた。
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