第7話 日香里と美乃里の欧州旅行②

 大きい。

 オランダ航空の客室乗務員の人達だ。

 

 オランダの平均身長は世界一だと言う。日香里は今、それを実感していた。

 ふと、お隣の幸江さんが詐欺に遭いかけたのを思い出す。高身長を気にしていたという女性も今ここに居たら安心できるかもしれないなあ、などと思うそばから、いや、そういう問題でもないんだろうな、と考える。


 美乃里の取った飛行機の座席は進行方向を向いて左窓側の二席だ。三席並びだから通路側の席には誰か見知らぬ人が座るはずだ。

「ここで十二時間は確かにちょっと辛いね」

 そう言う日香里を窓側に座らせ、美乃里は真ん中の席に座る。隣にどんな人が来るかわからないから、一応、気を利かせたつもりだ。

「十二時間っていうのは飛んでる時間だから、実際にはもう少し長いんだけどね。でも私達は小柄だからまだマシよ。体の大きい人はきっともっと窮屈よ」

「うん。うん。特にオランダの人って大きいんだってね。話には聞いていたけど、実際に並んでみると圧倒されるわ。けどさ、そのオランダの飛行機だから座席も少し大きめかと思ってたんだけど。そんな事ないのねぇ。小柄で良かった、ほんと」


 乗客は西洋人と思しき人々とアジア人らしき人々が半々くらいだ。その中に日本人はどれくらいいるんだろう? 

 とりあえず後ろの座席の若い女性三人組は日本人らしかった。交わしている言葉が日本語だ、というか関西弁だ。リズムが良い。


「さて、靴脱いでゆったり構えよう。先は長いわ」

 そう言って美乃里は各座席に置いてあったブランケットのビニール袋を慎重に開ける。それからその袋を綺麗に開いて足元に敷いた。その上に手回り品を入れた鞄を乗せる。

「こうすれば足も汚れないしゆったりできるよ。なんなら鞄の上に足を乗せても良いし」

「なるほど。じゃあ私も。あ、でもスリッパの出番は無くなっちゃうわね」

「あら、スリッパ用意してたの? さっすが、準備良いわね。スリッパはあった方がいいわよ。トイレ行くときとか」

「ああ、そっか。十二時間もあるんだからトイレには行くわよね。百均のスリッパだけど大丈夫よね?」

「充分だと思うわ。たださ、座席を取るときに迷うとこなんだけど、窓側だと通路側の人にどいてもらわないと出られないのよねー。これがちょっと辛い。タイミング見計らって行かないと。寝てたりしたら起こさないとダメだし」

「ほんとだー。確かに。どんな人が座るんだろ? 怖そうな人とかだとアレよねぇ」

 だが、通路側の席には一向に誰も来ない。遅れて今頃走っているのだろうか? と日香里は想像する。想像の中のその人は四十前後の男性だ。何故かはわからない。


 結局、通路側の席には誰も来ないまま、シートベルトの着用を促され各座席前のモニターに注意事項を説明する動画が流れ、飛行機はそろりと動き出した。

 機内はほぼ満席だから三人席を二人で占有できるなど余程の幸運だ。これでトイレ問題も心配ない。

 だが、日香里の想像の中で四十前後の男性はガックリと膝をついて飛行機を見送っている。日香里は同情を禁じ得ない。まあ実際には最初から空席だったのだろうけれど。

 美乃里はラッキーとばかりに真ん中の座席を空けて通路側に移動する。真ん中の座席は二人の共有スペースになった。


 そして機長の挨拶のアナウンスが流れる。やはり英語はお洒落だ。何を言っているかわからないのに素敵に聞こえる。機長がどんな人かは分らないが、アナウンスを聞きながら知らず知らずに想像してしまうその人は、映画俳優のような佇まいだ。

 その時、ふいに機内に歓声と拍手が沸き起こった。

「?」

 日香里は訳が判らない。が、その後わずかに「リタイア」「アフター」の二言だけ知っている単語が聞き取れた。おそらくこのフライトを最後に引退するという挨拶だったのだ。たった二つの言葉と乗客の反応で状況が理解できたのは幸先が良い、言葉なんて判らなくても伝わるもんだと、日香里はちょっと調子に乗って皆の拍手に加わった。美乃里も一緒に拍手している。


 ほどなくして機体は速度を上げ滑走路を疾走し始める。いよいよ離陸だ。

 日香里は思わず美乃里の腕を掴む。もう一方の手は座席のアームレストを掴んでいる。飛行機が初めてという訳ではないが本当に久しぶりなのだ。その上、国際便は国内便の遥か上を飛ぶと聞いた。アームレストを掴む手に力が入る。

 裏腹に窓から見える景色には見惚れる。目が離せない。景色は斜めになり、やがてテレビ画面のように上空から地上を映し出す。日香里は今、空の上だ。

 シートベルト着用ランプが消える頃には窓の外は一面の雲海で、たまに遠くの雲の切れ間から海なのか空なのか判別できない青色が見える。


 座席前のモニターにはゲームや映画も用意されているが、今一番面白いと思ったのは現在地を映す画面だった。

 高度や到着時間、残りの時間などが表示され、右窓、左窓、機長席から見える景色が選べる。

 地図上には何処かで聞いたことのある外国の地名が散在し、その上に今居るのだと思うと現実と虚構の境にいるような変な感じがする。こんな感じは慣れてる人には味わえない、不慣れな人間だけの特権だ。存分に楽しもうと日香里は思う。どうやら空に浮かぶ怖さは上手く忘れられたようだ。


「みーさん。私、楽しいわ」

「ほんと? なら良かった。飛行機怖いって言ってたからちょっと心配だったけど」

「ああ、それはね、もう観念した。まな板の上の鯉よ。ジタバタしても仕方ないし、まな板の上を楽しむことにしたわ」

「まな板の上じゃあないけどね」

「あはは。そうね、空の上ね」

「座席もさ、ラッキーだったよね」

「うん。初めての海外旅行で私ついてるわ」

「ほんと、ほんと」

「でも、誰か乗り遅れたりしてたら気の毒ね」

「まあ、そうだけど、多分空席だったんじゃない?」

「そうね、そう思っておくわ。ところで、ちょっとお腹がすいて来たんだけど、例のおにぎり、まさかみーさんの足の下じゃないよねぇ?」

「あはは。大丈夫。それだけはこっちの鞄に入れてある」

 そう言って美乃里は膝に乗せた小さい鞄をポンポンと叩く。

「そろそろ食べる?」

 日香里が言うと

「そうねえ」

 と美乃里は鞄をごそごそしだすが、ふと前方を見て手を止めた。

「ご飯、来たみたいよ」

 なぜか食事のトレーを持った客室乗務員がまっすぐ日香里を目指して歩いてくる。他の誰にもまだ食事は配られていないのに、どういう訳で私が最優先なんだ? と日香里は恐れおののく。まさかさっき『お腹がすいた』と言ったのを聞かれたのか? いや、だとしても日本語だし。いや、日本とオランダを結ぶこの飛行機の乗務員さんは皆、日本語が堪能なのか? 

 あたふたする日香里のテーブルを横から美乃里がセットする。客室乗務員はニコッと爽やかに笑うと

「ヒカリ?」

 と尋ねる。

「い、いえす」

 なんとか答える日香里。すると再びニコッと印象的な笑顔とトレーを置いて去って行った。

「どうして?」

 自分が初めての海外旅行者だから特別扱いなんだろうか? どこかのファミリーレストランで見るお誕生日祝いのような、そういう感じの?

「そんな訳ないじゃない」

 呆気にとられる日香里の心中を察したかのように美乃里が言った。それから

「ひかちゃん、お肉食べられないでしょう? この飛行機、追加料金無しでベジタリアンの食事が選べるの」

「え? そうなの?」

「うん。だから、みんなと違うメニューでややこしいから先に持って来てくれたのよ、多分」

「なんと。じゃあ、みーさんが食事の指定をしておいてくれたってこと?」

「うん。私も知らなかったんだけど座席選ぶときに見つけたの。でもね、同じベジタリアンでも種類がものすごくあってさ、びっくりした」

「ええっ? そうなの?」

「そうなの。ヴィーガンはよく聞くけど、他にもオボ・ベジタリアンとか、ラクト・ベジタリアンとか、なんとかかんとか。ひかちゃんにぴったりのは無かったから、とりあえずオボにしたの。これは卵はOK、肉と魚と乳製品はNGってやつ。これで我慢して」

「我慢て。みーさん、ありがとう! 安心して外食できるって私にしたら、こんなに素晴らしい事は無いのよ。サラダにしたのにベーコン入ってたり、ベジタブルカレーって書いてあるのに牛肉も入ってたり、何度泣いたことか。それを機内食で、何の心配もなく思いっきり食べられるなんて! もう感動だわ」

 日香里は貝やカニ、ウニ、イカ、などは大好物なのに鮭以外の魚と鶏肉を含む肉全般が苦手なのだ。ハム、ソーセージもダメだ。だがいくら何でもそんな我儘に合わせてくれるメニューなどは無い。

 せめてベジタリアン向けのメニューが有ればと思うのだが、まだ日本には少ない。その点、海外は宗教上の理由などから食事制限がある場合も多く、こういった配慮が定着しているのだ。ベジタリアンにはありがたい。


 遅れて美乃里の食事も届く。見比べてみると確かに内容が違う。日香里はすっかり感激している。


「そう言えば、さっきの機長さんの挨拶って」

 食べながら日香里が言うと

「ひかちゃんも判った? 最初は何で皆、拍手したんだろうって思ったけど」

「私も。英語なんてさっぱりだし」

「でもいくつか知ってる単語があったから」

「そう。ふふふ」

「何だか今回の旅行、楽しそうな予感がするわね」

「うん。素敵なハプニングでスタートだもんね。みーさんのおかげで機内食も楽しめるし」

 

 食事が終わり、トレーの回収のあとは飲み物のサービスだ。ワゴンが近づいてくる。

「○×△○△?」

「ウィスキー」

 美乃里は眠るつもりなのだろう、なんとウィスキーを頼んでいる。

「○×△○△?」

 もちろん、日香里には何を言っているかわからない。けれど、飲みたいものを言えば良いはずだ。言葉は判らなくても人間同士、通じる。そう信じて日香里はきっぱりとした日本語で言った

「コーヒー」

 乗務員さんはニッコリ笑うと紅茶をくれた。

 おそらく、ヒーと伸ばしたのがティーと聞こえたのだろう。紅茶も美味しかったけれど。

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