第6話 日香里と美乃里の欧州旅行①

 ついにこの日が来た!


 妹の美乃里に誘われて日香里が初の海外旅行を決意したのが三か月前。パスポートを作り、キャリーバックと大きなリュックを買った。

 ああでもない、こうでもないと詰め込んだ荷物をひっくり返しては詰め直し、パスポートは首から下げて衣服の中に隠した。財布とクレジットカードは腹巻きの中。スリ対策も完璧だ。

 そうやって準備万端、成田エクスプレスで美乃里と共に成田空港に到着した。

 搭乗開始時刻までまだ数時間ある。


 美乃里は旅行記を書いてるだけあって海外には何度か行っているが、旅行記としては国内が主で海外旅行にはそれほど詳しい訳ではない。かといって旅行社を利用するほどでもないか、とオリジナルの旅程を用意したのだが今回は慣れない日香里と一緒だから少し緊張している。


 まずは成田からオランダ航空でアムステルダムへ。

 アムステルダム近郊に友人を訪ねる。そこで数日泊めてもらい、ついでに友人の案内でオランダ国内を観光。そのあと鉄道でベルギーへ。

 最後にパリまでタリス(アムステルダム、ブリュッセル、パリを結ぶ新幹線っぽい鉄道・赤いユーロスター)で移動しベルサイユ宮殿に出かけ、帰りはシャルル・ドゴール空港からエールフランス航空で日本へ、という若干詰め込み過ぎなスケジュールだ。全旅程16日間。決して若くはない二人の体力は大丈夫なのだろうか? などと心配するのは周りの人間ばかりで本人たちは若いつもりでいる。


 こうしておば様二人の珍道中が始まるのだが、なにしろ全てが初めての日香里にとっては異世界転生に等しい。


 この数年、電車移動などほとんどしなかった日香里は、まず国内移動の『交通系カード』に驚いた。

 いちいち切符を買わなくて良いのだという美乃里が見せたのは、とぼけたペンギンの絵が描いてあるカードだ。駅の改札機にタッチするだけで良いらしい。

 クレジット機能があるからチャージも要らないそうだ。

「なんと、まあ」

 実際に美乃里が使っているのを見てその便利さに驚愕する。


 こんな便利なものがあるのは知らなかったから、たまに電車に乗るときは券売機で切符を買っていた。

 込み合った券売機に並んでようやく自分の番になる。が、その券売機も最近は複雑になっていて次々に選択肢が現れ、目的の切符に辿り着くのに時間がかかる。そのおかげで電車に乗り遅れた事もあった。それがこのカード一枚でピッと通れるという。


「みーさん。私もそのカード作る。何だかクレジットカードが増えて嫌だなって思ってたんだけど、それは欲しい」

 そういう日香里に、美乃里はスマホでも同じ機能が使えるはずだと言う。

「確かスマホでも大丈夫なはず。クレジットカードと紐づけして、お財布ケータイに指定? だか何だかすればサクッと通れるようになるって聞いた事があるわ」

 そう告げた瞬間、美乃里は日香里の目が輝いたのを見た。本当に効果音が鳴ったかと思うほど劇的に。

「それは、ぜひやってみなければっ」

 日香里は既にスマホを手にしている。


 実はパスポートを作りに出かけた際に日香里は見たのだ。路線バスを降りる客がスマホでピッとやっているのを。

 このとき日香里はあらかじめ小銭を用意して、目的地に着くまでじっと握りしめていた。スムーズに降車しなければ『これだからオバちゃんは』と思われるに違いないと言う被害妄想に憑りつかれていたのだ。

 ところがそんな日香里の目の前を、何人かの客がスマホでピッと華麗に降車していくではないか。

 あれをオバちゃんの私が颯爽とやって見せたら、世間のオバちゃんに対する評価に一石を投じられる。そんな大げさすぎる期待が膨らんだ。

 以来、気になって仕方がなかったのだ。

 そんな時に美乃里のこの話である。選択肢はチャレンジ、その一点しかない。

 悪戦苦闘の末、日香里はなんとかスマホにとぼけたペンギンを獲得し、駅の改札は目出度く『スマホでピッ』で通れるようになった。

 しばし日香里は時代の最先端気分だった。


 だが今、成田のコインロッカーの前で日香里は呆然とたたずむ。

 小銭を入れる場所が無い。いや、鍵もついていない。何だこりゃ、なのだ。

 仕方がないので恥を忍んで他の利用者を観察する。

 ロッカーには赤いランプと緑のランプが灯っている。どうやら緑のランプが空きらしい。利用者は緑のランプのロッカーに荷物を入れた後、そのロッカーの並びに設置されたパネルで何かやっている。なんと、最後はスマホでピッだ。

 そこにトイレに行っていた美乃里が戻って来た。

「ひかちゃん、荷物は先に手荷物で預けちゃえばロッカーに入れなくていいよ」

 そう言うのだが、日香里はこのロッカーを利用してみたくて仕方がない。

「みーさん。私ね、預ける目的じゃなくて体験する目的で使ってみたい」

 変な理屈を言う。が、体験は大事だ。美乃里も実はこの手のロッカーを使ったことがない。

 結局、ランチの間の一時間足らずだが使ってみる事にした。

 やってみれば何のことはない、パネルの指示に従って簡単に利用できる。しかも例のスマホに住むペンギンで決済出来た。

「小銭が要らなくて便利だけど、タッチ決済の手段がないと使えないのは辛いね」

 それが美乃里の感想だ。

「でも、今の人はほとんど持ってるんでしょう?」

「多分ね。でも私たち、のんびりしてたら置いて行かれるね。今はまだ何とか後ろの方からやっとやっと時代について行ってる感じだけど。気を抜いたら一人じゃ何も出来なくなっちゃいそう」

「ほんとね。私たちより上の世代の人は既にそうなってるかも」

「まあ、個人差もあるんだろうけどねえ」

「ほんと、つくづくこの旅行を決心して良かったって思うわ。家の近所に引き籠ってたら知らない間に時代が変わってたのよ。ビックリよ」


 そしていよいよ航空機の搭乗手続きに入る。

 ここでも日香里は浦島太郎だ。

 遥かな昔、沖縄旅行に行ったときにはしっかりと紙のチケットだった。それが今はどうだろう、全てがペーパーレス。時代なのは分かるが、どこか不安だ。つい何かしら紙のものを持っていたくなる。

 スマホメールからのチェックイン、続いてQRコードでの手荷物預け入れ、保安検査を経てQRコードとパスポートで出国審査。


 最初は日香里もスマホの便利さに狂喜していたが、ここへ来て、はたと不安に駆られる。

「みーさん、私たち、いつかスマホに乗っ取られるんじゃない?」

 日香里は訳のわからない事を突然言い出すが、美乃里は何となく判ったし共感もした。スマホはもはや、もう一人の自分なのではないかと美乃里も常々思っていたのだ。ありとあらゆるモノがここに入っている。

「ほんと、そうねえ。失くしたら身動き取れなくなるしねぇ」

 美乃里がそう言うのを聞いて、日香里はついダークな世界に妄想を飛ばす。

「失くしたりしたら大変だからっていつか体内内蔵型のものとかが出来てさ、最終的には人格まで乗っ取られちゃうとか?」

「やだ、ひかちゃん、怖いわ。うん、ありそうで怖い」

 二人はちょっとゾッとしたあと、思い出した。免税店での買い物を楽しみにしていた事を。


「搭乗時間まであと一時間ちょっとね」

「あら、大変。全部のお店、見られないかもね」

「急ぎましょ」


 搭乗時刻までに二人が買ったのは、筋肉痛に効く湿布薬とおにぎり。あまり免税の恩恵が無い。

「考えてみたら、ここで荷物を増やすのもねえ」

 美乃里が笑いながら言うと日香里もやはり笑っている。

「確かにぃ。なんかさ炊飯器とかも売ってたわよ」

「帰国する人とかなら買っちゃうのかもね」

「あ、そっか。出かける人ばかりじゃないものね」

「けど、なんで湿布薬?」

 買い物袋を覗いて美乃里が聞いた。

「だってさ、今日は一日中荷物持って歩き回って、この後は狭い座席で十二時間でしょ? 絶対、筋肉痛になると思うのよ。でも、言葉も分からない外国で湿布薬買うのは難易度高そうじゃない?」

「言われてみれば、確かに」

「で、みーさんは何でおにぎり?」

「あはは。たった二週間ちょっとだけど日本を離れると思うとなんか無性におにぎりが食べたくなっちゃって」

「だって、今さっきお昼食べたばかりよ」

「そうなんだけどね。すぐには食べないんだけど、なんて言うかお守りみたいなものよ。私は神様は信じないけどおにぎりは信じてるの」

「やだ、みーさん、おにぎり信者だったのねー。でも早めに食べないと傷むんじゃない?」

「消費期限が明日のお昼になってるから、それまでには食べないとね」

「何ならいつでも付き合うわよ。って、お茶も買っとく?」

「機内サービスで緑茶もあるとは思うけど、買っといた方が安心よね」

「そうねえ、後はもう飛行機に乗って座るだけだもんね。歩き回る訳じゃなし、ペットボトル一本増えても大丈夫よね」

 そう言って自販機の前に立つ日香里。

 その目がまたしても輝いた。


「みーさん、これ、スマホで買えるみたい」

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