第2話

「さて、問題です」 


 俺の胸部にナイフを突き立てたまま、委員長の峰岸が顔を近づけてくる。

 真っ黒に歪んだ瞳に、怯えた表情の俺が反射して見えた。


「このナイフは、はたして本物でしょうか?」


 言われて俺は、恐る恐る自分の体を見下ろした。

 委員長が右手で握るナイフの柄は、俺の胸に密着している。

 どう見たって刺されている。

 だけど俺の制服に、血は染みていなかった。


「偽、物……?」


 震える呟きに、委員長が満足気な笑みを浮かべて1歩下がる。

 白くて華奢な腕が、俺の胸元から離れていく。


 その右手に握られたナイフの刀身は白く、輝いたままだった。

 血は、1滴も付いていない。

 自分の制服のうえから胸部を触るが、やはり、傷口なんてなかった。



「引っ込むタイプのおもちゃかよ。じょ、冗談キツイぜ」


 ゴクリと生唾を飲む。

 依然として、俺の耳元では羽虫が飛ぶような低い耳鳴りが聞こえていた。


 この耳鳴りは、近くに他の契約者がいると聞こえるものだ。

 加えてこの行動。

 間違いなく、委員長は契約者だ。


 だけど俺は、自身が契約者だとバレるような行動はとっていない。

 カマかけは、まだ続いているはずだ。

 委員長のこの眼を見ろ。この観察するような眼。


 きっと峰岸は、俺の反応を見ているに違いない。

 突然の奇行を冗談で済ませようとした俺に対し、峰岸はナイフを小さな鞘にしまった。

 そしてただ世間話をするように、俺に尋ねた。



「お母さんと妹さん、お元気?」



 思わず、ぎょっとした。

 この言葉の真意は、『家族の死を拒んだことを知っている』だ。

 じゃなけりゃ、今ここで、俺の家族に言及する理由がない。


 俺が契約者だと、バレている。

 態度に出しちゃいけないのに、俺の眼は見開いて、クスクスと笑う峰岸を凝視する。



「さて、第2問。ミチル君の家族仲は良い方ですよね。なのにどうしてあの時、あなたは車に乗らなかったのでしょうか?」



 やべえ、頭が回らねえ。

 いや回らないんじゃない。回すんだ。

 考えろ、理由はなんだ。

 俺が拒絶したのは『家族の死』であることはバレている。

 そう告げれば勝てるのに、峰岸がそうしない理由はなんだ。 


 俺を生かしておくことにメリットがあるのか?

 余裕ぶっこいてるだけか?

 どちらにせよ、主導権は完全に握られている。

 とにかく話をつなげて、峰岸が『何を拒絶したか』を探るんだ。


 ぐるぐると対策を考えていた俺に、峰岸がピアスを隠すようにして、右耳にかけた黒髪をその細い指先で下ろす。



「私が何を拒絶したかを考えているの? ふふ、それなら最後の問題です。ミチル君を刺したあのナイフ。あれは本当に、偽物でしょうか?」



 峰岸はそう言って、静かに微笑んだ。



「正解は放課後、教室で。さ。授業は始まっているわ。ホワイトボードを転がして、教室に戻りましょう」






 その後、俺は授業に一時も集中できなかった。

『家族の死を拒んだこと』を言い当てられたら、俺と家族の魂は悪魔に喰われる。


 魂の捕食――おそらくそれは、死を意味するだろう。

 負けるわけにはいかない。もう家族は死なせない。

 勝つのは俺だ。



 授業が終わり、帰りのホームルームの時間。

 俺の目は、右端の最前列に座る峰岸に向いていた。


 ヤツは優等生だ。

 おとなしい性格で教師からの信用はあるが、容姿の端麗さに比べて発する雰囲気は暗く、どこか不気味で、クラスメイトからの人気は低い。

 面倒ごとを押し付けられ、いつも独りでいるようなヤツだ。


 考えろ。

 ヤツが何を拒絶したか。どんな願いを叶えたか。

 悪魔と契約してまで、峰岸が得たかったものは何だ。


「……」


 悪魔と契約した時点で、拒絶した事象は現実から排除される。

 無かったことになる。

 つまり、俺がいま認識できている悪い事象を、峰岸は拒絶していないということだ。

 クラスメイトからの陰口も、貧弱な体力も、それを俺が認識できている時点で、峰岸にとっては拒絶するに足らないことだと意味している。


 もしかしてアイツ、自分に興味がないのか?

 ……いや、そんな人間はいない。


 人間は、利益を求める生き物だ。

 拒絶するなら、不都合な現実のはず。

 順当に考えるなら、ヤツの長所に視点を合わせるべきだ。


 圧倒的に不利な状況に奥歯を嚙みしめて、ほとんど睨むように峰岸を見る。


 峰岸の長い黒髪は、シャンプーのCMかってくらい艶がある。

 顔だって小さいし、スタイルだって良い。

 滲み出る不気味さと陰湿なオーラさえなければ、外見は1軍女子だ。

 だが……容姿を変えたいという願いのために、悪魔と契約するだろうか。



「なんだよミチル。そんな熱い視線を送ってよお。根暗岸さんに惚れたか?」

「やめろ。そういう気分じゃねえんだ」

「うんち」


 俺の視線の先に気づいたのだろう。

 隣に座っている友人の翔太が、アホみたいな変顔を向けてくる。


「んまあ、根暗岸さんの冗談は置いといて。さっきの問題、分かんねえんだけど」



 問題。

 その言葉で、峰岸の舌ピアスが脳裏に浮かぶ。


【問題です】


 あの静かで不気味な声が脳内に響いたと同時、峰岸が振り返って、俺を見て笑った。

 マスク越しでも分かるくらいに、はっきりと。


「え? いまの、え? お前ら、もしかして付き合ってる? ごめんな、お前の彼女のこと悪く言っちまった。訂正するわ。峰岸さんは根暗じゃねえ」



「……そうか。あれは問題じゃねえ、ヒントだ」


 どういうわけか、峰岸は『俺が拒絶した事象』を宣言しなかった。

 それどころか問題と称して、俺に考える材料を与えた。

 そこに、どんな意図がある?


 おそらく問題の答えは、峰岸が『拒絶した事象』だ。

 だけど俺がそれを言い当てたら、峰岸は死ぬはずだ。

 破滅願望でもあるのか?



「おおん。問題12って書いてあっただろ。これはヒントじゃねえよぉう」

「家で復習したら分かるだろ。ちょっと黙ってて」


 翔太がしゅんとなって頭をかかえる。

 だけどこちとら死活問題だ。

 余裕なんてない。


「なんか今日、当たりキツくない? まあいいや、また明日な!」

「おう、また明日な」






 帰りのホームルームが終わり、生徒がまばらに教室を出て行く。

 部活にいく者、帰る者、教室に残ってダべる者。

 一様な行動をとるクラスメイトの中、俺と峰岸だけが誰とも関わらず、ただ自席で取り残されるのを待つ。


 やがて上階から吹奏楽部の音が聴こえ始め、グラウンドから届く野球部の声が活発になってきた頃。

 2人きりの教室で、峰岸が立ち上がって教室のドアを閉めた。


 左方の開けられた窓から初夏の風が吹き、行き場を失い教室中を駆け巡る。

 壁に張られたプリントが波打ち、落ち着くと同時。

 峰岸が、俺の席の前までやってきた。



「問題、解けました?」


 感情のこもっていない声色で、峰岸が目を細めて問う。

 自席に座ったまま、机を挟んで峰岸に返す。


「事故の当日、なぜ俺が車に乗らなかったか。あのナイフは偽物か。そういう問題だったな」



 あの日、俺が車に乗らなかったのは気分じゃなかったからだ。

 それ以外の理由は――。


 いや、待て。

 もし『気分じゃない』という想いが、悪魔との契約によって変えられた、俺の行動だったとしたら。

 本当はあの日、俺は家族と一緒に、出掛けていたとしたら。


「んふふ」


 ようやく回り始めた思考が、考えたくもない答えを導き出す。

 峰岸が俺の顔を見て、頷いた。



「お前、……お前が拒んだのは、俺の死か……?」



 乾燥した唇が、ぱりっと割れた。

 舌で舐めると、小さな痛みと血の味が口の中に広がっていく。



「30点」



 峰岸がマスクを下げる。

 そして俺の唇に人差し指で触れ、血の付いた指を咥えた。


「良いんれすか? 私が拒んだ事象を宣言してしまって。悪魔から聞きましたよね? 言い当てられた拒絶は、もとの現実に矯正される。――正答したら貴方、血みどろの死体に逆戻りですよ?」



 確かに迂闊だった。

 だけど、得られた情報はデカい。

 俺はあの日、死んじゃいないんだ。



「やっぱり、あのナイフは偽物だ」



 峰岸が拒んだのが『俺の死』だったなら、言い当てられた時点で、峰岸の魂は契約した悪魔に喰われるはずだ。

 契約は破棄され、俺は死体に戻っていただろう。

 だが、峰岸に変化はない。

 俺にも変化がない。

 つまり峰岸が拒んだのは、『俺の死』じゃないことは明白だ。


「私が契約したのは、執念深い悪魔のラブ」


 峰岸が、ゆっくりと喋りだす。

 きゅぽんっと音をたて、自身の人差し指を口から離す。

 そしてどこか恍惚とした表情で、俺を見た。


「私が拒絶したのは、『最も愛する人との別れ』。家族の死に耐えられなかったミチル君が自死してしまったので、私が生き返らせました」


「……最悪だな」


 なぜ峰岸が、俺の『拒絶』を言い当てなかったか。

 なぜ峰岸が、問題と称して自らの弱点を推測させる時間と材料を与えたか。

 その答えは、俺を屈服させるためか。



「ええ最高です。私が『拒絶した事象』を貴方に教えた時点で、私の勝ち。ミチル君には、その真偽をノーリスクで確かめる術はありませんから。ないことの証明、それはまさしく、悪魔の証明ですもの」



 そう言ってくるが、悪魔を証明する方法が、1つある。

 峰岸に、『お前が拒絶したのは最も愛する者との別れ』だと宣言することだ。

 だが、この手段はとれない。


 コイツの話が真実だとすれば、宣言により負けた峰岸の魂は契約した悪魔に喰われる。

 契約は破棄され、俺は死体に戻るだろう。


 そして俺が契約した悪魔ベルとの制約により、相打ちとなって敗れた俺の家族も死ぬ。

 俺はコイツに、手出しができない。



「ミチル君は私に依存して生きながらえ、私は貴方が生きていることに依存する。ああ、なんて素敵な共依存」


 うっとりした表情で峰岸が俺のアゴを触り、下から撫でる。

 俺は、その手を振り払うこともできない。


「私を幻滅させないでくださいね? 私が拒絶したのは、『最も愛する人との別れ』。ミチル君を限定した言葉じゃないの。だから、私が愛せる貴方でいてくださいね」



 そう言った峰岸の目は、悪魔よりも恐ろしかった。



「それと……私が契約した悪魔の性質は、執念深さ。その性質のせいで、否定できたのは『ミチル君が自死することによって生じる私との別れ』でした。殺されれば普通に死んじゃうから、勘違いしないように」



 峰岸の手が、俺の頬から離れていく。

 それをただ見ながら、俺は口を開く。

 腑に落ちなかった。



「どうしてお前は、俺を生き返らせたんだ。なんで俺が、最も愛する人なんだ」



 俺は、峰岸の下の名前さえ知らない。

 同じクラスになるのも初めてだ。

 峰岸に好かれる理由も、寿命を対価にしてまで悪魔と契約し、俺を生き返らせた理由も分からない。



「……。問題です」


 話を逸らすかのように、峰岸がそう言った。

 ほとんどトラウマになりそうな言葉に、思わず体が硬直する。


「ミチル君の家族は、なぜ事故死したのでしょうか?」

「……住宅街を爆走するスポーツカーに、突っ込まれたんだ」



「では、ミチル君が拒絶したその後。スポーツカーの単独事故は発生しましたか?」


 峰岸が背を向けて、黒板へと歩き始める。

 静かな教室に、低い耳鳴りと、峰岸が歩く音だけが聞こえる。


「……起きてねえよ。事故は、無かったことになったんだ」


「0点です。ミチル君が拒絶したのは『大切な人の死』で、『事故の有無』じゃないでしょう? ミチル君の契約では、スポーツカーの運転手の死までは覆りません」


 そう言われ、ハッとした。

 黒板の前に立ち、教壇に乗った峰岸が俺を見据える。

 峰岸が離れたからか……。低い耳鳴りは、もう聞こえない。


「家族が死んだのは事故じゃなく、契約者による他殺。そう言いたいのか」



「ええ。単独事故が起きていないことを考えれば、標的はきっとあなたの家族。だけど、死んでいたのは3人。そんな能力、何を拒めば手に入るのか……。いつか相対した時のために、そいつが拒絶した事象を一緒に考えましょう」


 峰岸が教壇から降りて、ゆっくりと俺を見ながら近づいてくる。

 3歩ほど近づいてきたところで、また低い耳鳴りが聞こえてきた。

 思わず顔をしかめると、峰岸がその場で立ち止まる。



「耳鳴り、いま聞こえ始めました?」

「ああ。これ、鬱陶しいよな」



 答えると峰岸は、今度は大股で歩き出した。

 7回ほどで、俺の真横に着く。

 横を向くと峰岸の口中で、赤い舌ピアスがうねるのが見えた。



「だいたい7メートル。それが貴方の索敵範囲です。これは問題じゃなくて質問なんですけど、ミチル君、今日のお昼は学食でラーメンを食べましたよね? その間、耳鳴りは聞こえていましたか?」



 ……確かに食べたけど、なんで知ってるんだ。



「耳鳴りは途切れることなく、ずっと聞こえてた。お前もしかして、今日1日ずっと監視してたのか?」



 ほとんど嫌悪と軽蔑の眼差しを向けると、峰岸は体を震わせて、口元を緩ませて首を横に振る。



「私は教室でお弁当派なの。学食なんて、行かないわ」



「……待て。このクラスと学食までは、距離がある。俺の索敵範囲が7メートルなら――」



「この学校にもう1人、契約者がいることになるわね。おまけに耳鳴りが止まなかったのなら、それはカモフラージュのため一緒に行動していた、ミチル君のお友達かも。……もしかしたら、そいつが家族を殺した契約者っていう可能性も」


 バンッ! と机を叩いて立ち上がり、平然と言った峰岸に吠える。



「俺の友達は、みんな良いやつだ! ふざけたこと言うんじゃねえ!」



 座っていたイスが後ろに倒れ、静かな教室でけたたましい音を鳴らす。

 峰岸は意に介さず、淡々と言葉を続けた。



「だって、悪魔と契約して殺すなら、その結果を知りたいと思うでしょ? 犯人はきっと、身近にいる人よ。まあ、ちょうど良かったわよね。悪魔との契約を維持するには、他人の願いを拒絶しないといけないんだもの」



 俺の友達を侮辱して、この態度かよ。

 はらわたが煮えくり返るとは、こういうことか。

 はっ。

 嫌われてる理由が分かるぜ。


「今までは興味もなかったが、ようやく分かった。俺はお前が嫌いだ。犯人捜しは俺1人でやる。2度と話しかけるな」



 ぶん殴ってやりたいのを堪え、帰るべく支度を始める。

 視線を落としてカバンを手に取ると、峰岸は両手で、俺の頬を挟んで無理やりに顔を向き合わせた。


 黒くて長い峰岸の髪が、風に揺られて綺麗になびく。

 至近距離で見るコイツの顔は、とんでもなく笑顔だった。



「良いの? 私、死ぬよ。そしたら貴方、家族ごと死んじゃうけど」



 整った顔。きめ細やかな白い肌。

 可愛らしい笑みを浮かべる峰岸の目は、黒く、歪んでいて。

 その目は笑っておらず、本気だった。


「貴方は私と生きるの。だから、私とミチル君の共依存のため――」



 峰岸の顔が近づいてくる。

 抵抗する時間も、理解する材料も与えず。

 ――峰岸が俺に、キスをした。


 見開かれたままの俺の目が、助けを求めて動き回る。

 切れた唇がズキリと痛み、その隙間から、ぬるりと血の味が入ってくる。

 そのキスはまるで、悪魔との契約のようだった。

 俺が突き飛ばすよりも先に、峰岸が自ら下がる。



「一緒に、そいつを狩りましょう」

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