第13話 つがいの小鳥
「ごめんください」
「……さい」
と、玄関先で声がした。オルタンシアは扉へ駆け寄る。腰まで伸びた黒髪を今は一本にまとめていたので、馬のしっぽのように跳ねた。
「はあい」
「ごめんください、人形をいただきたいのですが」
「はい。こちらは人形屋ですが……お代は一番大切なものをいただきます。よろしいですか?」
「ええ。わかっています。それでも欲しいんです」
青年は人好きのする清潔な笑顔を浮かべた。中肉中背、取り立てていうところのない平凡な顔と容姿だった。一方、連れていた少年は非凡に美しかった。黒髪の青年が亜麻色の髪の少年を促し、彼らは揃ってオルタンシアに頭を下げた。
「どうか上がらせてください」
「……よろしくお願いします」
「ええ、どうぞお入りくださいまし。今は人形たちもみんな起きております」
オルタンシアはそのようにして二人を招き入れた。秋の冷たい風が扉から吹雪いてくるようで、ぞわりと鳥肌が立った。
二人の男が店内をうろうろと歩き回り、あれでもない、これでもないと人形を物色する。二人とも若いからか威圧感は感じなかった。オルタンシアは壁際で手を合わせて静かに彼らを見守った。
少年の身長は青年の胸あたり。青年は常に少年を視界の中に入れている。半歩下がって、まるで護衛兵士のようだ。あるいは騎士……。だが少年の立ち居振る舞いは貴族のそれではなかった。むしろ青年の方がおっとりして優美な仕草をしている。
(不思議な組み合わせだわ)
オルタンシアは顔に出さずそう思った。メイドのマリアがいなくなってしばらくたつ。彼女がひっかき回さなくなったので、店の中は比較的片付いている方だ。だがオルタンシアだって片付けは得意ではない。青年が歩きながらときどき床にはみ出た木箱を乗り越え、少年が半分出っ放しの引き出しに腰をぶつけないよう肘を取って誘導するのを見て、オルタンシアはさすがに反省した。
(このお客様が終わったら、大掃除、しましょう……)
「あの、すみません。こちらを見せていただきたいのですが」
「はい、ただいま」
オルタンシアは彼らに近寄った。青年が示したのは首と翼が可動式になったドラゴンの人形だった。オルタンシアはこの人形と意思疎通をできたためしがなかったのだが、どうやら青年には問題ないらしい。すでに彼と人形の間にはなんらかの回路ができあがっているようだった。
「手に取ってご覧になりますか?」
「はい、お願いします」
青年は白手袋をした手でドラゴンを抱え上げ、胸に抱き上げた。白い水晶のドラゴンである。大振りのかたまりから剝離させた水晶を一枚一枚鱗の形に成形し、筋肉の盛り上がりから鱗のざわめき、細長い顔の表情までを作り上げている。生半可な技術ではない。
ランプによって微妙に波打つ水晶のなめらかな光沢が、ドラゴンを生きているかのように見せていた。
青年はほう……と息を漏らしてドラゴンに見入った。翡翠の目はオルタンシアが埃を払うときはあんなに無感動なのに、今となっては生き生きと輝く。
邪魔をするのはよそう、とオルタンシアは下がった。すると壁にかかったタペストリーを観察していた少年が、首をすくめてこちらを見ている。
「あなたは人形をご覧にならないの?」
と低めた声でオルタンシアは問いかけた。亜麻色の髪の少年は素手の両手を肩の高さにあげた。簡素な平民用のチュニックとズボン姿、背中に背負った荷物袋が波打つ。
「僕はそんなのいらない。――ねえ、これはなんの戦争?」
タペストリーは一面が真っ赤である。離れて見ると夕日に染まった山だが、近づいてみればその起伏の細かな筆致がなんなのかわかる――人間の死体だ。
オルタンシアは曖昧に微笑んだ。
「未来の戦争よ。いつかどこかで起こるもの」
「……ふうん?」
少年は首を傾げ、目をすがめた。まだ十代の前半だろうに、人を疑い噛みつくことに慣れきった人相だった。オルタンシアは路地裏の野良猫を思い出した。
「魔法使いはわかんないや。どうしてそんなものをわざわざ描いて、飾るのか」
「私は魔法使いじゃないわ」
「そうなの? じゃ、何モンなのさ、あんた」
「店主で管理人よ。この店に住み着いているの」
「普通の人間なのに、魔法の店にいて平気なの?」
オルタンシアは笑みを深くする。まっすぐに立ち、少年の頭ごしに遠い未来の戦争のタペストリーを見つめる。
それは今から五百年後、魔法と近代兵器が融合した結果起こった凄惨な戦争だ。オルタンシアはそのタペストリーを人形を買いに来た未来人から手に入れた。彼女は犬を連れており、彼は犬族の生き残りだと言った。五百年後は人間が生きるので精一杯の時代で、犬猫その他まで気を回す余裕がなかったのだと。西の山脈の貴婦人をオルタンシアは思い出し、無性に寂しかった。
「少なくともこの絵が描かれる日までは、私はここにいるわ」
……かつてオルタンシアの黒い髪はもっと長かった。床に引きずるほど。自分で踏んでしまうほど。ある種の願掛けだったのかもしれない。キリアンに再び会うまでに。
あるときばっさりと切ってしまった。あまりに手入れが大変な気がして。
以来、腰のところで真一文字に切り揃えたうねる黒髪が、束ね、編み込み、きっちりと頭蓋骨に沿わせた髪型が起こす軽い痛みが、彼女を彼女たらしめている。そんな気がする。
「僕が見た戦争はもっと矮小で、醜悪だった」
放るような口調だった。少年らしくない老成じみた声だったが、少年はあくまで少年の姿である。まだ幼くみずみずしい。ヘーゼル色の瞳はひたむきにタペストリーを見つめている。
「僕の知らない時代にもこんな戦争があって、人が死ぬ。……いやだな。いやなタペストリーだ。わざわざこんなもの描くやつのことも、僕は嫌いだ」
彼は神経質にズボンで汗を拭いた。そして腿の横にだらんと下がった手はすでに大人と同じくらいの大きさだが、つま先でトントンと床を叩く仕草などいかにも若い。
オルタンシアは顔にかかる髪をかきあげるふりして微笑した。と、ドラゴンに見入っているはずの青年が横目を投げかけてきて、二人して微笑みあう。少年のいうことは全部好ましかった。
「アンタ、戦ったことある?」
「いいえ?」
「僕はあるよ。死ぬかと思ったけど切り抜けたんだ。相手は大人で、熟練していた。でも頑張って倒したんだ」
すごいだろう、と言わんばかりの目だった。青年の声がかかる。
「女の人にそんな話はするなよ。――なあ、お前はこれが俺の手元にあったら、イヤか?」
「あ、ゴメン」
とオルタンシアに謝ってから、少年は青年の元へ。
「どれ? これ? え……なんか本物と違くない?」
「いいんだ。これが一番あいつっぽい」
「お前がいいならいいけど。顔も違うんじゃない?」
その後ろ姿はオルタンシアにキリアンを思い出させた。彼の軽率を装った話し方、まだ細い手足でとことこ歩く様子、頭が重くて細い首で支えきれないような身体。亜麻色の髪とヘーゼル色の瞳はキリアンの銀髪に深緑の目とは似ても似つかない。それでもオルタンシアは彼に最も大切な人の面影を見た。
青年はくるりと振り返り、オルタンシアを見つめた。牽制されたような気持ちになって見つめ返した。
青年は人間ではなかった。彼の赤い目はちかちかと瞳孔が不規則に変形して、台形から長方形、楕円、真円へと形を変えた。
「化けそこないね」
「恥ずかしいな。そんなに見ないでくれ、食われそうだ」
青年は少年の腕を掴み、自分の背中に隠す。オルタンシアは鼻で笑った。
「人聞きの悪いことをおっしゃるわね。私はこんな子に手を出したりしないわよ」
「どうだか。心の中に飢えがある。名前の付けられないバケモノが一番タチが悪い――と、俺の知ってる女が言ってましたよ」
にっこり。青年は再び、あの人好きのする無害な笑みを浮かべる。オルタンシアも両手を広げてそれごと彼を歓迎する素振りを見せた。
彼はキリアンと同種の存在だったが、いったいどうすればこれほど隔たることができるのかと思うほど、キリアンの持っていた生まれながらの善性のカケラも持たないでいた。キリアンは囚われながらも王に命じられたことはこなしていたし、それが国のため、民のためになると理解すればいやいやながら拒まなかったのだ。だがこの青年がもしキリアンと同じ立場に置かれたとしたら、きっと力の限り暴れて拘束されたまま封印されるか殺される道を選ぶのだろう。
「その子のために生きていると思っているのはあなただけよ」
オルタンシアは憐れみを込めて手首をひらひらさせた。
「対価はその子が生まれた物語よ。どうするのかしら?」
青年は予期していたようだった。重々しく頷いた彼は、何かを叫び出そうとした少年の肩を掴みその声を封じた。
「どこから消えるというんだ? 俺の記憶から?――それとも世界から?」
「そこまでは。古い契約なの。私にはわからない。わからないことの方が多すぎるわ」
オルタンシアは力なく首を横に振る。頬のくぼんだ骨の影がくっきりとランプの灯りに浮かび上がり、彼女はぞっとするほど老け込んで見えた。長い時間を過ごしてきた。この店で、この森で、ちっとも減らない人形たちに囲まれて、キリアンの代わりに彼の贖罪のために生きてきた。
後悔したことはない。嫌だと思ったこともない。だが人の心には長すぎる年月だった。それだけだ。この人生は心のどこかを麻痺させなくては務め上げられないほどの責務だった。
「どこかの誰かが覚えていてくれるなら、いい」
彼は言い切った。燃えるような血の色の目が鋭くオルタンシアを通り過ぎ、タペストリーを見つめた。
「たとえば、あんなふうに。いつか語られるべき物語の一部に、コイツの生まれが残ってくれるなら、いい」
「それならわかる――残るわよ。遠い未来に、書籍になってね」
少年は頷き合う大人たちを曖昧な表情で見つめる。もじもじとまだ小さな足を曲げ伸ばしする。彼にはわからないことをわからない言い回しで話し合い、勝手に理解を示す大人たちを、ずるいと思った。
「そんなら、同意しよう。とっていくといい。俺はコイツが生まれるに至った経緯も意味も全部忘れ……そしていつか、悟るだろう。俺の運命の終着点で」
オルタンシアの両手の間に小さな火の玉が生まれ、それは瞬く間に渦巻く小さなガラス玉になった。彼女は首から下げたガラス瓶に小指の爪ほどの玉を落とすと、コルクで蓋をした。色濃く染料の色が出るまで何度も織りを入れた深紅のベルベットドレスが、つやつやした土台となって火の色の玉を彩る。
「きれいだ」
少年は青年の腕に捕まり、つま先立ちになってそれを見上げた。彼の憧憬、決して手の届かないものへの尊敬の念は素直だった。
「ホントに手放しちゃっていいのか……?」
「いいんだ。おかげでこれを手に入れられた。――行こう。早くここを離れないと。奴らに嗅ぎ付けられる」
青年に促され、少年は玄関へ。あまりにあっけなくも思える別れだったが、オルタンシアにとってはもう何百回目かも覚えていないほどの一期一会である。
彼女はいつもと同じようにスカートの裾を広げ、深々と頭を下げた。
「あなたたちのお話が世界のどこかに残るというのは本当よ。まさかこうなるとは私も思わなかった」
届いても、届かなくてもいい、そのくらいの音量でオルタンシアは囁く。
湖面は涼やかに波立っていた。空は暗く薄曇り、森はもっと黒く暗く、すぐにでも恐ろしい魔物が湧いて出てきそうな不穏な空気だった。
暗い中に守るべき少年を連れ出しながら、青年は肩越しにオルタンシアを振り返る。
「俺たちの生きてきた証だ、コイツは。俺たちみんなの話が残るより、コイツの生き様が残る方がずっといい。――あなたもよかったら、今日のことを覚えておいてください」
「ええ。書き残すわ。すべて」
そうして扉は閉じた。
顔を上げたオルタンシアは扉をもう一度、開き、そこには輝かしいばかりの夏の森が広がっている。爽やかな風、晴天、今が盛りとばかりにざわめく色濃い青い森。キリアンの瞳のような。
「人騒がせな……主人公たち!」
オルタンシアは苦く笑った。しばらくこうして風を通そう。彼らに悪気はなくても、何か『違う』ものが入り込んでしまっては困るから。
彼らがぜんぜん違う作家のぜんぜん違う小説からやってきた存在であることに、まったく気づかなかったのだから耄碌したものである。ジャンヌを主人公とした『光の少女と黒の王』は恋愛が主軸の小説だった。あんな不気味な青年と、生意気で生命力にあふれた少年の登場はなかったはずなのだ。
「確かタイトルは……『星の海のセレスティアル』。あー、そうだった。アニメにもなってたじゃない……」
オルタンシアはぶつぶつ呟きながら店内へ戻る。ドラゴンがいた台の上を雑巾で拭き、床を掃き掃除して、タペストリーが少しはためいたのでそっちを見た。
紡がれた絵の内容が変わっていた。赤い、赤い、人の死骸の山が少しばかり小さくなり、血の河が流れ、けれど一番上に青空が見える。光がさす。そこに向かって手を伸ばす人影が、空を飛ぶ彼らの翼が見える。
「ふ、ふふ……」
何年かぶりにオルタンシアは笑った。一つにまとめた髪の毛のしっぽがぱさぱさ背中を打った。
「そういうこと? ドラゴンに乗って、神様に手を伸ばすの。そう……」
もう『星の海のセレスティアル』の内容は忘れてしまった。青年は少年を導き、少年は世界を救うのだ。そうだ、それしか覚えていない。
「なんてすばらしいことでしょうね」
手の届かない主人公の座を眩しく想い、オルタンシアは店の中を振り返る。年いってから丸くなって、すっかりそんな感情も受け入れることができるようになった。彼女の同胞たち、彼女の生きる理由の人形たちは揃ってぴかぴか瞳の宝石を光らせる。
オルタンシアは日常に戻る。二度と会えない客のことは書いておかなくては忘れてしまう。開いた古びた手帳は、あの小さな手帳の何代目の後継者だろう? わからないことだらけだが、オルタンシアはそのとき書いた一文のことをたまに思い返すほど覚えている。我ながらうまい言い方を見つけたものだと思う。
――まるでぴんと張り詰めた針と糸のような二人だったわ、と。
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