第12話 逃げ延びた少女、囚われの少女

美容師の少女とその才能




オルタンシアが目を覚ましたとき、小さな胸が奇妙にわくわくどきどきしていた。彼女は首を傾げてそこをさする。心臓がときとき先走り、これから起こることについて震えるよう。


「なんだろ……不思議な気持ち」


あやうく恋の季節かしらと勘違いするところだった。この世界の人間にそんなものがあるとは聞いたことはないけれど。と――地球で生きてきた記憶のある十九歳の少女は思った。


彼女が寝間着のまま冷たい床に裸足をつけたとき、小屋の入り口からガタンと大きな音がした。そのまま、ガタガタと扉が揺すぶられている。


迷うヒマはなかった。オルタンシアはショールを頭からかぶり、店に向かった。ランプをひとつ手に取り、灯し、扉へ。足早に歩くうち木の床から冷気が這いよってくる。扉は激しく揺れた。オルタンシアはノブに手をかけ、少し躊躇したあと引いた。家主の意思を組み入れて守りのまじないが解けた。


転がり込んできたのは一人の少女だった。


「あっ、助けて、助け、て! ください! 殺され、る!」


「ええ。もう安全よ」


オルタンシアは床に倒れ込んだ少女の後ろで扉を閉めた。


「さあ、これでもう誰も入ってこられない。ここは魔法の店だもの。――さ、立てる? 傷の手当をしましょう」


それでそのようになった。オルタンシアは簡潔に名前と、ここが魔法人形を売る店であることを伝えた。少女はがくがく頷くばかり、きちんと理解できたかどうか。


少女は名をミマナと名乗った。北方の草原の民の名前だったが、顔立ちに王国民と異なるところは見られない。はるか遠い昔に奴隷として連れられてきた者たちの子孫だろう。


ミマナの震えて要領を得ない説明をなんとかつなぎ合わせてみると、彼女は学園で生徒の世話をする女中奴隷だとわかった。


「――学園というと、王都の貴族子弟の通う?」


「そ、そう。そうです。私は美容係でした。皆さまのお髪や髭のお世話をさせていただいて……それで、それで」


少女は濃い青色の肩までの髪を揺らし、灰色の目にいっぱいの涙を溜めていた。


「ある女学生さんが――その方、恋人がおられるのです。ものすごく身分の高い、私たちでは直接お体に触ることもできない方です。なのにその子は別の男の人と逢引を。私、目撃してしまって、殺されそうに、なりました」


オルタンシアは黙ったままだった。奇妙にざわめく胸の高鳴りを無視するのに苦労していた。年嵩の少女の反応を見て、ミマナはわあっと嗚咽を漏らした。


「違う、違うんです! 信じてもらえないのはわかってます。女の子が人を殺そうとするだなんて。でも、ホントなんです。私が見ていたのを彼女が知ると、突然魔法陣を展開してきて――ああ、もう戻れない! 殺される!」


「大丈夫、嘘だなんて思っていないわ。ねえ、ひとつだけ確認させて」


オルタンシアは肩で息継ぎをして、聞いた。


「その女学生の名前は、ジャンヌというのではなかった?」


ミマナは目を見開いた。


「どうしてご存じなんですか?」


「私は魔女だもの。ああ、お湯が沸いた……」


それでオルタンシアは小さな魔石で沸かした湯で丹念に、上等のカモミールティーを淹れ、ミマナに差し出した。


「ゆっくりお飲みなさい。落ち着くから」


と言って彼女に背を向ける。どうしよう。ああ。――ジャンヌが失敗したらしいのが、嬉しくて嬉しくてたまらないだなんて!


オルタンシアは自分がこれほどまでに下劣な人間だとは露ほども思っていなかったし、ましてや動物的な予知によって身体を震わせるなんて考えたこともなかった。


(自分のこんないやなところを直視させられるだなんて)


とも思うのだった。


ともあれ、ジャンヌは失敗した。それだけは確かだった。浮気? あの子が? いかにも、やりそうである。


(エドゥアール王子はジャンヌを見放すかしら? それとも?)


彼女だけは手放せないとして、ずっと一緒にいるのだろうか。


それはそれで素晴らしい愛情である。だがオルタンシアは、どうもそうではないようだと予感する。


「その女学生、」


背を向けたままオルタンシアは続ける。


「お相手は王族ね?」


ミマナは絶句した。カモミールティーを喉につまらせ、噎せた。


「な、なんで……」


それが答えだった。


オルタンシアはハンカチを彼女に差し出してやった。カウンターごし、こちらをうかがうミマナの目が明らかに先ほどとは違っていた。気味が悪い、と如実に告げている。いくら魔女だからって、どうしてここまで見通すことができるの。おかしいよ……。


しかし彼女はすでにオルタンシアの領域に入り込んでいる。この状況でいくらおののいたところで、できることはなにもない。


「賢いわね」


オルタンシアは薄く笑った。


「フランロナ王国の民は魔法と距離が近いもの。自分が何もできないことを心得ているのね」


咳が落ち着いたミマナは俯いた。カモミールティーのきらめく水面を見つめていたかと思うと、ふいに顔を上げ、


「そうです。私たちはわきまえることをまず教えられるんです。王宮に近い学園はそういう場所ですから。何かを間違えて、付け上がった私たちが罪を犯さないように」


すうっと息を吸い込んで、吐き出した。抑えきれない怒りを一緒に、毒として吐き出すのだとその一瞬で決めたかのようだった。


「あの子、ジャンヌ・ピコリだってそれはわかっていたはずなのに。侯爵家の人間だって自分では吹聴してましたけど。でも、だったらどうして名前に爵位を冠してないんですか? おかしいじゃない。愛人の子だわ。神様と天使様が認めていない子だわ。なのに、あんな、王子様どころかたくさんの貴族の貴公子に気に入られて――おかしいわッ、あいつは魔女よ」


ミマナの目に涙が盛り上がった。


「魔法で誘惑してるんだわ。私たちはみんな知ってたわよ。貴婦人たち、お嬢様方だってみんなわかっていたわ」


オルタンシアは手を伸ばし、少女の手に手を重ねた。ミマナは怒涛のように話した。ジャンヌはまるで『あらかじめ何が起きるかと知っていたように』動き、数々の高貴なる人々の信頼を勝ち取ったのだという。隣国の留学生である王子、公爵家の御落胤、大国の子爵家の養女、図書館司書だが生まれは伯爵家だという老人。彼らはジャンヌのとりこになり、彼女が望むことならなんでもするのだという。


オルタンシアは、確信した。


ジャンヌはおそらく、ただのヒロインではない。オルタンシアがそうだったように、おそらく彼女にも前世の記憶、あるいはそれに近しい知識があるのだ。思えば最初からおかしかった。ノアイユ家がジャンヌに取り込まれていくさまを、オルタンシアはこの目で見た。まるで邪魔者のように王宮に追い払われたあとも、ジャンヌが『一人娘』としてあの家を、父を思うがままにしている噂は耳に入ってきた。


ジャンヌには何かがある。おそらくはこの禁呪の森にも阻めない何かが。


いつか、オルタンシアは異母妹と対決しなくてはならないのだろう。キリアンが再び訪れるより前に、くだらない因縁を潰し綺麗にしておく必要がある。本当なら、したくない。だが避けようがないのなら。オルタンシアは戦うつもりだった。


だが今重要なのは目の前の少女だった。


「ミマナ、辛かったわね」


と精一杯の同情を込めて言った。それは思った以上にしんみりと、実感のこもったものになった。ジャンヌに憎まれているのをオルタンシアは知っていた。それと同じ思いを持たないために逃げ出した。ミマナは間に合わなかったのだ。助けてくれる少年の姿の魔導士もいなかったのだ。それは同情、というより同一視による自己憐憫に近い憐れみだった。オルタンシアは一歩間違えればミマナだったのだから。


「私の婚約者もあの子に魅入られて私を捨てたの……」


と泣く少女の頭をオルタンシアは抱き締め、そしてはじめて、自分が彼女に引き合わせるべき人形の存在を感知した。見えない糸が、キリアンに繋がる一番太いそれが断ち切れて引き攣れる痛みを我慢しながら、残りの細い人形たちと店に繋がる無数の糸のひとつをくいと引いた。その人形は応えて、いつの間にか手近なガラスケースの中にあった。


(テレポート)


くすっと笑ってしまう。


「見て、ミマナ。見える? さっきまでなかったものがそこにあるのを」


「え……?」


洗剤と薬品でボロボロになった働き者の手で前髪を上げ、ごしごし目元をこすり、ミマナは彼と対面する。


美しい人形だった。人形たちは皆、そうだがその中でもとりわけで美しい。人形たちの中では珍しく全身が陶器製で、肌も塗装されておらず陶磁器の白さと同じ色だ。だが肌のきめ細やかさはみごとなもので、滑らかで均一、まっさらな障子紙にも見えるほど。


瞳は青色のサファイア、陶製の髪はくるくるとカールに彩られ、散らされた金箔がきらめく。表情は穏やかに微笑み、腰に手を当てた気取った格好だ。


百年前の陸軍士官の服装をしていた。それだけで、彼がどんな地位においてキリアンに報いたかがわかった。胸にありったけつけられた金の勲章。小さすぎて読めないが、家紋を示す手に持った金時計の装飾。


オルタンシアは彼を見下ろし、静かに思った。


(彼女はきっとあなたに合うと思うの。だって二人とも、オシャレが大好きでしょ?)


人形は苦笑し、もし自由に動く身体を持っていたら頷いただろう。オルタンシアが彼について知っていることといえば、おそらく好き好んで戦ったわけではないことくらいである。それでも彼がミマナの人生に寄り添ってくれるのなら、きっといいことが起きる。


「ミマナ、これが欲しい?」


少女は一も二もなく頷いた。意気込みすぎて前のめりになった。


「私、私――どうしたんだろう。今までは何が欲しくても、無理なら無理と諦められたのに。今、この目! この青い目を見たらもうだめなの。欲しくなっちゃったの……。これもあなたの魔力なの?」


「いいえ、それはあなたの感情よ」


オルタンシアは首を横に振り、茶目っ気ぶって片目をつぶって見せた。


「ジャンヌみたいなことは私、しないわ。人の気持ちを魔法で操るなんて」


そもそもそこまでの素養もない、ということは言わないでおく。ミマナはくすくす笑い出し、髪を撫でつける手を止めた。人形をうっとりとしたまなざしで一瞥すると、オルタンシアに向き直る。


「魔女さん。私、この子がとても欲しいわ。何年かかってもいい、お代は必ず支払います。だからこの子を売ってくださいませんか?」


「いいわよ。お代は、あなたの一番大事なものよ」


「大事なものって?」


「髪型を作る力とセンス」


ミマナの身体が大きく震えた。少女は自分の両手を見下ろして考え込んだ。


「――死ぬ気で身に着けたんだわ。これさえあれば生きていけると思って」


「ええ、そうでしょうとも。でもそれをもらうわ。例外は許されない。そういう契約だから」


「そんな、なんとかならないの? そうだ、指輪。お母さんの形見のダイヤの指輪をあげる。寮に取りに戻ればあるから。おっきな石よ。きっとお金になるわ」


「いいえ」


オルタンシアはきっぱりと首を横に振った。


「髪型に関する力をもらうわ。その代わりこの人形を連れていっていい。そういう契約よ」


「ひどいわ……」


人形の複雑にカールしたおさげ髪がランプの灯りを反射してきらきら光る。陶器の中に含まれたガラス質がまるで星空のよう。


ミマナは長く沈黙した。拳に力が入り、それからふうっと抜けた。


顔を上げた彼女にはもはや抗う力は残されていなかった。


「私、我慢は得意なの」


拳の付け根でぐりぐりと目元を擦る。擦る。オルタンシアは止めてやりたかった。眼球を潰してしまいそうだったから。


「ええ、そうですとも。私は我慢して我慢して……でも、そしたら殺されかけたんだわ。怖かった! あの女、目が本気だった!」


吐き捨てると、ぐっとオルタンシアを見つめて両手を差し出した。これほど強いまなざしをオルタンシアは見たことがなかった。


「いいわ。とっていって。魔法で、私が人の髪の毛を見てすぐにどんな編み込みが似合うか考えないようにすればいい。どんな櫛が通りやすくどんな染色がいいだろうとか、これからわからなくなったって。私は髪の毛以外のやり方で私の望む美を追求するから。職だって手に入れてみせるわ。髪結い師が無理なら化粧師だって、付けボクロ屋だって」


「わかったわ」


オルタンシアは深く頷いた。


「それでは、対価をいただくわ」


「そうしてちょうだい」


ミマナの生まれ持った能力はまろやかに白く丸く、オルタンシアの手のひらの中で小鳥の鼓動のように蠢いた。店に吸収されてそれが消えてしまうと、ミマナは自分の失ったものを確かめるように手を開閉していたが、やがてまっすぐに人形を見据えた。


魔導王の元で忠実に勤めた士官の微笑みは父親のように彼女を迎え入れる。少女の腕に抱き上げられて、さらに笑みを深くしたように思われた。彼はこれからミマナにたくさんのことを伝えるだろう。危険の避け方や夢の追い方、決して追いつけない星を見上げて生きる方法を。


ミマナと人形は去り際にひとつ、注文を付けた。


「私が死んだらこの子を引き取ってくれる? 素晴らしいものをたくさん見せて、もっといい顔にして返すから」


オルタンシアはそのとき、十九歳。まだ主を失った人形を再度迎えた経験はなかった。だが彼女は承諾した。


「そのときを楽しみに待ってるわ」


ミマナは晴れやかな笑顔を残し、去っていった。どうして人生を賭けた才能を失ってそう笑えるのだろう? オルタンシアにはわからない。わからないことばかりである。


ミマナはその後、無事に学園を逃げ延び市井で人の爪を磨く職に就いた。何十年も経って自分の小さな店を持った。髪結いの才能はなくしたが、ささやかな髪飾りを作り、客が望めば売った。かたわらにはいつも洒脱な洒落者の男の人形があって、店のトレードマークになった。


ジャンヌはミマナのことを忘れず、だが執着することもなかった。使用人ごときどうとでもしてやれるほどの権力者と彼女は繋がっていたし、そっちを追いかけるのに忙しかったから。人を殺しかけ、人生を潰したことに対して何も思うことはなかった。


やがてオルタンシア本人も忘れかけるほど長い年月が経ち、ミマナの血統が途絶えたときに人形は店に帰って来た。すっかり人間くさくなって、微笑みは彼が生きていた頃より深く刻まれていた。


「楽しかった?」


と魔女が聞いたのに、楽しかった、ものすごく楽しかったよ、とぴかぴか雲母のようにガラス質を光らせ返答し、オルタンシアの手の中でふっと輝きを失った。人形が死ぬのを見るのは初めてで、だが納得できる終わり方だった。


店はただ人形と人間を繋げる中間地点というわけではない。いずれ戻ってくる彼らの居場所でもあるのだった。


オルタンシアはそのときも胸がわくわくしていた。今となってはわかっていた。ああ、これは……これは、人の運命を目前に見たときの胸のざわめきなのだと。まるで自分が神でもなったかのように。


ジャンヌとのことはすでに決着がついていた。オルタンシアは長い長いときを生き、その間ずっと、自分が悪者にされること、自分に嫉妬や欺瞞や欲が生まれることから逃げ続けていた。悪徳の誘惑が降りかかることを心から恐れ、ただ人形たちだけを見つめ愛した。


そのむくいは最悪の形で彼女の人生に現れるのだが、まだ気づけない。


死んだ人形を森に穴を掘って埋めてやり、ただ彼女は空を見上げた。真昼の晴れやかに澄み渡る青い空は、かつて魔導王とともに戦った男の人形の目に似ていた。



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