第11話 中興の祖
馬車が止まったのは森の中の湖だった。
「おかしいぞ、ここは……」
「地図の通りに来たんだろう? いつ間違った?」
と、侍従と御者がワイワイ騒がしい。カトリンはそんな彼らを意に介さず、馬車からするりと降り立った。伯爵夫人が逃げたのに、監視役であるはずの男たちはぜんぜん気づかないのだった。何もかもが滑稽で、カトリンは小さく笑った。
若草色のツーピースのドレス。豪奢な刺繍つきのコート。ビーズで装飾された靴と絹の靴下。手には同じビーズ刺繍の手の込んだハンドバッグ。中には一本の香水瓶と最低限の化粧品、小さな手鏡。それから契約書の束。手紙はひとつもない。不名誉な噂に背中を押されて追放された伯爵夫人には、手紙をくれる人などいなかったのだ。
湖のほとりに立ってきらめく湖面を眺めた。秋の風は身に染みるようで、コートの前をかき合わせる。そういえばこのコートは結婚当初に夫が買ってくれたのだった。いい人だったと思う。カトリンは夫を恨んではいない。
強いて言うなら、平民女に首ったけになりカトリンを追い出した夫の心の弱さを憎んでいる――。
カタンと小さな音がした。湖のほとり、てっきり無人だと思った古びた小屋から女が一人、出てきたところだった。
はっと目を引く足首まで引きずるほど長いうねる黒髪、額に下がったサークレット。服装は少し古めかしいコルセットを締めたドレスで、たっぷりの袖と裾がいかにも前時代的だった。だが彼女は美しかった。
彼女は馬車を見、男たちを無視して視線をカトリンへ向けた。そのスミレのような紫色の目!
「あなた、いらして。呼ばれているのよ、わかってるでしょう?」
と手招きをする。あまりに自然で優美な仕草だった。貴族の館の晩餐会に出席しても遜色ないほどだろう。カトリンは思わずふらふらと彼女の元へ歩き出した。
「お、おい、お前いったい……」
と、男のうち一人が割って入ろうとした。バチンと雷のような音がして、その男はぺたんと尻もちをつく。
「お前には言っていなくてよ。私は彼女を招いているの。――それとも、森の魔女の実力をその目で見たい?」
ざわ、と明らかな怯えの気配が全体に走る。カトリンだけが意味もわからず、内心小首を傾げた。ふふ、と綺麗な女性は笑い、それはまったく魔女という単語には似つかわしくない笑顔だった。年齢不詳の、だが若作りというわけでもない、少女のような笑い。
「さあ入って。あなたを呼んでいる子がいるのよ、もうずっと前から」
そうしてカトリンは薄暗い赤い空間へ導かれるままに進んだ。たくさんの人形たちが上から下から彼女を見つめた。すべての視線に見覚えがあるような気がした。招かれた舞踏会で夫に置いてきぼりにされたときの……まあ、あの人が例の? ええ、そうですとも。旦那様は平民女に……だって子供ができなかったんじゃあね……家の財産は平民が産んだ子らに? まあそうなるでしょうなあ。おかわいそう。しかし、それが世の道理だよね、キミ。
「あああああ……」
ため息がこぼれた。夫は彼女に護衛をつけてくれたが、話し相手は同行させてくれなかった。言葉は堰切ったように流れた。ひとつには、目の前の美人はおそらくカトリンと同じ出身階級の人だろうということ。もうひとつに、監視役たちの目がなくなり羽根が伸びたというか、一線を越えたこと。
そしてカトリンは語った。
「わたくし同じ爵位の伯爵家に嫁げるとわかったとき、躍り上がって喜んだのです。上や下に行きますと苦労しますのを母を見て知っていましたので、でも夫は平民と子供を作りました……」
追い出されたカトリンの行先は温泉で有名な避暑地であり、家の持つ別荘であり、その先の生活でお金に困らないようにしてくれたが、離婚された子供を産めなかった女であるところの彼女の不名誉を雪ごうとはしてくれなかった。カトリンよりも、カトリンの実家に義理立てするよりも、平民女と再婚することの不義理を取った。
言葉は雪崩のよう。洪水のよう。
黒髪の女はうんうんと話を聞いてくれ、口を挟まず会計台の上に肘をついてカトリンを見守った。やがて濁流が止まり、カトリンは肩で息をしてその場に棒立ちになった。ハアハアと荒い息の音だけが空間に満ちる。
赤いランプの光が揺れて、劇場の舞台から客席を見たらこんな感じなのだろうか。
「復讐したいのかしら?」
と女は聞いた。紫色の目がアメジストのようにぴかりぴかりと光り輝き、人形たちの目もおのおのの形に光るので、不思議な感じだった。カトリンに恐怖はなかったが、手のひらにはじっとりと汗が滲んだ。
「いいえ」
元伯爵夫人は首を横に振る。
「私は負けたの。それは分かっているわ。むしろ」
両手のお椀に顔を埋めた。吐き出してしまいたいと思っていたものを吐き出して、楽になりたかった。
「ホッとしているわ。もうあの家に私の居場所はなかったから。子供……が欲しかった。でも、もういいの」
「そう……」
「ええ。ただ、これから先に待っているのはなんの楽しみもない人生よ。監禁され、監視され、一挙手一投足に嘲笑を浴びせられる。そういう生活なの。それが辛い。今までも特別楽しかったわけじゃないわ。でも。世間から、世界からいらないものだと後ろ指刺されながら生きるのは辛いでしょうね」
紫色の目を伏せて、女は頷いた。
「私はオルタンシア。オルタンシア・フォール・ノアイユ。聞いたことがある?」
カトリンは眼を瞬かせる。頭の中の霧が急速に晴れていった。
「フランロナ王国の、侯爵家ね。ノアイユ家。確か先代の王妃様のご実家……待って。行方不明になった長女がいたわ。その子は母親似の、母の実家のアスカリッド家の色を持っていた。黒髪に、紫の目」
カトリンはさっと足を引き、スカートの裾を持ち上げ一礼した。
「ご無礼つかまつりました、侯爵令嬢。わたくしはカトリン・オブ・シャルパンティエ……シャルパンティエ伯爵夫人、でした。今は旧姓に戻って、カトリン・シェヌと申します」
「シェヌ伯爵家は古い家柄だった。それこそロンド帝国がまだ王国だったときからの名家。魔導王の時代、一族は魔法に関する王との意見の対立からフランロナ王国に亡命し、以来フランロナ貴族となった」
カツカツと踵を慣らしてオルタンシアは店の奥へ。いっそう薄暗い大きな台の上、魔法のランプはただ一体の人形を照らし出している。
「この子の名前はシェヌ。それ以外は教えてくれなかった。近くに寄って、見てちょうだい」
カトリンはおずおずと進み出た。ツーピースのコルセットを使わないスーツドレスは、動きやすそうに見えて補助がないぶん裾が絡みつきやすい。
「この店は人形とお客様の仲立ちをする店なの。ごくたまに、ね。人形の方から自分の客が来ることを教えてくれることがある。今のあなたのように、来るべくして導かれた最高のお客様。――ごらん、シェヌの子を」
そうしてカトリンはその人形を目を合わせ、あっ……と息を呑んだ。海に落ちたような気持ちになった。
みごとな巻き毛の茶髪がふさふさと人形の小さな顔を覆っていた。すっきりした輪郭、その海のような青い目。白い肌は特別の顔料を何層にも塗り固めたのだろう、ひとつの泡粒も刷毛のあとも見当たらない。
目はブルーサファイアでできていたが、宝石の中に明らかに人の手で描かれた瞳孔があった。いったいどうやって。魔法の気配にカトリンは背筋を寒くする。まばゆい輝きがまるで生きている人間のよう。微かな青みの陰影にカトリンは悲しみを感じ取った。
柔らかな笑顔。整った顔の造形。ほっそりとした指先を品よく足の上で揃えて、レースを重ねたドレスに身を包んでいる。彼女のお尻の下に敷かれた紙が何なのか、カトリンにはわかった。悲鳴を押し殺した。
「――【天使との契約書】!」
それははるか遠いシェヌ家の祖先が大切に保管した家宝だった。もうないと思っていた、二度と目にすることはできないと思っていた、一族の名声そのものだった。
「ど、どこでこれを……」
「それは言えないの。私とこの店との契約で。けれどこれだけは言えるわ。あなたたちと天使との関係を、信仰を、守り伝えていた人たちからもらったの」
オルタンシアはにっこりする。黒髪が蛇のようにうねり、ランプの灯りでほのかに赤く輝き、カトリンは戦天使を連想した。
「あなたたちのことを忘れずにいた者がまだ、世界にはいるわ。シェヌ家の末裔よ」
カトリンの目に涙が盛り上がる。彼女は歯を食いしばって泣いた。
「でも私、その血を途絶えさせてしまったわ。おまけに夫にさえ見捨てられて。申し訳ないわ、申し訳ない――」
オルタンシアはカトリンの薄い肩を抱き、慰めるように舌を鳴らした。
「あなたがた一家が魔導王の戦乱で行方不明となり、再び世に現れ、落ちぶれて、ああして、こうしてとしているうちにも。天使はその結末を見守っているわ。だから大丈夫よ。あなたのしたことに間違いなどない。何一つとして、間違ってなどいるものですか。それに、ホラ。シェヌを見て。笑っているから」
カトリンはそのようにした。人形は、この世の美しさの粋を集めて作ったかのような純粋な少女の人形は、確かに微笑んでいた。しかも、見間違いではない。カトリンを見て笑った。確かに。
「今こうしてかつての戦士と家の者が巡り合ったのだから、何もかもすべて収まるべきところに収まるわ。この店の意義もあったというもの」
オルタンシアの言うことの半分もカトリンには理解できない。それでも彼女の言葉には不思議な説得力があった。
「ああ。私にもっと世間知があったらこの子をシャルパンティエ伯爵家に迎え入れてあげられたのに」
「いいえ、それではシェヌはシェヌになれなかったでしょう。さあ、どうぞこの子を取って。契約書は、この店に支払われた対価だから、差し上げられないけれど」
「いいえ。いいえ。いりませんわ。私は魔法なんて使えませんもの。恐ろしくて、きっとここで、あなたに持っていてもらった方がいい。その方が、いいわ」
カトリンは透明なまなざしでオルタンシアを見る。きゅっと喉が鳴り、彼女の緊張が店全体を支配するかのようだった。
「私の選択は間違いじゃなかったのね。ここに来るため、この子に会うためにすべてはあったのだわ」
「――対価がいるわ、カトリン。あなたがシェヌを持っていくには。あなたの一番大事なものが必要になる」
「いいわ。あげる。何を取ろうと言うの? 私にはもうほとんど何も残っていないのに」
「思い出をもらうわ。ご夫君との。楽しい思い出も、悲しい思い出も、思いも全部もらうわ。今後あなたが彼に巡り合ってもなんの感慨も湧かないでしょう。思い出がないのだから。仮に彼の妻子に出会っても、怒りも羨みもないことでしょう」
カトリンは目を丸く、間抜けな顔をした。拍子抜けして、膝が抜けるかと思った。シェヌを大事に胸に抱き締めて、彼女は叫ぶように泣き笑いした。
「それはご褒美みたいなものだわ。私みたいな女にとってはとくにね」
オルタンシアは頷いた。彼女の髪も肌も、真珠の粒を砕いてまぶしたかのように輝いていた。
名乗った出自が本当なら、どう考えても百歳近いはずの女。けれど若々しい健康な、少女のような外見の女。王女のようなたたずまいの彼女に見送られて小屋をあとにするのはいい気持ちだった。
男たちのカトリンを見る目が変わっていた。蔑みと同情、手の届かない生まれの女が見下げていい存在になったことへの喜悦、そういったものが失われ、代わりにカトリンをバケモノとして畏怖するような。
「さ、行きましょう」
と一声かけて馬車に乗り込む。男たちは顔を見合わせ、戸惑いながらも馬車は森を出発した。
シェヌと呼ばれた人形は歌を歌った。それはカトリンの身を守る何より素晴らしい盾となり、彼女はもう傷つけられることはなかった。何者にも。
戦乱の時代はすでに過ぎ去っていたが、もはやそれより前の栄華は望めない。それがこの時代である。野盗も詐欺師も近寄れない田舎屋敷は、いつしか弱い者たちの拠り所となっていった。
彼らの中にいつしか一人の少女が紛れ込んだことに、そのときには耄碌しはじめたカトリンでさえ気づかない。彼女はシェヌと名乗った。頭の回転が速く俊敏な動きをする子供はすぐに美しい乙女になった。彼女は膨大な魔力量と、あらかじめ教わったかのような魔法の知識があった。
自分が出てきた時の流れに置き去りにされた森のことは決して口にしなかったが、フランロナの前王が【王の塔】に閉じ込めた魔導士のおとぎ話をよく口にした。彼女が中心となった反乱軍がロンド帝国属領フランロナの主権を脅かし、代官領主となったかつての王家モリニエール家の末裔と対立するのは、これから十年後のことである。
そんな事情からも歴史からも取り残されて、オルタンシアは森の中の店で務めを果たす。やがてひそかにこう呼ばれるようになる。【魔女の森】。時の流れに取りこぼされた店のことも、魔女のことも、人の記憶から薄れて消えていく。
シェヌの戦いは本来の流れであるはずの小説から外れていた。本来なら起こるはずのない内戦であり、本来なら死ななくていいはずの人間が死んだ。オルタンシアは、シェヌは、そのことを自省すべきだろうか? いいえ。世界はどこかの誰かの思惑通りに運んだりしない。【魔女の森】に流れる時間が無数にあるように、小説の内容はそれらのうちのたったひとつの可能性にすぎない。
オルタンシアはいつか無数の可能性のうちのひとつの未来でキリアンに再会するだろう。けれどそれは百年をゆうに越した、はるか気の遠くなるほど先の話であるに違いない。
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