第10話 逃亡奴隷

小さな少年だった。ボサボサの黒髪、浅黒い肌、片足を引きずり、それでも黒い目はまっすぐに前を見据える。彼は名前をシュロと言ったが、それが誰につけてもらったのかも知らなかった。


追われていたわけではない。もう追っ手も来ないだろう。売られた先の主にことごとく反抗し、再び奴隷商人に売り払われるのを繰り返していた。次はとうとう異国に売られることになって、帆船の最下層に詰め込まれるところだった。


渡し板から甲板に降りたその一瞬だけ、足枷が外される。すぐに船に固定するための鎖に繋ぎ直される、そのとき。そのときだけは手足が自由だった。彼は自ら身を躍らせ海に落ちた……。


死ぬつもりではなかった。海育ちで泳ぎはできたから。しかし栄養不良の身体は思った以上に動かず、たくさん海水を飲み、船の底だか岩だかわからないものに身体を打ち付けた。


そして気づくと森の中にいた。手首についた消えない手錠の痕がじくじく傷んだ。


目の前に小さな小屋。湖。そして少女がいた。シュロとほとんど年は変わらない。胸まで伸びた黒髪がつやつやとして、いかにも健康そうだった。対するシュロはもう疲れ切っていて、新聞紙とボロ布でできた服をかろうじて身に纏い、身体じゅうから酸っぱいにおいと濡れて腐ったインクと紙と布のにおいがして、美しいものなどひとつも持っていない。


彼は望んだ通りに動いた。小屋の前でのんきに洗濯物など干している少女に躍りかかり、その喉笛を片手で掴んだ。小さな喉だった。シュロの腕力でも握り潰せてしまいそうだった。


「えっ? あ……ケホっ」


と少女は圧をかけられた喉仏にせき込んだ。己の力はその程度かと、シュロが思い知る程度にはぽかんとして、いかにも緊張がない。殺されかかっているということすら理解できていないような有様だった。少女はいい香りがした。


「親は? ここに大人は?」


「あなた、だあれ?」


シュロは腕に力を籠める。少女の足がばたばたと少年の尻を蹴る。


「このっ、ころっ、殺すぞっ。いいから大人はいるのか!? いないのか!?」


少女はふんわりと笑った。彼の手を掴む真っ白な手の力もゆるんだ。


「いないわ。ここには私一人。ねえ、手を離して? そしたらいいものをあげるわ」


「いいもの?」


「ごはんと、服と、いろんないいものをたくさん」


少女の歌うような声は小鳥より高く耳に心地よかった。シュロはカッとなった。生まれてこのかた、いいものをたくさんなんてお目にかかったことはなかったので。少女のあまりの余裕っぷりに、ばかにされているように感じたのだった。


シュロはなにごとかを叫びながら膝で少女の胸を押し、両手で少女の首を締め上げる。なのに少女はぜんぜん怯えない。息苦しいだろう肺が収縮する音は聞こえるのに、うめき声のひとつも漏らさない。どころかシュロの汚れた頬に向かって両手を差し出して、人形のように整った顔に無表情じみた微笑を浮かべるばかり。


――なにかおかしい、とわかるだけの教養だの判断力だのが、もう少しあればよかったのだが。


シュロはがつんと衝撃を頭の裏に感じた。振り返ることもなくガクッと気絶する。


「まあ、ひどいわ。血が」


「あのねえ、お姫様。こういうときは悲鳴を上げて助けを呼ぶもんですよ!」


という会話が聞こえ、なんだよばかにしやがって……みんなしてばかにしやがって……。と思った。


みんなみんな、シュロのことをゴミみたいに扱うのだ。




***




そしてハッと目が覚めたとき、彼は清潔な布の上に横たわっていた。視界いっぱいに青空が広がる。手足にはなんの拘束もなく、自由だった。


シュロは野生動物のように起き上がったが、くらっと眩暈がして再び後ろに倒れた。


「あっ、ホラァ、もう。これだから子供って嫌なんですよ。後先考えないんだから」


「うふふ。世話しないとすぐ死んでしまうところも、嫌なの?」


「まあ普通に嫌ですね。見殺しにすると罪悪感が沸くとこも含め」


「難儀なお人形ねえ」


鈴を振るような声で会話があった。シュロの耳を素通りしていく、どこか浮世離れした会話だ。


黒い髪がまだ濡れていて、けれど潮の生臭さが消えていた。どころか身体全体がサラサラしている。身に纏っているのは簡素なチュニックとズボン。かたわらにサンダルが揃えてある。まさか――服をもらえたのだろうか? シュロが? 信じられない。


シュロはただ黒い瞳で空を見つめた。嫌味なくらいの晴天である。空は澄み渡り、雲ひとつない。視界の四方を囲むような森の木々。なんというのだろう、鳥が一羽しゅうっと飛んでいく。らしくもなく幸せな気分だった。ずっと浸っていたいほど。だがシュロは苦労して上半身を起こした。狂暴な気持ちは消え失せていた。


「……あんたたち、お貴族様ってやつ?」


「ぷは。聞きましたぁ? お姫様。コイツやっぱり放り投げてきましょうよ。開口一番これですよ」


「ハイハイ。マリア、お茶が沸いたみたい。私飲みたいわ。持ってきて。そのくらいならできるでしょ?」


「はーい」


女は踵を返した。若く美しい女だった。亜麻色に輝く髪を輪っかの形で頭のてっぺんにまとめ、淡いピンクのリボンでくくっている。シュロが知っている限りではメイド服と呼ばれる服を着ていたが、あんなたっぷり布地を使った仕立ては見たことがない。


一方残った少女の方は、シュロへの警戒心も恨みも感じていないらしい。小屋の前に出された白い丸い一本足のテーブルに、猫足の椅子を置いて座っている。彼女の後ろで真っ白なシーツが揺れていた。小屋の天井から木のてっぺんに張り巡らされたロープ、いったいどうやって結んだんだろう? 女二人にできるものだろうか。


くらくらした。シュロが知っている奴隷の世界とはなにもかもがあまりに違っていた。


少女の紫色のドレスはフリルとリボンが至る所についていて、彼女自身が花であるかのよう。黒いくるくるの髪が肩に流れ、真っ直ぐな姿勢、揃えられた足、レースの手袋、すべてが作り物のようだった。


女たちは上品でしなやかで優美で、清潔感があり、つまりはシュロから見れば敵だった。


「ぐるぐる威嚇しないでよ。私を殺しかけただけじゃ足りないの?」


「……悪かったよ」


「いいわよ。濡れてたし、気が立ってたし、死にかけてたし。私が怖かったんでしょ。いきなり見えるものが変わったら怖いわよね」


としたり顔で言う少女に、腹が立たないと言ったらウソになるがもう反抗する気持ちは失せていた。大きな波、もがいても役に立たない手足、生まれてはじめて溺れた記憶、必死に水面を掴もうとしても無駄だった記憶が彼の鼻っ柱を叩きのめした。


生まれてはじめて、殺されることを厭わずに抗うという気持ちが消えたのだ。


「どうやってここに来たの? あなたはいきなり私の前に現れたわ」


「知らない、気づいたら、ここにいた。海に落ちたと思うんだけど」


「そう。じゃあ呼ばれたのね」


「呼ばれた?」


少女が紫色の目をすがめて呟くと、ちょうどメイドが顔を出して銀の盆を差し出した。


「お姫様、これなら文句ないでしょ!」


「あるわ。彼のぶんのカップがないもの」


「えぇー」


メイドはイライラした顔でシュロを睨んだものの、仕方なく取って返した。小屋の中からはどったんばったん、元気よくものを引っ掻き回す音が聞こえてくる。


「また片付ける労力の方が大きくなるわ」


と少女は首を横に振ったものの、どこか楽し気である。


「マリアは私を守ろうとして出てきてくれたの。本当はずっと台の上に座ってればよかったのにね。わざわざ人の形を取ってまで。――ふふ。こんなふうに心配されるのははじめてだもの、嬉しい」


シュロは何かを問うのはやめた。どうにも状況は複雑そうだったから。


「俺はなんでここに来たの? あんた、知ってる?」


「あなた呼ばれたのよ。人形に」


「人形?」


「ええ。ウチの商品」


メイドのマリアが戻ってきた。机の上の銀の盆からポットを取り上げ、何やらぶつぶつ呟きつつ、まず青いバラの花のようなカップに花茶を注ぐ。それを少女の前に置いてから、もう一杯のお茶をつくりずかずかシュロの前までやってきて、はいと手渡した。その目は軽蔑に霞んでいたものの、シュロは反射的に受け取ったお茶の温かさに目を見開く。


お茶は澄んだ緑色で、花の匂いがした。がぶがぶと一息に飲み尽くす。


「うまい」


「熱いのに……」


と呆れながら、マリアは次の一杯を注いでくれた。少女のくすくす笑う声を聴いてシュロは恥ずかしく思ったが、なにせ人生ではじめての味だったので止まらなかった。


夢中になったシュロが我に返ったときには、彼は紫色の目の少女の前で椅子に座って食べ物をがっついていた。机の上にハンカチが敷かれ、クッキーやらビスケットの入った小さな籠、ポットごとのお茶があった。


「みるみるうちに食べますねえ」


「お腹が空いていたのね」


女たちは囁き合う。マリアの金髪に陽の光がきらきら反射して、綺麗だった。


シュロは自分がものすごく汚い、さもしい生き物に思えた。カップを両手で掴み取り、湯気で顔を隠した。なんの装飾もない真白のカップだが、シュロはどこも欠けていないカップなんて初めて使った。


マリアはため息をつきながら小屋と小屋の前を往復し、シュロにどんどん食べさせた。彼が名前を知らないものもあった。


ごく薄いパイ生地にナッツとシロップが何層にも重なり合ったすごく甘いもの。細長いドーナツのような揚げ菓子で、粉砂糖がたっぷりかかったもの。卵の味とミルクの香りがするひんやりした粉の入っていないつるつるの物体。丸い形の生地の中にジャムやドライフルーツがびっしり詰まり、甘酸っぱい味のもの。


シュロは知らない香りと味にすっかり酩酊した。すっかりお腹がくちてそっちに血がいって、頭が回らなくなった。


「それ以上食べさせたら死んじゃうわよ」


と少女が諫めるのでマリアは手を止めた。彼女らの背景にシーツが翻り、太陽はさんさんと輝き、森は静かで、シュロは許されるならこのまま寝転んでしまいたかった。


紫色の目をした少女がどっしりしたポットから最後の花茶をシュロのカップに注いだ。彼はそれを奪うように抱え込んで、熱さに舌の皮が焼けるのも構わず啜り込んだ。


「世界の不均衡はあの子の聖女じみた行いを際立たせるために設定されたものだわ」


と呟く少女が何を言っているのだか、シュロにはまったくわからない。ただ初めての満腹と満足に目を回すばかり。


「お前のときもそうだったでしょう、マリア」


「ええ、そうですね。……私は兵隊になれなかったら餓死してました、お姫様。魔導士様は命の恩人です」


「私にとってもよ、マリア。あの人が全部くれたわ。この家も店主の立場もこのシーツだって。――ええ、マリア。優しいマリア。家事ができない兵士のマリア。ねえ、私の考えていることがわかる?」


シュロはうつらうつらしながら、それでも必死に目を開いて彼女らの会話に耳を澄ませる。いつ態度が急変して鞭が飛んでくるかわからない。備えなければならない。


「お姫様、でも私、できそこないの人形です!」


マリアは目を見開いた。たっぷりした光沢のある黒いスカートと、白いエプロンが揺れた。


「ええマリア。お前だけ人間の形で目覚めてしまった、その意味をずっと考えていました。お前がきっといつかどこかで必要とされると確信していたわ」


「……同胞たちの中で私だけ、糸から外れています」


「自由なマリア。そうですとも。私でさえも契約の糸に縛られる。なのにどうしてかしら。まっとうな手段で兵士になったお前だけ、お前だけが自由なの」


少女は立ち上がり、両手を広げてにっこりした。純白のスカートがふわりと広がり、レースの袖口に縫い込まれた小さな真珠がぴかぴか光る。


「それは祝福だと私は思うわ。決して呪いなんかじゃない」


「お姫様……」


ぱたん、と軽い音がして小屋の扉が空いて、シュロはそこに無数の光を見た。色とりどりに光るそれらは全部一対で、――あ、目だ。こっちを見てる。そう思えば背中に冷や汗が流れた。


少女は仁王立ちするなりシュロを指さした。


「これは昔のお前よ。手首足首をつなぐ枷。死んでもいいから逃げ出したかった場所。お腹が空いて空いて耐えられなかった環境。でもこの子は逃げ出したのだわ。お前と同じに。そしてここに来た。お前は兵士を選んだし、この子もきっと何かを選ぶでしょう」


髪に巻かれた金の刺繍のリボン、靴の先にさえ宝石がついて、少女は全身が清らかな光に包まれる。


シュロにはそれが眩しかった。憧れじみた感情を抱く自分が許せなかった。血が足らなくてただでさえ幼い思考が千々に乱れる。――シュロは少女が憎かった。なんの苦労もせずに綺麗でいられる、おそらくは同い年くらいだろう少女のことが。もし彼らが大人だったら、男と女は別の生き物だからそんなふうには思わなかった。まだ子供だったからこそシュロは純粋に彼女を憎み、そしてオルタンシアはそれを受けて立ったのだった。


「一緒にいっておあげ。あらゆる海と山と人の街を見てくるの。二人で。世界を見て回って、知っていることを教えておあげ。お前と一緒ならたとえ手首足首に消えない痕があったって侮られることはないわ」


少女は年とった女のようにくすりと笑った。


「正直だいぶん情が沸いてるでしょ?」


「お姫様……」


メイドのマリアは頷く、頷く、何度も頷く。彼女のこげ茶の目が濡れていた。シュロは不思議に思ってそれを見つめる。血行が良くなったので頭の後ろ、打たれたあとのたんこぶがズキズキ痛み始めた。


「わかりましたわ。この子は私が呼んだんです。ええ、わからないですよ。わかりませんとも。みんなが共有してる魔導士とのつながりなんて、この店に組まれた魔法陣の効力なんて、私にはちっとも感じ取れません。でも私がこの子を選んだのは納得しました――私はこの店を出ます。今までありがとうございました」


「楽しかったわ、マリア」


紫色の目の少女は立ち上がり、お腹の下の方に両手を重ねてお辞儀をした。シュロの目から見ても完璧だとわかる礼だった。


「じゃ、準備してきます」


と、マリアはどたばたと店の中に駆け戻る。少女はくすくす笑った。そしてシュロの前にかがみ込んで彼に目を合わせた。紫色の目と黒い目がかっちり絡み合う。シュロは彼女を睨みつけたかったが、そうできなくさせるほどの善良な目だった。


「これからの時代はひたすら大変だけれど、きっと二人なら大丈夫だわ。私はあなたを知らない。たぶん私の読んだもの、知っている範囲のどこにもあなたはいない。素晴らしいじゃない? なんにだってなれるのよ」


あとになって思い返してみれば、シュロが抱いた彼女への反発というのはそうした世界から一線を引いた態度が発端だったような気もする。自分だけは安全であると定義づけた立場の尊大さ。


しかしオルタンシアはその狡さも欠点もよくわかっていた。わかった上で、それさえ抱え込んで生きようとしていた。その生き方はシュロには未知数で、おそらく大人になっても未知数のままだ。二人は決して交わらない点と点だった。


「お待たせしました!――さ、あなた、立って。お姫様に挨拶するんですよ」


「なんで、俺が」


「お菓子をいっぱいもらったでしょ!」


シュロは母親を知らない。物心ついたときにはすでに奴隷だった。新聞紙にくるまって掘っ立て小屋で眠り、鎖をしゃぶって飢えをしのいだ。マリアの声には従ってもいいかなと思った。そこには彼の知らない慈愛が含まれていた。


「あり……がとう、ございました」


「どういたしまして。さあ、もう行きなさい。森が目覚めるわ」


少女が空を指さすと、徐々に雲行きが怪しくなっている。


「そうですね。急ぎますわ。――ホラ、おいで」


マリアはシュロの手を握りしめる。知らない温かさのある手。


彼女の背負った大きな背嚢にはありったけの食糧と硬貨が詰め込まれていた。戦乱に続く時代、世界を生き抜くのならどちらも必要である。マリアはシュロを伴って走り始めた。振り返らなかった。店にいれば安全だとマリアは知っていたし、これからこの世界がどうなっていくのかもオルタンシアから聞いてなんとなくわかっていた。


それでも彼女は男の子を守って世界を生き抜くことを選択した。目の前で飢えた子供がいたら食べ物を分け与えるし、死にかけの人がいたら神官を探して心安らかに旅立てるようにするし、戦争が起きるというなら兵士に同情する。


人間とはそういう生き物だから。マリアはかつて人だったから。


女と少年が見えなくなって、オルタンシアは振っていた手をたらんと戻す。ゴロゴロと雷鳴が鳴り響いた。夕立がやってくる。オルタンシアはシーツをかき集め、店の中に逃げ込む。


間一髪、彼女のドレスの裾が扉の内側に引っ込んだと同時に雷雨がやってきた。森の嵐だ。治まるまで数日を待たなければならない。


「あら」


と彼女が微笑んだのは、ちゃっかり主より先に避難していたテーブルと椅子と茶器のセットを見たからである。所狭しと並んだ点列台の手前、つつましい顔して貴婦人のように佇んでいる。


ハーブの香りのするシーツのかたまりに頬を擦り付けて、マリアがいなくなった店内をオルタンシアは眺める。確かにできのいいメイドでも立派な人形でもなかったけれど、マリアがひとりでに目覚めて話し始めたとき、オルタンシアは心から嬉しかった。


そのとき、ぽろんとシーツの隙間から汚れた新聞紙が落ちた。シュロの衣服になっていたボロ切れだったものだ。マリアがかき集めていたもののうち、一部が紛れ込んだらしい。


オルタンシアは何の気なしにそれを拾い上げ、ジャンヌ王妃の三十五歳の誕生日記念パーティーの見出しにきょとんと眼を見開いた。オルタンシアとしては、自分はまだ十三歳のつもりだったから。


「……時空も歪むのね、ここは」


紫色の目を閉じて、かつて王子の婚約者だった娘は考える。


「ジャンヌが王妃になったなら、もう貧困は解消されているはずだわ。あの子の行った画期的政策で国はますます豊かになったという設定だったはずなのに」


なのに、そうか。


「物語もどんどん歪んでいくのね? キリアン様が囚われの身となり、積極的な魔力の提供を拒んだから。魔法を中心としたジャンヌの慈善政策にも滞りが出たと。そういうことが言いたいのね、この運命やら神様とやらは」


オルタンシアは唇を歪ませた。店の奥に入り、シーツを畳み、しまい込みながら呟き続ける。


「ここで私のせい? なんて殊勝に反省する気はないわ、私には。逃げ出したいと思って生きてきて、ここに落ち着いたのだもの。ええ。するものですか。戻るものですか。ここでキリアン様を待ち続けるの。ああ、そうしろとあの方はおっしゃった」


キリアンが囚われた塔に押し入ったところで、オルタンシアにできることなど何もない。彼女はただここにいて、店主としての役割を果たし、キリアンを待つのだ。変質した物語、不幸な少女ジャンヌが栄光を掴み取るための物語がどうねじ曲がり、その余波がどう伝わっていくのかを。


――シュロが自覚なく差し出した対価はこの新聞紙だった。


「いいでしょう。示し続けなさい。私の役割がどう物語に波及するのか。物語がどう紡がれていくのか。私もしょせんは世界の歯車のひとつ。私のすべきことをまっとうし続けましょう。たとえ森の中に永久に一人、誰も訪れなくなっても」


オルタンシアはすみれの花のような紫色を、人形たちのようにぴかぴか光らせた。それが彼女なりの覚悟だった。


「私はここで全部を見守ってみせるから」


そういう誓いを彼女は立てた。キリアンを待ち続けると決めた。


だから、そうして続けていくのだ。ずっとずっと、再会が叶うまで。

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