第9話 隊商と天使


夏がやってきた。その日の昼下がり、オルタンシアは湖で水浴びをした。一昨日から一日じゅう、背中を丸めて人形たちの手入れをしていた。陶器のものを拭いてやり、服のほころびを繕い、もつれた頭髪を梳かして鬘をずるっと剥いてしまったり。またそれを直してやったり。


人形の手入れについてキリアンはそれなりに試行錯誤していたらしく、彼の部屋で見つけた小冊子にはびっしりと知見が書き込まれていた。また人形師が使うらしい教本なども見つかって、これらはオルタンシアの業務に非常に役立ってくれた。


冷たい水が心地いい。裸になって湖の真ん中で仰向けに浮かぶと、くるくるとうねる黒髪が四方八方にのたうった。湖面の一画は黒く染まった。


傍にいないからこそオルタンシアはキリアンのことを考える。王都を離れて何年経ったのか、彼女はすでに数えることを放棄していた。まだ国同士の戦争は始まっていないのだろうか、それとももうジャンヌは王妃になった?


ノアイユ侯爵家から持ってきた小さな古い手帳はすでに使えるページがなくなって、四冊目だ。考察はいつも同じところで終わる。――キリアンは今、どうなっているのだろう?


オルタンシアはざぶんと水に潜った。透明度の高い冷ややかな湖の中には魚やエビや亀がいて、底の方では水草に岩に、きらりと光る誰かが落とした金時計すらある。オルタンシアは小魚と戯れ、亀の甲羅をかいてやり、ゆっくりと手足を広げてくつろいだ。


水からあがると森は青々と枝葉を伸ばし、燦燦と降り注ぐ太陽をいっしんに浴びている。夏の森はキリアンの瞳の色だ。だからこんなにも彼のことを想い出すのかもしれない。


「信じてるわ。いつかまた会える。そうでしょう?」


一人で呟いた。木々の、下草の、太陽の、香り立つ夏の匂いがする。


砂利を踏みながら小屋へ戻り、自室で服を着終えたときにその音がした。がらがらと、どれくらいぶりだろう、馬車の車輪の音だ。オルタンシアは髪の毛を結い上げるのを諦め、肩に流した。目の色によくあう黄色生地に白い小さな花の刺繍をちりばめたドレスはおろしたてである。これなら恥ずかしい思いをしないですむ。


玄関に出迎えに行くと、すでに馬車は湖のほとりの開けた場所に停車していた。下りてきた人々は首を傾げ、しきりに地図を確認しているところだった。


「なんでこんなところに出たんだ?」


「おかしいだろ、方角は合ってるのに」


と二人の少年が小突き合う横、難しい顔で眉を寄せた額に三本の皺がある老女がふと顔をあげた。まるで今しがた小屋とオルタンシアに気づいたような驚き顔だったが。すぐに心得た顔でひょいと肩をすくめる。


彼女は地図を手近な男性に押し付けると、ざくざくと土を踏みしめオルタンシアの方へ近寄ってきた。しっかりした足取りだった。その外見より年を取っていないのかもしれない。


「突然の訪問をお詫びします。我々がこの森に迷い込んでしまったようですわ。すみませんが、出口を教えていただけません?」


かつては鈴を振るようだった、今もまだ十分に張りが残り凛と響く声である。


オルタンシアは目を細めた親しみやすい笑顔で応えた。


「それは大変なことでしたね。この森から出たいのならば、道順がございます。ご案内差し上げてもよろしいのですが、複雑で時間もかかります。それよりも、ぜひ私の頼みを聞いていただきたいのです」


「頼みとは? お嬢さん?」


「ここに来ることができたということは、あなた方のうちどなたかが私の店の商品に呼ばれたということなのです」


オルタンシアは簡潔に説明した。


「気に入った商品をお取りいただくことができます。代わりに対価をいただきます。お金ではありません。その方の一番大事なものを、です」


世慣れた老女はひとつに束ねた清潔な白髪頭を右の小指でポリポリとかいた。少女じみた茶目っ気のある笑いがその皺のある顔をかすめた。


「なるほど、ここは魔法の店なのね?」


「そうですとも。あなた方は、隊商さん?」


「ええ、そうよ。必要なものがあるところへ、西へ東へ。それが我らの果たすべき義務。何代も前からのね」


「うつろいの民ですのね」


笑顔のまま、老女はすぱりと言い切る。


「それは街の民の言い方だね。――私はルイサ」


オルタンシアは差し出された手と握手した。


「ルイサ、失礼があったならごめんなさい。店の中をごらんになる?」


老女ルイサは表情を変えなかったが、彼女が得体の知れない小屋の中に彼女の一族を入れたくないと思っているのがオルタンシアにはわかった。当たり前だろう。後ろの幌馬車から顔を覗かせるのは子供たち、馬車から降りてルイサを心配している男たちはおそらく彼女の息子たちで、姿を見せないが声は聞こえる女たちはその妻たちだ。ルイサは一族の命に責任を持つ立場の人なのだ。


「仕方ないね、じゃあ私だけ入らせてもらおうかね」


「まあ。よろしいの?」


「よろしいのったって、この森はそういう魔法の規則によって運営されている場所なんだろう? そういう約束ごとをね、よそ者がないがしろにするとひどい目に遭うんだよ」


彼女は薄く白い唇を舐める。硬い表情の老人がやはりしっかりとした足取りで歩み寄ってくるのを、手を振って押しとどめる。


「さ。中に案内しとくれ。――みんな、ちょっとそこで待っててくれるかい。じいちゃんの言うことをきくんだよ」


彼女の連れ合いの腰には大ぶりな湾曲した刀が吊られていた。オルタンシアはそちらへ軽い会釈と微笑みを向け、暗い室内へ彼らの大事なおばあちゃんを差し招いた。


自分がまさしく不気味な森の悪の魔女に見えるだろうと理解していたが、ルイサの言う通り、人形が主を見つけるか客が購入を諦めるか、どちらかのトリガーがなくてはこの森を抜けることはできないのだった。オルタンシアはいくつかの苦い経験からそのことを知っていた。


「何事も自分で動かなきゃね」


とルイサは片目をつむり、ランプの赤い光に満たされた店内へまるで自宅の敷居をまたぐかのように上がり込む。彼女の連れ合いの鋭い視線を背中に感じながら、オルタンシアもあとに続いた。


真新しい木の香りと古い布地の匂い、期待する人形たちのらんらんたる目に出迎えられてもルイサは怖気づかなかった。人形たちは台の上におのおのが一番美しく見えるポーズを取って並んでいた。いつになく気合が入っているようだ。


店の小さな窓から夏の陽光が細く差し込んだ。何重にもかけられたレースのカーテンが、魔法式を劣化させる日差しや風を遮っている。人形たちの毛並みや髪型、伏し目がちな目やぱっちりした目、それぞれの表情やドレスや革靴、そして宝石の目が光る、光る。ルイサは彼らの中のどんな微かな輝きさえも見逃さないようだった。


人形たちの台には丸いレースが敷かれ、彼らの豪奢なドレスや燕尾服や鎧と相まって目が痛くなるほどの過密さだ。砂時計に占い水盆、水晶玉、砂金の詰まった小瓶。壁には古びた掛け時計、古びた金の額縁に大きさの合っていない風景画、それから小さなタペストリー。木の色が見えなくなるほどのごちゃまぜ具合だった。オルタンシアが意図したのではなくて、集ってくるものを全部出していたらいつの間にかこうなってしまった。


「昔話にある魔女の家、そのものみたいじゃないか。ええ?」


ルイサは苦笑しつつオルタンシアを振り返った。店の半ばで佇む彼女はこの店の女王、あるいは彼女こそが店主に見えた。


「片付かないのです。私が悪いんですけれど」


「ははは。ウチの馬車の中もこんなもんだよ。――おや」


そこで彼女は一体の人形に目をとめた。


オルタンシアは見えない糸に心臓をひと撫でされた。


「フランロナの天使様じゃないか」


ルイサは呟いた。平静を装ったような、語尾の震えた声だった。彼女はオルタンシアに向き直り、


「あんた、フランロナ王国と関わりがあるのかい?」


オルタンシアは戸惑った。フランロナ王国こそ彼女が逃げてきた国の名だった。少し迷ったが、頷いてこう言うにとどめた。


「ええ。よく知っている国ですわ」


老女はそれまでと異なりまっすぐにオルタンシアを見つめる。その薄い灰色い目、人生の苦しみを取り込んだ深い皺のある顔。知恵そのもののような彼女の佇まいに見つめられ、オルタンシアは心の中まで見透かされたような気持ちがする。


「――私たちはかつてフランロナ王国の民だった」


オルタンシアにというよりは、瞳の中の誰かに語り掛けるようにルイサは語る。


「天使様のうち一人を崇めていてね。とある貴族家に仕えていた使用人の一団、それが私たちのご先祖だよ。殿様が失脚して私たちも連座され、国を追われた。それで流浪の商人になったのさ」


心当たりが、オルタンシアにはあった。百年より前、まだキリアンも生まれていなかった頃、他ならぬオルタンシアが生まれたノアイユ侯爵家が滅ぼした家系の話にとてもよく似ている。彼女は思わぬ罪を突きつけられた逃亡者のように大きく息を吐き、拳を握る。


その人形は泣いている。涙の形にカットされたダイヤモンドの粒が頬に癒着しているのだ。その身体は貝の内側でできていた、正確には粘度で形をつくったあとに、薄い貝殻の内膜を剥いで張りつけてあるのだった。だからよく見ればつなぎ合わせきれなかった細かな皹が無数に入り、さながら全身に擦り傷を負っているよう。


姿かたちは美しい女性である。髪の毛は赤い絹糸で、目は青いエメラルド。纏うのは袖のない白いドレスで、装飾はない。そう、見ようによっては処刑される前の囚人のような格好だ。ボロボロの肌をした美しい赤と青を纏った女性の背中には、本物の鳥の羽根を使った翼が生えている。


「その頃、国は信仰を一つにまとめようとしていた。王家のご先祖の天使様だけを崇め、あとの天使様はただその従者で崇める対象じゃないって言い出したんだ。だからその貴族のご先祖を崇めていた私たちは、異教徒にされた」


オルタンシアは息を整えた。前からずっと思っていた。いつか――貴族であった自分と、対峙しなくてはならないだろうと。


いいえ。濡れた黒髪の一房が頬に張り付いた。オルタンシアは赤い光に満ちた店内で、ルイサを真正面から見つめた。


「フランロナにはまだ、天使信仰が根付いています。貴族の先祖とその貴族の血族を同一視し、人というよりは神にするように接する文化も。王はそれを滅ぼしきれなかったのです」


紫色の目をぎゅっと怒らせて、オルタンシアはあえぐように言葉を重ねる。ルイサにわかってもらいたかった。フランロナ王国は確かにオルタンシアの居場所ではなかったが、敵ではない。彼女の敵はジャンヌたちであって、国でも民でもない。


「ルイサ、人々の思いは強いものです。たとえ国に禁止されようとも何度でも蘇るのが信仰というものです」


それは加害者の末裔であるオルタンシアが言うべき言葉ではなかったかもしれない。いいえ、私はノアイユ侯爵家とは関係がない。あの家のおかげで健康に育ち、キリアンのおかげで逃げ出せた。それは事実。でもそれと、今、ここにいる私に直接の繋がりはない。


「愛する気持ちに理由も比較も関係ないわ、ルイサ。もしあなたがこの子に惹かれたというのなら、それはこの子があなたを呼んだんです。魔法の繋がりを疑わないでください。心の目でこの子の目を見てあげて。真実があるとするならそこです……」


沈黙が落ちた。オルタンシアの後ろ髪を頭皮が引き攣れるまで引く、魔法の見えない糸は天使の人形から出ていた。確かに、痛烈に、オルタンシアはこれほど強い人形の意志を感じたことはなかった。彼女はなんとしてでもルイサについていきたがっていた。ルイサたち一族とともにこれからを過ごしたいと言う彼女の思いが、オルタンシアの心臓を焼くようだった。


ルイサは静かにオルタンシアの話を聞いてくれた。店主としての分を明らかに超えてしまったオルタンシアが後悔と共に口を閉じると、老女は低く笑った。


「まったく。まるで私が怒鳴りつけでもしたように畳み掛けるね、この子は」


「すみません……」


「いいや。昔の話を持ち出したのはこっちだ。そう――この人形はよく似ているよ。今も馬車に積まれている天使様の像にさ」


「え?」


ルイサは額に三本の指を当てる。三本の横皺がくにゃりと曲がる。


「この人形のモデルになった人はきっと、私たちのご先祖がお仕えしたおうちに近しい人だったんだろう。だってあの天使像はうちのご先祖が殿様から託された、って触れ込みだもの。どんな因果かわからないが、ああ、もらうよ、この人形」


人形の歓喜がオルタンシアを貫き、彼女は思わずそれに飲まれて踊り出すところだった。


オルタンシア静かに頭を振りながら胸の前で手を組み合わせた。


「ありがとうございます。お代は……」


店の魔法が彼女に囁きかける。まさかその天使像をとは言わないで、とオルタンシアは願う。


「天使像と一緒に預かったものがおありですね」


老女は警戒の色を見せた。だがオルタンシアも譲ることはできなかった。


「あなたには拒否する権利があります。対等な売買契約ですから。どうしますか?――それを、天使像の台座に隠された冊子を渡してくださるのなら、人形をお渡しいたしましょう」


ルイサはふうっとため息を吐き出す。


「みんなと話させとくれ」


それで、少しの空き時間ができた。彼らが家にして商売道具にしてこの世でもっとも頼れる大きな馬車の周りで相談ごとをする間、オルタンシアは店内に残り、天使の人形と一緒に気を揉んだ。


「連れていってくださればいいけれど。――え? その前に髪をなんとかしてこいですって? まあ、そうねえ」


そうしてルイサたちの意思はまとまった。彼女たちは天使の人形を馬車に、古びた大理石の天使像の横に積み込み、代わりに小さな台帳をオルタンシアに手渡した。


「取引成立です。ありがとう。道なりに行けばこの森から出られるはずよ」


「もう勘弁願いたいね。いい経験にはなったけど」


そうしてからりと笑い、ルイサと一族がガタゴトと農耕馬に引かせた馬車で行ってしまうと、あとは小屋の前の空間に残された轍と湖の波紋だけが残される。オルタンシアは人形がいなくなった後にいつも感じる寂寥感を背負って店に戻った。


ルイサの隊商は末永くこの一件を語り継ぎ、酒場や馬市場から噂は尾鰭がついて広がった。オルタンシアの髪の毛が濡れていたことから湖の精霊と同一視されたりもしたが、それは本人の知るところではない。誰だって不思議な経験をしたあとは人に語りたくなるものだ。


もう会うこともないだろうが、彼女はオルタンシアはひとつの確信を与えてくれた。ルイサがルイサであるのと同じに、オルタンシアはオルタンシアである、という確信を。同時にフランロナ王国はオルタンシアの愛する故郷であり、国とジャンヌは関係ない。たとえこの先ジャンヌがエドゥアールの王妃となるのだとしても。


――ルイサたちの幌馬車の車輪軸に揺れていたお守りの模様の意味をオルタンシアは知っている。それはすでに滅びた天使を先祖に持つ家の紋章で、今では異端信仰の旗印となった模様だった。


彼らは隊商だが、同時に人身売買や誘拐、略奪も行う流浪の賊であり、金次第で誰にでも味方する傭兵団である。


原作での登場は確か戦争編に入ってからだったと思う。フランロナ王国を憎む悪役として、ロンド帝国の皇帝に味方した敵として登場した彼らはいかにも恐ろしく頭が悪い人たちとして描かれていたけれど、実際に会話をした限りまったくそんな感じはしなかった。


「ふふっ」


どんなものでもオルタンシアは愛していいのだ。愛することを諦めないでいい。


彼女は店から繋がる廊下を開けて、その長い長い暗闇の果てを思う。いつかその先に進むことになるかもしれないけれど、とりあえず、今は。


「髪の毛を乾かさなくちゃ」


そうしてパタパタと忙しなく、自分の部屋へ急ぐのだった。


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