第8話 戦士たち
彼は屋敷から逃げ出そうとして、召使いどもの使う木の戸口を潜り抜けたはずだった。貴族というのは幼少期から栄養がいいから、長身である。平民どもに合わせて作られたそこはいかにも狭く、彼は頭を屈めなければならなかった。
舌打ちをしながら炎を逃れてその戸口をくぐった。そしたら森の中にいたのである。
大臣の息子は呆然と目を見開いた。ぱっと後ろを振り向いても、屋敷は影も形もない。魔法か魔導か知らないが、誰かの悪意に惑わされたのだ。ひたひたと不安と絶望がやってきた。
だが勇敢な貴族の子息はめそめそしなかった。彼は足跡を残さないように小石の上を選びながら森の小道を行き始めた。脇腹がずきずきと痛んで、吐く息も冷たく感じる。夏の昼間だというのに森は薄暗く、涼しいというより寒かった。
逃亡の果てに、彼は湖を発見した。喜びの声を上げて水を飲み、ふと顔を上げると木漏れ日の中に佇む小さな小屋がある。彼はためらいつつも、小屋に足を向けた。お腹が空いていたのだった。
「誰かいるのか?」
尊大な口調だったが彼にその自覚はない。
「俺はダミアーノ・バルディーニだぞ! バルディーニ家を知らないわけはないだろう!」
彼は明るい金茶色の髪と明るい茶色の目の美男子で、長身で、がっしりした体格だった。宮廷婦人のうち彼にときめかない女性はいなかった。声にはありありと自信が満ち溢れていた。たとえもっとも下等な兵士によって屋敷が放火され、ここは見知らぬ森の中だとしても、彼は自らの誇りに則って行動することにはなんの迷いも持たなかった。
小屋の扉が内側から開き、そして魔女が姿を現した。彼女は深い緑のドレスを着ていた。上にいくにつれだんだん黄緑色に色がグラデーションに変化する。長い黒髪は床にひきずるほどで、うねうねと蛇のようにのたくっている。顔つきはごく普通の三十女に見えた。紫色の目だけはしいて言えば魅力的かもしれなかったが、陰鬱な表情とこんな森の中の小屋から一人で出てきたという異様さでもってダミアーノをすくませた。
「だあれ?」
と彼女は低い歌うような声で言った。ダミアーノは肩を怒らせ、
「大臣の息子だ」
と胸を張る。これで相手はかしこまり、頭を下げて非礼を詫びるはずだった。
「どうしてこんな深い森に? 迷い込んだのかしら?」
魔女は肩をすくめ、すがめた目で彼を見た。みじんの興味も持たないといいたげな態度だった。立ちはだかる木々の冷たい影が彼女に濃い影を落とす。ドレスのスカートは貴婦人のように長いのに、それが体にくるくると巻きついて見えるので、ますます蛇のようだった。絡み合った複数の蛇。びょうと強い風が吹き、森の香りと深い豊かな土の匂いりを運んできた。彼女の黒髪は束になって風に舞い、ダミアーノの視界を遮る。彼はもう怒る気力もなかった。なるようになれ。彼がこんな目に遭ったと知った父は激怒し、この魔女を捕らえて殺すだろう。彼は一言だって弁護してやるものか。仮に魔女が彼を小屋に上げ、水と食べ物をくれたのだとしても。
大臣の息子は疲れ切って答えた。
「宮廷での権力争いに巻き込まれたのだ。屋敷に敵兵が詰めかけた」
「それで?」
「それで、だと?――だから、命を狙われておる」
「それで?」
「信じられん。困っていると言っている」
「ごめんなさいね。私は権力者というものが嫌いなのよ。とくに男は」
彼女は冷え冷えとした微笑を口元に浮かべ、だがしばらく考え込むようだった。
「でも、そうね。私の好みとあなたがここに来ることができたということに因果関係はないわ。さあ、どうぞ、若君。この店はあなたのため、何かを差し出すことができるかもしれません。ただし、その代わりに見合った対価を私が要求することがある。対価はお金とは限らないし、命より大事なものかもしれない。あなたはそれを受け入れられますか?」
ダミアーノはためらった。魔女はあまりにも不気味だった。だが背後に迫っているかもしれない政敵の兵隊のことを想えば、この魔女一人なら彼の腕力でどうとでもなるだろう。
「仕方がない。生きるためだ。私のために差し出せるものがあるのだな? 魔女め、だが困ったときは魔法に携わる者の言うことを聞いた方がいいのだ。ご先祖はそうして難局を乗り切ったのだから。ここに入れたまえ。お前が差し出すものの代わりに、なんでも対価とやらにしてくれてやろう」
「そんな簡単なことではないのだけれど……」
魔女は呆れた声で小ばかにしたような微笑みを浮かべ、小さな小屋の中に彼を招き入れた。
小屋の中は案外広く、だが所せましと台や棚が並べられ、その上には不気味な人形が大量に並べられていた。その上、驚くほどに乱雑だった。開けっ放しの引き出しに真珠の首飾りがかかり、埃の積もった繻子張りの椅子の背中に年代物のローブがかかっている。男ものの指輪や金貨が出しっぱなしにオルゴール箱の上に積み重なり、そのすぐ横に陶器製の狼の人形がお座りをしていた。
「まるで貧民窟のようだな!」
「前はもうちょっとましだったのよ。悪いわね」
とぜんぜんそう思っていない口調で魔女は言い、さあ、と店内を指し示し尋ねた。
「それで、何がほしいのかしら? 気に食わないけれど、ここに来られたというのは人形が呼んだということ。あなたが彼らに選ばれれば渡しましょう」
彼は尊大に答えた。どのような理由で自分がここにいるのかなど、どうでもいいことだ。彼は貴族なのだ。いずれあの屋敷に戻れることに疑いはなかったし、目の前の女相手に媚びた態度を取る意味もない。
「私に仕え、身を守るための強力な兵隊をよこせ。敵と戦わねばならんのだからな」
魔女は片方の頬を上げ彼を嘲笑った。紫色の目はどこか悲し気だったが、ダミアーノはそれに気づかなかった。
「まあ。そう。いいわ。台の間を回ってごらんなさい。そうなのよね。あなたを選ぶ子もいるかもしれない。この暗い店よりも静かな日々よりも、戦いと乱暴と荒々しさをこそ好む者だっているわ。戦うためにこの道を選んだのだもの……」
「お前が何を言っているかまったくわけがわからん! まったく、魔女などというものはいつだってこうだ、魔導士には決してなれんくせに賢しらに」
ダミアーノの声はさらに威圧的になり、態度は尊大になる。すでに表情も仕草も激怒したといってよかった。魔女があくまで静かにたたずみ、使用人どものように床に膝をつかないのが許しがたかった。
ここが明らかに魔法を秘めた空間ではなく、彼女が一目見てわかるほど色濃く魔法に浸った人間でなければ、そして手元に剣があれば、ダミアーノは貴族の権利を容赦なく遂行したに違いなかった。
ふんふんと発情期の牡牛のように店内を歩き回るダミアーノを見、オルタンシアは何年か前に一体の人形を剣技によって買い取った青年を思い出した。彼と人形の絆はあまりに強く、わかちがたく結びついていて、誰にも切り崩せなかった。確か名前はヨルムと言ったか……オルタンシアが生まれた国の人ではないようだった。
「ねえ、あなたはどこのお国の人?」
「は? ロンド帝国だ、そんなことも知らんのか!」
「ロンド帝国ね……」
小屋の中、オルタンシアは深いため息をつく。悩みが満ちた紫色の瞳が色濃く霞む。黒髪はランプの赤い光につやつやと光沢を放つ。
すでに失ったキリアンとの絆の糸じみた何かが、彼女と人形たちの間に張り巡らされている。主従ではない、仲間意識を魔力化したようなものだ。人形たちの中の数体が、その糸をピンと張り詰めていた。ダミアーノに選ばれるのを待っているのだ。つまり、彼らは百年前の戦士たち。オルタンシアよりもこの店よりも、失礼と差別意識を煮詰めたような貴族ダミアーノについていきたいと望む者たちなのだった。
オルタンシアはその気持ちを理解してやることはできない。しかし人形たちには己の主を選ぶ権利があるのだ。青年ヨルムについていった少女シュルルカによく似た人形と同じに。
オルタンシアは聞いていないのを分かってダミアーノに声を張り上げた。
「人形たちは自己意識を持っているのよ。私があなたに与えるのは人形の形をした力。彼らが望むなら彼らを与えることができる。けれど近い将来、あなたはその力に飲み込まれるでしょう」
大臣の息子は振り返った。足を止めたのはカワウソの連隊の前だった。丁寧に磨かれた金属板をたわめた鎧を身に纏い、手に手に槍を持っている。
「それは俺が当然受け取るべき力だ」
いっそ厳かな声である。
「力に? 飲み込まれる? おかしいことを言う女だ、力とは貴族のもの。俺に従うものだ!」
オルタンシアは諦めなければならないということを知った。彼女は人形たちの母親でも所有者でもなければ、ましてや残った意思を守った魔導士でもなかったから。
ダミアーノは五体の人形を選び、人形たちもまた乱暴に掴まれることを喜んでいた。生前と同じに彼らは戦士として戦うことを選び、主としてダミアーノを選んだのだった。
(それでいいの?)
とオルタンシアは物言わぬカワウソたちに問いかけのまなざしを投げたけれども、彼らはけらけら声もなく笑うばかり。
外では風がざわめき、森の中は静まり返っている。この森は眠りについているのだ。別の森に小道がつながり、人形の意思を受けながら。
ダミアーノはカワウソたちを貴族の上着のポケットに詰め込み始めた。金属板の鎧がガチャガチャと音を立てる。
「魔法道具の礼を言うぞ、魔女。手始めに我が家の敵はすべて皆殺しだ」
オルタンシアは身体の前で手を組み合わせ、人形の行く末を思う。当然のようにダミアーノを選ばなかった人形たちもヒソヒソと互いに噂話をして、カワウソたちの話はしばらく店の中を賑わせることだろう。
「それで、対価とやらはなんだ」
「あなたのもっとも価値あるものをいただきますわ」
オルタンシアはスカートの裾を揺らして一礼する。
「今はまだ、受け取るべきときではないようです。いつもなら、何を貰えばいいかこの店が教えてくれるのですが。私にはなんの啓示もありませんもの。人形たちと過ごすうち、自然と彼らに引き渡されるたぐいのものなのでしょう」
「フン。霊感が鈍っているのではないか?」
ダミアーノは来た時と同じくらい騒々しく店を立ち去った。
一年後、カワウソの兵士たちは迷い込んだその日の客の手によってオルタンシアの手元に帰還する。
「どこでこれを?」
と聞けば、処刑された貴族のポケットから出てきたものだという。オルタンシアは目を細め、ひしゃげた金属板の鎧を撫でた。いっときの拠り所であっても人形たちが選んでここに戻ってきた。そのことが自分でも驚くほど嬉しかった。
ロンド帝国はかつて一つの王国にすぎなかったが、周辺諸国を併合し占領し拡大し、強大化した。大陸統一の野望を燃やす若き皇帝に率いられ、やがて国王となったエドゥアールとその王妃ジャンヌと敵対するのだ。
戦争編では悪の親玉のように描かれていた国である。けれどオルタンシアはロンド帝国側のキャラクターは全員好きだった。無頼で武骨で力任せのようでいて、その実繊細な戦士の倫理に基づいて生きる男女。
「楽しかった?」
彼女は会計台の小椅子に腰かけ、カワウソたちに問いかける。清潔な絹でキュキュと音を立てて鎧を磨き、紛失された槍と同じようなものを木切れで作って持たせ、何より抜けてしまった本物のカワウソの毛の跡地を刺繍で埋める。キリアンの魔力に馴染んだ人形たちはオルタンシアの手にもごく自然に慣れて、彼らはきゃらきゃらと笑って真珠粒の目を光らせた。
「そう。ならよかった。次はもっと平和なところを選んでくれたらいいと思うけれど……」
オルタンシアは苦笑しながらカワウソの一匹ずつを撫でた。
「それは高望みというものね。お前たちは何度だって戦乱のあるところへ赴き、その場所で生きる男や女を主に選ぶのでしょう」
それは俗に言う呪いの人形の一種ではないのか。とは、さすがに口には出せない。オルタンシアの役目はキリアンに託された人形たちを見守ることである。彼らの気が済むまで。
「困ったわね。私では面倒見切れないかもしれない。キリアン様に恥じないように治めなくてはいけないのにね」
人形たちはさんざめきながら、まだ年若い女あるじの悩みごとを笑い、そして彼ら自身のことも笑う。死してなお元のような地獄を求めてしまう自分、あるいは解消されなかった因果と同じような糸に絡めとられた陶器や布の足を笑う。
人形店には選ばれた人間だけが訪れるが、その人が善人だとは限らない。それでもオルタンシアは店を開け、訪れるものを歓迎する。
それが彼女の選んだ彼女の生きる道だった。
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