第14話 示された道で


ベリアナはふっと我に返った。ああそうだった、これじゃいけない。


「戻らなきゃ」


戻って父の選んだ気に食わない男と結婚するのだ。それがベリアナが生まれた意味だから。けれど、ここはどこだろう。


ベリアナは夢遊病者だった。十歳くらいからその病気は始まり、やがて手が付けられないほどに悪化して、十七歳の今となっては母はベリアナが眠るとき、家じゅうの窓に鍵をかける。それはベリアナがガリオに出会ってからいっそうひどくなった。


ベリアナは赤いまっすぐな髪と緑色の目をした美しい乙女だった。ガリオは父の店で働く書記官見習いで、短く刈り込んだ金髪に緑色の目。彼らは初対面で手も触れられぬ恋に落ちた。ベリアナの縁談が決まったのはその直後だった。


二人きりで会話を交わしたことはない。見つめあったことすらない。けれど家と店は同じ敷地内にあるのだから、父母にベリアナの気持ちが知れるのは早かった。ガリオの寝起きする独身寮は、ベリアナが眠る母屋の奥棟から市場より近いのだ。


父は大商人である。結婚によって爵位を狙っている。ベリアナはずっと愛されて育ってきた。恩返しがしたい。嫁入りのために育てられたのに、後足で砂をかけるようなマネはしたくない。でも――本心は、ガリオとまっすぐ向き合いたい、抱きしめたい、キスがしたいと叫んでいる。


だからこんな森の奥にまで迷い込んでしまったのだ、まったく。ベリアナは腰に手を当てて、うんうん頷いた。


「さあ、私。これで気が済んだでしょ? もう戻りましょう。といっても、どっちに行けばいいかもわからないけれどね」


と、苦い照れ笑い。


ベリアナは落ち着いていた。ベリアナがさまよい歩きだせる範囲で、父の権勢の及ばないところはないのだ。こんな森が家の近所にあるなんて知らなかったけれど、誰かに出会ったら名乗ろう。きっと家まで報せてくれる。それで解決だ。


ベリアナはむやみに歩き出した。見知らぬ森の中、それがどれほど危険なことだかわからなかった。彼女は箱入り娘だった。


そうして歩きに歩き、倒木を乗り越え、苔むした岩に見とれ、鬱蒼と茂った枝で空が見えない密集した森の匂いに息を詰まらせながらベリアナは進んだ。身体は元気だった。夢遊病になっている間は身体は眠っているから、たっぷり眠ったあとのようなものなのだ。


「あら……?」


ふいに視界が開けた。湖だった。広くしんとしてきらきら宝石のように光る。さすがに、おかしいと感じ始めた。これほどの湖が近所にあれば耳に入るはずだ。なのにベリアナはこの場所がどこかわからない。幼い頃は転げ回って遊んだのだ、行ける範囲のことなら全部知っているはずなのに……そう、全部……。


嫁いだら家から出られなくなる。それが妻たる者の宿命だ。夫の付き添いなしに家の外を出歩く女は全部娼婦だ。だからベリアナは故郷の全部を知っている、はずだったのに。


「ここは違うわ。私のコウェナじゃない……」


ベリアナは通ってきた森を振り返ったが、いったいどういうことだろう、確かにたどったはずの小道の姿はかき消えていた。赤毛を振り乱して彼女は首を横に振った。夢、夢だ。早く覚めればいいのに。


そのとき、カタンと音がした。ベリアナはびくっとそっちを見た。


ふわふわの猫のような毛並みの少女だった。大きな紫色の目、白い肌、身体の線を外に出さない布地がたっぷりとられたドレス。彼女は小屋の出入口でベリアナを見つめた。ベリアナは思わずそっちへ駆け寄った。小屋があることすら目に入らなかったくらい、混乱していたというのによくすぐ動けたものだった。こういうとき、小娘というものは怯えて動けなくなると聞いていたのに。


「あのっ、あの、すみません。ここはコウェナですか? 自治領で一番大きな都市の、隊商街コウェナ?」


少女は大人びた笑顔でベリアナを迎え入れる。まるで母のような笑みに、ベリアナの不安と冷や汗が徐々に収まった。


「いいえ、ここはどこでもない場所ですの。私はオルタンシア。あなたのお名前は?」


「ああ、失礼を――ベリアナです。顔役のグリアの娘、トロッポの家のベリアナです」


オルタンシアは目を伏せて唇に手をやった。


「寡聞にしてそのお名前は存じませんが、ここにいらしたというからにはあなたは招かれたお客様です。どうぞ、お入りくださいまし」


かすかに鼻にかかった甘い声、紫色の目にベリアナはどきどきした。


「な、何かご用事があって、外に出てこられたんじゃないの?」


というのは、女が、それもきちんとしたドレス姿の少女がわざわざ家の外に出るだなんて、それこそ一大事だと思ったからである。見たところ周りに家族の男性もいないようだし。


オルタンシアは唇の端を吊り上げ、本心を見せない綺麗な笑顔をした。


「いいえ、とくには。風に当たりたいと思っただけでしたから。さあどうぞ。人形店にようこそ」


そうしてベリアナは、生まれてはじめて父母も兄も付き添わないまま店に入った。


そこでオルタンシアから説明を聞いたが、まさか自分を選んで呼んでくれた魔法の人形なんてものがこの世にあるとは思えない。ベリアナは目をぱちぱちさせ、作法がわからないので動きようもなく、ひたすら赤い光に満ちた店内を見渡した。


「大丈夫、怖くないわ。見て回ってごらんなさい。ピンとくるものがあったら教えてね」


と言ったきり、オルタンシアは会計の用具が散らばる小さな机について、新聞など取り出してしまう。新聞! 女の子が!


ベリアナはそっちを見ないようにぎこちなく視線を前に戻した。なんとなく、ガリオの声を思い出した――思い込んじゃいけないよ。世界はもっと広いですよ、お嬢さん。


彼の言うことは全部不思議だ。ベリアナは彼の声を聞くたびにみぞおちがむずむずして、叫び出したいような気持ちになる。喉がイガイガして、咳をしたいのにできない場面のような感じになる。


ベリアナはゆっくりと店の中を見てまわった。戸惑いも、怖いという気持ちも徐々に消えていった。無意識に、ガリオを探していた。自分でもわかっていた。成就することのない恋だ。乳母の言うように、はしかみたいなものだ。


もしこの店がオルタンシアの言う通り魔法に関するところで、魔法に導かれて人形に出会うというのなら。父もきっと、嫁入り先にその人形を持っていくことを許してくれるに違いない。魔法使いの機嫌を損ねることほど恐ろしいことはないのだから。ベリアナはちらりとオルタンシアを眺めた。彼女はへそまで伸びたうねる黒髪を後ろへやって、脚を組み新聞をぱさぱさやっている。目の動きから文字を追っているとは思えないのに、その姿はどことなくカフェでコーヒーをすする紳士のように優雅で知的に見えた。


店の中をうろつくうち、ベリアナにも違いがわかってきた。彼女に興味を持つ人形と、そうでない人形では目の輝きが違う。こっちを見つめてくれる宝石の目を探し、ピンとくるという感覚を探した。ベリアナを呼んだというその人形がガリオの姿をしていればいいな、とも思った。


数々のまなざしが、光が、ランプのオレンジ色に混ざってくらくらした。ベリアナは次第に楽しくなってきた。家に来た商人から色んな品物を見せてもらうときみたいに。通り過ぎる人形たちの顔、顔、顔。人間の姿をしたのもいたし、犬猫の、ドラゴンの、エルフの姿をしたのもいたし、なんなら小人みたいに小さく醜いのもいた。一番奥の壁に飾ってある光に向かって飛ぶドラゴンのタペストリーも気に入った。


とうとう見つけたのは、小さな犬の形の人形だった。短い毛が全身に生えており、今にもきゃんと鳴きそうに口を開けている。四つん這いの短くも太い脚をふんばって、凛々しく顎を上げたその姿。


「貴婦人の忘れ形見ね」


と、吐息の香りまでしそうな距離でオルタンシアが囁いた。ベリアナは肩を震わせながら聞いた。


「貴婦人って?」


「はるか遠い昔に、いたの。西の街道がまだ山と森だった頃。素晴らしい狼だったのよ」


「そこならお父様の主要な貿易相手の土地だわ」


あのあたりがまだ拓かれていなかった頃? 百年も昔の話だ。不審に思う心など、魔法使いへの侮辱である。彼らは侮辱を許さない。魔女オルタンシアへの本能的な畏れに抗えないベリアナは、あえて明るく笑いながら言った。


「ロンド帝国のニセモノ王妃の事件があった頃でしょ、西の森がまだあったのは……」


オルタンシアは紫色の目を見開いたが、やがて口元を抑えて目を和ませた。


「そう。よく知っているわね。王太子になろうとした第一王子を名乗る取り換え子と、彼に恋した光の魔法を使う乙女の伝説よ」


「あなたはあの時代を知ってるの? 伝説をその目で見た?」


「――さあ、どうだったかしら」


「ふうん……」


ベリアナは首を傾げながら人形の鑑賞に戻った。犬は笑った、ように思われた。しっぽが動くのなら振っていただろう。ベリアナには確信がある。この子が私を呼んだのだ。そして私は、この子と生きていくのだ。


「ガリオ、っていう男の子がいて。私と同い年なの。私の婚約者は私より三十上なの。――ガリオが好きだわ。恋してる」


「そう。素晴らしいことだわ。人間が一生のうち抱く感情のうち、もっとも偉大なもののひとつが恋よ」


「私もそう思う。でも決めた。ガリオとは一緒にいないの。いられないし、いないと決めたの。この子と一緒に嫁ぎ先にいくわ。お姑さんに捨てろと言われたら、森の魔女にもらったものだからと言い訳することにする」


「犬は主人に忠実な生き物だから、もし捨てられても自分で戻ってくるでしょう」


ベリアナは晴れやかに笑った。オルタンシアのひらひらと揺れる袖口の生地を手に取り、そこに口づけた。大富豪といえど平民身分のベリアナにはできないはずの、貴婦人の礼だった。


「ありがとう、ありがとう。私はそういう存在がずっとほしかったの。お父様にも旦那様にも負けないで私を見てくれるものが、ひとつだけでもあってくれたらそれでよかったの。私の感傷にガリオは巻き込まないわ――ええ、決して巻き込むものですか!」


それからベリアナはとろんと眠った目になって、森の中をあやまたず帰っていった。胸にしっかりと小さな犬の人形を抱いて。


オルタンシアは手を組み合わせ祈った。


「どうか、奥様。ジャンヌの元へ下らなかったあなたの末裔のしっぽに賭けて、あの子がどこまでもあのまま幸せになりますように」


それからベリアナは父母に言われた通りの貴族の元に嫁ぎ、その家に染まり、自由を愛する気持ちや柔らかなところを全部失った。それを悲しいと思う暇もなく、子供を育て、義理の親と夫の世話をして、日々は過ぎた。犬の人形は常に彼女のそばにあったが、ときどき存在を忘れられてどこかに紛れてしまうのもしばしばだった。人形はそのたびに主人の目に付くところに自ら移動して、忠誠を示した。


やがて年老いたベリアナはガリオと再会するが、でっぷりと太った彼に昔の面影はなく、二人して若すぎた頃の気の迷いを笑い飛ばして、それでおしまい。物語とは大なり小なり、このようにして幕を閉じるものなのだった。


彼女がオルタンシアにジャンヌが負けた世界線を示したことにより、オルタンシアの観測する世界は原作小説のあらすじから外れた。そのことに誰も気づかないまま、また異なる未来、異なる世界への扉が開かれる。


店の奥の開かない扉たちのうち、もういくつがうっすらと光を漏らしつつあるのか。毎日見慣れたオルタンシアは気づかない。開かずの扉が開いたとき、何が起こるかも知らない。森の魔女はただ主たる少年のままの魔導士のことを想う。彼女にこの人生を与えた人のことを。


森の迷宮を抜け出せる道はもうすぐそこにあったけれど、オルタンシアが気づくまで、ひっそりと暗がりに紛れるばかりだろう。

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