第3話



率直な気分としては、――やったあ! である。


お茶会から帰ってきたその日にオルタンシアは発熱し、そのまま寝込んだ。何度目だ。アルノーと出会った日といい、さすがにちょくちょく倒れっぱなしでは貴族令嬢の資質を疑われかねない。貴族の女の第一の義務とは男児を産むことであり、そのためには健康な身体を持つべきだからだ。身体の弱い令嬢は結婚候補から外され、早々に隠居させられることもあるほどだ。


「うぅ……喉痛い……」


とオルタンシアは呻き、侍女の一人が水の入ったクリスタルグラスを枕元の小机に置いてくれた。彼女たちは我が子にするようにオルタンシアの頭を抱えて水を飲ませてくれたりしない。母親という後ろ盾を持たないオルタンシアにそこまでしても、見返りが期待できないからだ。


こちらとしても別に思うところはないから、黙ってぶるぶる震える手を伸ばし、斜めに身体を起こして水を飲むオルタンシアだった。半分くらいこぼした。侍女は見て見ぬふりをした。


そうしてずきずきする頭、ぐるぐる回る視界、水を飲んでもカラカラの喉を持て余しながら天蓋を眺めて過ごしていた。


熱が引いたのは四日後のことだった。起き上がって着替え、まずは身体を慣らしていこうとガラス張りのサンルームに出てお茶をもらった。食が細くなってしまい、侍女の出してくれた焼き菓子さえ喉に突っかかる。オルタンシアは細いため息をつく。小さく幼い身体はどうしたって精神についてこられないことの方が多いのだ。


身体の中心から糸が何本も連なっているのがわかる。主が、この命を握っているただ一人が王城にいるのも、その方角もなんとなくわかる。ポリリ、とクッキーを齧りながら赤い紅茶の水面を見るともなしに眺めた。ひどく安心していた。まるで新品の寝間着で温石に暖められたベッドに入ったときのようだ。


(私は一人ではない)


これからはキリアン様と一緒なのだ。ああ。


(なんて幸福なことだろう――)


と目を閉じる。傍から見れば甘さを噛み締めているように見えたのかもしれない。


ふと、壁際に並んでいた侍従の一人が扉を開けた。見るとそこにはノアイユ侯爵が立っている。肥りはじめた腹をなんとか若いころのベルトに押し込めた、ごく善良そうな貴族の当主。オルタンシアの父親である。


彼女は椅子から立ち上がり、スカートを摘まんで一礼した。


「ああ、よいよい。病み上がりなのだから無理はするな」


「はい。お目通りいただき嬉しいです、お父様」


「うんうん、もう大丈夫そうだね」


実際のところ礼をしたせいで頭はくらくらし、一瞬方向感覚をなくしたほどだったけれど、オルタンシアはにっこりする。


「もうすっかりと。何か御用でしたの?――お父様にお茶をお淹れして」


と侍女に指示する仕草は、我ながら立派に小さな貴婦人だった。


そうして侯爵はオルタンシアの前の籐椅子に腰を落ち着けたが、お茶を啜るでもなく忙しなく両手を組み合わせている。オルタンシアは呆れた。貴族の男たるもの、いつも悠然と落ち着いていなくては。だからノアイユ侯爵家は奮わないのである。このぶんでは政略でもずいぶん損をしているに違いない。


「あー、ええと。調子はどうだ?」


「先ほどお話いたしましたわよ?」


「ああそうだった、そうだった! ウン。治って何よりだ」


父はこほんと咳払いをして、居ずまいを正した。


「お前とアルノー殿下との婚約が決まった」


「まあ、そうでしたのね。嬉しゅうございます。精一杯つとめますわ」


そういえば原作でもちょうどこの頃にこのエピソードがあった。ジャンヌが侯爵家で暮らすようになってすぐ、オルタンシアが王子との婚約を自慢しに来るのだ。


父は確かに貴族当主にしてはぼんくらだ。しかし第二王子アルノーとオルタンシアの縁組を成功させた腕前は買わなくてはならない。たとえその理由の八割が血筋と他家との兼ね合いだったとしても。


「その、お前ほんとに意味を分かってるのかい?」


「もちろんですわ。他家に嫁ぎ血を繋ぐのはわたくしたちのもっとも大事な責務。お相手が王家とは身震いがいたしますが、心より邁進する所存です」


父は手袋をしていない手でごしごし顔をこすった。オルタンシアに聞こえないと思っているのだろう、こういうところが可愛くないんだよなあ、とぼやく。


「あー、じゃあ。それでな、エルザとも話し合ったんだが」


「はい」


「これからお妃教育も始まるし、いつまでも本邸で甘やかしてばかりはどうかと言う話になってな。その、お前ジャンヌともうまくやれてないそうじゃないか。姉なのに妹に譲らないのはけしからんぞっ」


と怒って見せてもぜんぜん怖くないのだった。


オルタンシアはぱちぱちと瞬きをして、母親譲りの黒髪を揺らし小首を傾げる。


「お勉強が忙しくて、あまりお二人にお会いできないのです。つまりわたくしの住まいをここから別のところに移すということでしょうか?」


これは大歓迎である。正直言ってヒロインと一つ屋根の下というのは、いくらノアイユ侯爵邸が広いとはいえ快いものではなかった。最初こそおねえさまおねえさまと鬱陶しかったジャンヌも、オルタンシアがあまりに構わないものだから告げ口も癇癪も諦めている。このまま関係を持たずぜひとも縁を切りたい。


「可愛くないなあ」


父は呆然と言い放った。その言葉にオルタンシアが傷つくとはまったく思っておらず、実際そうなのだが、よくもまあ言えたものである。しげしげと顔を見つめてくる視線は甲虫を眺める男の子じみている。


ノアイユ侯爵に父親としての自覚はない。愛のない結婚の結果のオルタンシアはともかく、おそらくはジャンヌに対しても可愛いお人形くらいにしか思っていない。その母エルザについてはいくらか情はあるようだが。


「大人みたいだ。あの女みたいだ。可愛くない……」


「それではお父様、わたくしが移る先の家のことを聞かせてくださいな。別邸ですの? 王都にほど近い?」


これまでも原作とのささいな齟齬はあった。メイドの名前が違っていたり、アルノーが茶会で花瓶を倒すエピソードが起きなかったり。だが大本のストーリーは小説の通りに進んでいる。


まさかやっと成立した第二王子と娘の婚約を白紙にすることはあるまい。それはこの先のノアイユ侯爵家の安泰を証明するものだから。


オルタンシアの存在価値は貴族と貴族の正式な結婚により生まれた青い血を持つ娘、というそれだけである。父親にとっても第二王子にとっても誰にとっても――キリアンにとっても。


(私は私の持てる価値全部を使ってここから逃げ出す)


そのあと家が没落しようが婚約者がジャンヌにすり替わろうが、知ったことではない。


オルタンシアはここが嫌いだ。前世の知識を思い出してから、ますます嫌いになった。きっと生まれる場所を間違えたのだ。


(私は私の選んだ場所に行く)


それが八歳の少女がやみくもに考えて目指した、今この時点での真実だった。


父は諦めたようにオルタンシアのこれからを教えてくれた。ノアイユ侯爵家がオルタンシアに求める教科書通りの未来とはつまりこうだった。


ここは少しばかり王宮に遠いから、もっと第二王子に近いところ、すなわち王宮の離宮に部屋を与えられる。もちろん婚約者としてではなく、侍女見習いとして。きちんと仕事もあるし、他の娘たちと区別はされない。そこでより一層質の高い教育を受けてもらう。父はそう言った。


八歳の娘を手放すことに対するなんの感情も見せなかったし、嘘でもいいから何かしら反応した方がいいという計算もないようだった。悪い意味での純粋無垢。彼はエルザとジャンヌと同じ人種なのだ。だからこそ、二人を選んだのだ。


オルタンシアはけちのつけようのない角度で父に頭を下げた。


「かしこまりました、お父様。オルタンシアはきちんと役目を果たして参りますわ」


父は眩しさをこらえるような顔をして、やっと納得がいったとばかりに頷く。


「そうか、お前もお前の母親も、何も考えてないんだな。言われたことを言われた通りにするだけの生き物なんだ。……そうか! だからお前たちは僕や、愛しい僕のエルザやジャンヌと違うんだな!」


満面の笑みで父は何度も頷いた。長年の疑問に答えが出たとはしゃいでいた。オルタンシアは微笑んでそれを見守る。救いようのない断裂がそこにあった。


六月十日、オルタンシアを乗せた馬車がノアイユ侯爵家を出発した。記録にはノアイユ侯爵家の一人娘が侍女見習いとして王宮に入った旨が残され、それが史実となった。


父とオルタンシアの今生の別れはそのようにして終わった。


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