第4話



侍女見習いといっても八歳の少女にできることは少ない。オルタンシアに任されたのは王の愛妾の相手だった。第二王子アルノーの母親である。若いというよりは幼い人で、人形よりも美しく愛らしい大きなトパーズ色の瞳が印象的だった。オルタンシアが話さなくてものべつまくなしに話し続け、彼女の部屋を退出する頃には耳がきいんとなるほどだった。


その日も愛妾の相手で昼下がりは潰れ、部屋に戻ってお妃教育を係から受ける。礼儀作法から他国の歴史、数学に魔法学までと内容は幅広い。


中庭に面した回廊は花の香りに満ちていた。日差しは熱く、早くも来たる夏を予感させる。溢れんばかりの花壇の花たちはよく手入れされ、まるで貴婦人のドレスのよう。人の手がなければ生きていけないところまでそっくりだ……。


冷たい絶望が湧いてくる。


(いや)


と、痛切に思った。


(早くキリアン様に会わなくては。早く、【王の塔】から彼が解放され、私がここから消え去れる日を一日でも早く!)


オルタンシアは悪役になどなりたくはない。人間の愛憎をはじめ、あらゆる感情から遠ざかって生きたい。そういうものが身近にあると考えるだけで吐きそうだ。


(静かな生活が、いい)


と思う。回廊の天井から床まで届く柱を回ったとき、目の前にぱっと人が飛び出てきた。オルタンシアは一礼して彼を先に通そうとする。


「何をしている? 俺だ。そのくらい見分けろ」


と言われて顔を上げた。キリアンは相変わらず子供のなりをしていた。銀の髪がサラサラと流れ、深緑の目は不機嫌そう。少し甘酸っぱい子供の汗のにおいがした。従僕見習いの丈の長いセーラー襟のシャツに短いズボン姿で、足首までのブーツはよく使いこまれ磨かれて茶色く光っている。


「本題だ。血を渡せ、オルタンシア」


「ここで、ですか?」


「ああ。あの程度の血では王の呪いを打ち破るにはまだ足りない。次だ」


「あの、いつ私はここから出られますか? そういう契約だったはずです」


ハッ、と彼は幼い美貌を歪めて酷薄に笑う。


「そうだったか? 俺は【王の塔】から出たい。お前は家から出たい。確かに互いにそう言い合ったな。だが俺が王宮を出るときにお前を連れていくとは一言も言っていないぞ。早とちりしたのだろう」


「そんな……っ」


オルタンシアは柳眉を逆立てたが、とたんに二人を繋ぐ細い見えない糸がギュウッと引き絞られ心臓を締め上げた。彼女がヒュウと息を吸い込むたび、ギリギリと締め上げてくる。


薄い紫色の目にいっぱいの涙を溜めて、オルタンシアはキリアンを睨み据えた。もし彼女がここで死んだら確実に怨霊になって、彼を呪い殺しそうな目だった。


キリアンはやれやれと首を振り魔法の束縛を解いた。ふっと息が楽になる。


「冗談だ。ふん。忌々しいことに、臣従の契約を交わした主従は近しいところにいなければならんのだ。千の奴隷を持った魔導王さえ、戦場に出て指揮を取らねば奴隷たちをうまく動かせなかった。だからこの契約は廃れたのだ。だのに、フン。俺にだけ残っている……」


「……ですから、手助けいたしますと申し上げております」


「まるで囚われの姫君のように悲壮な覚悟だ」


オルタンシアは顔を歪めたが、黙って彼に向けて白い左腕の内側を差し出した。キリアンはそこをナイフで切り、滴った血を前と同じ方法で丸にして空中にまとめると、ガラスの小瓶に慎重に注ぎ込む。


オルタンシアは人間が嫌いだ。王宮に入ってはっきりと自覚した。だがキリアンのことだけは、何故か嫌悪と切り離して考えることができた。彼が美しいからだろうか? それとも子供の風体だから? 理由はまだ見つけられなかった。


今も、痛いことをされているのに何も思わない。横顔の顎の線とほのかに赤味のさした頬のアンバランスさを可愛いと思うだけ。


「王の呪いは強力だ。俺を【王の塔】に縛り付けているのは亡き王の呪いだが、臣従の契約は代々の王どもが受け継いでいる。すべては俺の魔力と魔導を利用するために」


「戦争への備えのために。そして、また魔物が湧いたときのために……」


それは小説のヒロインであるジャンヌが大人になり、この国の王妃となってから起こることだ。戦争のない時代が終わりを告げ、歴史において大陸動乱と呼ばれる日々が始まる。各地の瘴気の穴から魔物が湧き、人が死ぬ時代が訪れるのだ。


そうなったらオルタンシアも知らぬ存ぜぬはできない。だがそれは今から二十年以上先の話である。


「そうだ。その前に逃げる。そうでなければ俺のすべては兵器として使い潰されるだろう」


「二十年です」


「なに?」


「魔物が湧くのは、瘴気の穴が開くのは二十年先の未来のことです、キリアン様」


キリアンの目に理解の色が浮かんだ。


「例の小説とやらか」


「はい。でもこの先の未来が全部、小説の通りに動くとは限りません」


オルタンシアはいたずらっぽく紫色の目を輝かせる。傷口の血は止まっていた。キリアンの親指がそこを撫でると、たちどころに塞がったのである。


「今のところは、取るに足らない子供たちの諍いが私の知っている通りに始まったというだけ。あなたが早く王宮から逃げることでもっと未来が変わるのかも。――その前に、私を連れて、」


「ああ、わかったわかった。駆け落ちを迫る女か、ガキのくせに! まったく」


キリアンはぐいっとオルタンシアの腕をひっぱり自分に引き寄せた。目の前に夏の森が広がった。豊かで危険に満ちた狩りのための森だ。清潔な布の石鹸の香りと甘酸っぱい汗のにおい、髪からは埃のにおいがした。彼は生きているのだ。夢でも呪いでもない。


「すぐにでも道を見つけておさらばしてやるさ、お前と一緒に。俺はキリアン・マルヴァル。今は滅んだマルヴァル家の跡取り息子で、天才魔導士だからな!」


「言質を取りましたよ。じゃ、改めて。よろしくお願いいたします」


オルタンシアはぐっと口を引き結び、彼に掴まれていない方の手を差し出す。キリアンはそれを握り、ぐっと強い力で握手した。


それから二人はそれこそ秘密の恋人たちのようにしばしば会って、オルタンシアの新鮮な血をキリアンは求め、オルタンシアはキリアンから王の様子や王宮のあちこちに散らばった秘密の話を聞いた。


王が泰平の世に飽きはじめ、また、いまだ始末できない忌々しい正妻を殺す理由を延々と考えていること。同じく疎ましい第一王子を邪険にすることに喜びさえ見出しはしめていること。


望めばあらゆる夢幻を見せてくれる手鏡が、城じゅうの衣装部屋を飛び回っては侍女を驚かせること。いにしえの王妃の影が映る窓。霧の出る日にだけ見える幻視の厩には羽根の生えた馬がいる――


彼はそれが嘘だとも本当だとも言わなかったので、オルタンシアは時に笑い転げ、時に胸を高鳴らせてそれらの話に聞き入った。王の精神が徐々に擦り切れていることには心配を抱いたが、王家の愛憎劇はノアイユ侯爵家のそれとはまた異なったもつれ方をしている。聞いたところでどうにもならないのだから、キリアンが面白そうにしているのに同調し、ゴシップとして楽しむのが正解だったのかもしれなかった。


「俺からの隷従の誓いがゆるんでいることも気づかず、あのバカめ。はははん。いいぞ、もっと女の間であたふたするがよい――と、そういえばアイツの愛人はどうだ? 少しは脳味噌が増えたか?」


「そんな言い方は……いえ、まあ、そういう方ですものね」


中庭の噴水の影に子供二人で座り込み、建物の窓からも通路からも見えないことを確認してからキリアンが結界を張る。最近の密会はいつもこのやり方だった。結界があると認識していても、王家に対するずけずけとした彼のもの言いにはつい驚いてしまう。オルタンシアはどこまでいっても貴族令嬢なのだ。


「この前はドレスの出来が注文と違うといってお泣きになりましたわ。その間は鼠が出てきたのに悲鳴をお上げになり、卒倒なさいました」


「お前に何か話すか? 王の意図に関することや息子についてなど。お前は息子の婚約者という触れ込みだろうに」


「いいえ、何も。ドレスの装飾や髪飾りのことばかりです」


アルノーの母親と話すたび、オルタンシアは思うのだ。自分も一歩間違えばああなっていたのかもしれないと。何一つ自分で決められず、そのくせ男の欲望にだけは敏感で従順で、どこまでも尽くしてしまう女。原作のオルタンシアはアルノーに恋して、まさしくその母親に似てしまったのではないか?


人間とは情けないものだと思う。あんな人を作り出してしまうなんて。そして彼女に何もしてやれない自分もまた、汚くて薄情で侮蔑されるべき存在に思えてしまうのだった。


「気にするな。お前はああはならん」


「え?」


「たとえ王に気に入られ愛人にされても、お前はああいう女にはならんよ。仮にそうなったとしても俺が救い上げてやろう。俺の奴隷だからな」


オルタンシアは一瞬、戸惑い、カアッと顔を赤らめた。


「もし、そんなことになったら……お願いしますわ」


結界の中にキリアンの忍び笑いが反響する。オルタンシアは抱えた膝に顔を埋めた。


助けてくれるのだ、と思ってものすごく嬉しかった。それをキリアンに悟られていなければいい、と思った。


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