第2話


四月。恐れていた対面は簡単にすんだ。


「はじめまして、奥様。お会いできて光栄です」


とオルタンシアは微笑み、スカートの裾をつまむカーテシーをする。


「まあぁ、なんて可愛らしいお嬢さんかしら!」


応えてジャンヌの母親もぎくしゃくと付け焼き刃のお辞儀をした。値踏みする目つきを隠しもせずに。


濃いセピア色の波打つロングヘア。深いエメラルドグリーンの瞳。優雅な曲線を描く女性らしい体つき。そして流行の擬人化のようなファッションセンス。エルザ・ピコリ(そういえばそんな名前だった)、父の愛人は可愛らしい女性だった。


そのスカートの裾に隠れてもじもじする子供がいる。これが、ヒロイン。ジャンヌ・ピコリ。


オルタンシアは異母妹の蒼い目をそっと見つめ、にっこりした。


「はじめまして、オルタンシアよ」


「ほらっ。ジャンヌ、おねえさまに挨拶なさい」


「ぃやっ!」


父が手を叩いて笑った。


「なんて愛らしいんだ。私の娘たちは完璧だな!」


「まあぁ、アナタ、あたくしったら恥ずかしいわあ。オルタンシアさまに比べてジャンヌの引っ込み思案なことったら!」


「なあに、可愛いじゃないか。ジャンヌの奥ゆかしさはお前そっくりだ」


んちゅう。二人は子供の前にも関わらず情熱的に口づけ合った。オルタンシアは内心、肩をすくめた。


父、ノアイユ侯爵とジャンヌは瓜二つといっていいほど似ていた。金髪で、オルタンシアとは違った流れのウェーブがかった髪。ノアイユ侯爵家の証である蒼い目。


四人一緒に並べば母親似のオルタンシアが婚外子であり、ジャンヌこそが正嫡子であると誤解されても仕方ないほどだ。


ジャンヌはゴテゴテと溢れんばかりのレースに飾り立てたドレスを着ていた。子供ながらベルトで腰をしめて、あれでは食事のときに苦しいだろう。小さな靴にもレース飾りがついて、帽子もフリフリだ。よく見ればあちこちに、目の色と同じサファイアが差し込まれていた。まるで生きて動く財産保管庫だ、とオルタンシアは思った。


いちゃいちゃと二人の世界に籠る大人たちの足元でオルタンシアがそうしたように、ジャンヌの方もオルタンシアを観察していたらしい。異母姉のすとんと下に落ちるラインの緑の縞模様のスカート、襟元と裾と袖についた大きいがゆるめのフリル、そして髪を後ろで束ねて額を出した子供らしい髪型。一通り上から下まで見終えたジャンヌは、オルタンシアを見てヘッと笑った。子供らしい純粋無垢な、それは嘲笑だった。


(なるほどねえ)


これなら原作のオルタンシアがジャンヌを目の仇にしたのも仕方ないだろう。ジャンヌはあまりにも……あまりにも、母親似だ。長年の情人でありこれから夫となるノアイユ侯爵を抱き締めて離さない平民女は、自分の行動がオルタンシアに与える影響力を計るように横目で彼女を見つめている。やれやれ。


「ねえオルタンシア。あたしたち、仲良くしたいわ。仲良くしましょ!」


カン高い鈴を鳴らすような声で言って、ジャンヌは母親のスカート影から躍り出た。拒否されるとは思ってもいない口ぶりだった。おお、と父は感嘆の声をあげ、期待を込めた目でオルタンシアを見る。


さて――父と愛人が考えるオルタンシアの選択肢は二つあった。異母妹をはねのけるか、受け入れるか。オルタンシアはどちらも選ばなかった。


「ありがとう。ぜひそうしましょうね」


と答え、実際は目いっぱいの勉強や乗馬やダンスの練習の予定によって、ジャンヌの相手をしなかったのである。ジャンヌは勉強室の扉を叩き、音楽室の前でだだをこねたけれど、オルタンシアも教師も相手にしなかった。


父もエルザもへらへらと自分たちの世界に浸っており、子供には頓着しない。ジャンヌが金切り声で叫び散らす声が邪魔といえば邪魔だが、それだけである。


オルタンシアは自分のためになることならなんでもするつもりだった。そして日付は六月に入り、王宮から王子主催のお茶会の招待状が来た。原作にもあった描写だった。ここでオルタンシアは第二王子アルノーに惚れるのだ。


王宮へ赴くためにノアイユ侯爵家の家紋を付けた馬車が手配された。オルタンシアは着飾ってそれに乗り込んだ。


「――オルタンシアぁぁ!」


声は鋭く高く、幼かった。振り返るとジャンヌがこぶしを握り締めて仁王立ちしていた。お付きのメイドが後ろで欠伸をこらえている。オルタンシアは姉ぶって首を傾げた。


「どうしたの、ジャンヌ」


「あたし、あたしも行きたい! 王子様のお茶会、あたしも行くんだもん!」


「もう少し大きくなったら、きっと呼んでいただけますよ。ジャンヌはいい子だものね」


穏やかに言ったオルタンシアを見る、ジャンヌの、目! 六歳にしてもう女の目だった。この子は母親と同じ夢を同じベッドで見て、そしてそれがすべて叶うと夢想しているのかもしれない。


オルタンシアは馬車の壁をコンとノックする。


「出して」


そうして四頭立てのノアイユ侯爵家の馬車は王宮へ向かって走り出した。ジャンヌのこぼれそうに大きな青い目がいつまでも追ってくるような気がした。


一抹の憐れみが生まれ、すぐに去った。ジャンヌの性質は生まれつきだ、オルタンシアに矯正してやれるものでもなければその義理もない。それにヒロインたるジャンヌにはこれから薔薇色の学園編が待っているのである。その次はバンバンメインキャラが死にまくる戦争編だが、愛があれば乗り越えられるだろう。


「私あの小説大好きだったはずなんだけど、実際に体験するとなるとやっぱり見方も変わるわよねえ……」


とオルタンシアは一人、呟く。車輪の音に紛れ、誰にも拾われない呟きだった。


豪奢な王宮の大門を馬車は走り抜け、いざ入った本宮の階をオルタンシアは徒歩で越え、回廊を渡り、女性の武装侍従に身体検査をされたのち、第二王子の離宮に入った。あとは勝手知ったるなんとやらである。中庭にテーブルセットがいくつか用意され、早くもお菓子とお茶が並べられている。


「まあ、オルタンシアさま。お久しゅうございますわ」


と近寄ってくる子爵令嬢。オルタンシアはスカートの裾を持ち上げる。


「ペトラさまにおかれましてはご機嫌うるわしゅう……」


次々と子供たちが到着した。上位貴族の子息子女たち、それも第二王子に招待状をもらえる子供の数はさほど多くない。多くないということは大抵が顔見知りであるということだ。


オルタンシアも一人前に挨拶回りである。いずれ自分から捨てるつもりの人間関係でも、恨みを買っていいことはひとつもない。


ここにいる面々はいずれ大人になり、国政を左右する議員や大臣や商会会長や貴婦人になる。それは皆、わかっていることだ。大人の社交界を模したようなお茶会からステップアップして、どんどん狡猾に歯に衣着せることを覚えていく。


今はまだ、放っておいたら取っ組み合いが起きるような平和な子供の社交場である。


オルタンシアは首尾よく第二王子アルノーの隣を占領することができた。時間はあまりない。ほどほどのところで別の令息か令嬢に席を譲らなければ、陰口を叩かれてしまう。


「王子殿下は【王の塔】にお入りになったことはおありですの?」


無邪気に聞こえるよう弾んだ声でオルタンシアは言った。なんでもないことのように。アルノーは大人のように眉をひそめて、


「どうしてそんなことを聞くの?」


「お気に触ったなら謝りますわ。気になったものですから。あの塔には大昔の恐ろしい魔導士が封印されているのですって?」


「オルタンシア!」


彼は息を呑んだ。


「それは――口にしてはならないことだよ。【王の塔】のことなど、子供が口にするものじゃない!」


「まるで大人のようなことをおっしゃるのね、殿下ったら」


彼は子供の顔にごく純粋な心配の表情を張りつけた。


「あそこは呪われていて、誰も立ち入りできないんだよ。近づくだけでも危ないよ」


「わかっておりますわ。でも、ワクワクいたしませんこと? 王宮にそびえる禁じられた塔だなんて!」


とオルタンシアはにこりと笑い、アルノーは苦笑いというには戸惑いが強い。彼と話したそうにする令嬢がチラチラ視界に映るので、オルタンシアはその場を彼女に譲った。


王子の傍を離れたオルタンシアは中庭の低木に近寄った。どこかの家の警備兵らしい男ににっこり愛想を振りまき、疲れちゃった、と大仰に呟いて木立のなかに入っていく。ある程度人目に付きにくい整備された木々の並びの中で、熱くなった頬を仰ぐようにハンカチをぱたぱたさせた。頬が熱いのはほんとう。ハンカチは半分、演技。


それで思った以上の成果があったのは、上々だったといえよう。正直、一年くらい似たようなことを繰り返すことも覚悟していた。


「妙な魂だな。本当に貴族の子供か、これが?」


と彼の声が後ろからした。細く枝を落とされた白い木の幹の向こう、ごく近くで。オルタンシアは振り返った。くすりと彼は笑った。


雪のような銀色の髪。まろい頬と小さな唇はどちらもほのかに赤い。ぱっちりした目には深い夏の森の緑色の瞳が嵌り、幹にもたれる仕草は大人びている。貴族令息らしいパリッと糊の効いたシャツと半ズボンにサスペンダー。彼はまるで動く人形のように綺麗だった。


オルタンシアは頬がひきつらせた。この国では金髪や銀髪、色素の薄い髪がもてはやされる。母譲りのくるくるの黒髪を長く伸ばして垂らしたオルタンシアの幼い美意識は、あまりに美しい彼に気遅れしたのだった。


「ん? どうした。何故何も言わん。わざわざあんなことを言って俺を誘い出したくせに、黙るのは卑怯ではないか?」


こてんと彼――キリアン・マルヴァルは首を傾げる。シャツの襟から覗く斜めになった首の線すら蠱惑的だった。


オルタンシアは目をつむった。開けるまでのわずかな時間で必死に心を制御した。何度もシミュレートした交渉を始めるのだ。


王宮の北にひっそりと隠された【王の塔】は、かつて罪人を閉じ込める牢だった。時代が流れ、王都のはずれに悪名高い処刑場が建設されるまで、有罪冤罪問わずあまたの人間の嘆きが染みついた。そして今は一人の魔導士を縛り付けるための牢獄として使われている。


第二王子アルノーに【王の塔】の話なんてすれば、王家に叛意ありと断定されてもおかしくはない。【王の塔】の詳細情報は開示されておらず、その中に魔導士が閉じ込められているだなんて話は、それこそ成人した王族しか知らないことになっているのだから。


思惑は当たり、そして当然のようにキリアンを引き摺り出すことに成功した。あとはこの状況をどう持っていくかである。


「初めまして。わたくしはオルタンシア。オルタンシア・フォール・ノアイユ。ノアイユ侯爵家の者ですわ。あなたはどなた?」


「まだるっこしい駆け引きなどするんじゃない、ガキのくせに。フン。これだから貴族ってやつは……」


キリアンがぱちりとまだふくふくした指を鳴らすと、周りから風の音が消え静寂が訪れた。自分の心臓の音さえ聞こえるほどのまったくの無音だ。防音の結界魔法が発動したのだった。


オルタンシアは深呼吸をした。胸はどきどき高鳴っている。もちろん、恋とは無縁の理由で。


「そもそも子供が【王の塔】の名を知っていること自体がおかしいのさ。さ、話してもらおうか。俺を挑発したわけはなんだ? 言え。そして【王の塔】の話が俺をおびき出す理由になると知ったわけもな。嘘はつかない方がいい。俺の雷は痛いぞ」


この段階になってようやくオルタンシアは、もといオルタンシアと一体になった日本人女性は観念したといっていい。彼女はごくりと生唾を飲み込む。


「キリアン様」


「ほう、俺の名を?」


「はい知っています」


そしておずおずと話し始めた。


「信じていただけるかわかりませんが――」


自分の中にある前世の知識。これから自分がどうなるのかという話まで。たどたどしく、長い話だった。キリアンは怜悧な美貌を無表情に固まらせながら話を聞き、ときどき合いの手を入れた。


「ふむゥ……」


「信じてもらうしか、ないんです。私はこのどうしようもない状況から抜け出すすべをあなたしか知りません。――だって私、学園編の終わりに断罪されて死ぬ運命なんですもの!」


「まずその運命とやらがな。この世界があらかじめ仕組まれた物語の通りに動いている、ねえ。ハ。陰謀に首まで浸りきったじじいならまだしも、この俺がそれを信じると思うのか?」


彼の表情から内心は読み取れなかった。オルタンシアは泣きそうになりながら両足を踏ん張った。


キリアン・マルヴァルは【王の塔】に百年に渡り軟禁されている魔導士だ。百年前の王に呪われ、姿は少年の姿のまま。愛らしい見た目と異なり、その中身は皮肉屋で貴族嫌い、そして有能。百年、へたをすればもっと年を経た男である。


彼は王家との臣従の誓いにより、王の子供たちを守ることを矯正させられている。本来ならその守護の対象は王太子エドゥアールであるはずだが、複雑な事情により第二王子アルノーが守られているのが現状である。そう、オルタンシアのように王子に余計なことを吹き込む存在が現れれば調査し、王に報告する義務がキリアンにはある。


「その、隷従契約。私なら解いてさしあげられます」


オルタンシアはキリアンの喉元を指さした。今はシャツの襟に隠れて見えない、鎖骨の間。そこには消えない王家の紋章が刻印されているはずだ。彼にとっては屈辱の証が。


「いいえ、私なら、ではなく正確には私を使って。私の血をあなたのそこに塗り込めば、現在あなたを監視している王宮魔導士たちへの目くらましになる。そしてゆくゆくは百年前の魔導王の呪いすら打ち破ることも、決して不可能ではないのではありませんか?」


「――どうやら、お前のいう小説とやらは確かにあるのかもしれんな。それは貴族のガキが知っていい情報ではない」


打って変わって冷徹な声だった。あ、と思ったときにはすでにオルタンシアは喉を掴まれていた。自分のそれとほとんど大きさも柔らかさも変わらないキリアンの手が、はっしと喉を包む。力はぜんぜん入っていない。けれど急所を掴まれた動物的な反応が、背中に冷たい汗を滴らせる。


「なるほど、正統な貴族の血筋、か。それは劇薬だ、魔導士という生き物にとっては。結界を解けばこの会話も王の犬どもの知るところになるが、血があれば……目くらましになる」


「はい。そうだと知ってるのです、私は。だから申し上げています、キリアン様。あなたをここから解放する手助けをいたします。その代わり、ここを出るときは私も連れて行ってください」


祈りのような声だった。オルタンシアはひたむきにキリアンを見つめた。この道しかないのだと信じ込んでいたし、事実、これ以上にオルタンシアがノアイユ侯爵家を逃げ出す方法はありそうになかった。こんな荒唐無稽な方法しか。


「ふむ。度胸だけは一流だな。だがどうするのだ? 俺がこの旨を包み隠さず王サマに申し上げ、ノアイユ侯爵家は危ないですよと告げ口するとは思わなかったのか」


「そんなの――」


オルタンシアはこんな状況なのにへへっと笑った。笑える自分に驚き、それ以上にキリアンも驚いたらしいのが接触する手が跳ねたのでわかった。


「あなたがするわけない。王家を誰より憎んでいるんだもの」


キリアンの手が放された。どさり、オルタンシアは土の上に膝をつく。そのままぜいぜい肩で息をした。


「貴族の、天使を始祖にもつ者たちの血とて万能ではない」


独白のようなキリアンの声が降ってくる。


「だが俺が喉から手が出るほど欲しい『素材』であることもまた事実。大天使の子孫である王家の呪いに対抗するには、やはり天使の血を引く者の血が一番効力を持つのだから。だが残念。もしやご令嬢、血を差し出せばどうなるか、小説とやらには書いていなかったのか?」


おそらくキリアンはとっておきの情報を切り札のように出すつもりだったのだろう。これを言えばさすがに、箱入りの侯爵令嬢なら怖気づくはずであると踏んで。当たり前のことだ。それがこの世界の常識だ。だがオルタンシアの中にはこの世界ではない世界の人生の記憶がある。四十間近。おばちゃん舐めるんじゃないわよ。


彼女はせいぜい不敬に見えるようにやっと笑って彼を見上げた。


「知ってるわよ。あなたの奴隷になるんでしょ?」


虚を突かれたふうのキリアンに、立ち上がる気力もない汗みずくでも笑いかけ続ける。


「血を介した臣従の契約。あなたにかけられているのと同じ呪いが私とあなたを繋ぐわ。でも私、そんなことなんとも思わない。あの家であんな女たちと食卓を一緒にすること自体が私への侮辱だわ。阿呆に成り下がった父親を見ることもね。――この状況から脱出できるなら、なんだってしてやるわよ。あなたの元で血袋になることだって構いやしない。矜持を傷つけられた女の執念深さを知らないだなんて、百年も生きた男にしてはそれこそ残念ね!」


キリアンは目元を抑えて笑い出した。まずは小さく、それからだんだん大きく。アハハハハ、と子供らしいきゃらきゃらした笑いが結界内部に反響する。


彼はしゃがみこみ、見守るオルタンシアに、そのぎらぎらと輝く森の瞳が近づいてくる。


「いいだろう。賭けに乗ってやる」


地獄の底から響くような低い声。おそらくは彼の地声だ。


「お前は俺に血を差し出し、俺はその代償にお前の生殺与奪に責任を負うというわけだ。交渉成立だ。血を寄越せ、オルタンシア!」


オルタンシアは右手を彼に差し出した。すべての運命を預けるような覚悟が必要だったが、躊躇はなかった。


そのときはまだ、王の法の庇護を受けない貴族の女を匿うのにキリアンがどれほどの負担を強いられるのかなんてことは知らなかった。それは外伝の三巻で明かされた情報なのだが、彼女は三巻が刊行されたころには死んでいたので。


オルタンシアは何も知らないままにキリアンを選び、キリアンは彼女を選択ごと受け入れた。運命が決定的に書き換えられ、二人の知らないところで大陸の歴史さえ変わった。もっとも、彼らがそれを悟るのはもっとずっとあとになってからのことだ。


オルタンシアの右手の手のひらに、キリアンはどこからか取り出した短剣で細く長い傷をつけた。ぷっくり浮かんだ赤い血の上で彼は手をふわふわと動かし、血液はそれに惹かれるように空中に浮かび上がる。ぴりぴりした痛みがオルタンシアにこれが現実だと知らしめた。


「俺はこれを飲む」


「ええ」


「そして俺とお前の魂は結ばれるのだ。どちらかが死ぬまで途切れることのない主従契約に。いいんだな? 覚悟はあると見做しても。逃げるならこれが最後だぞ」


オルタンシアは胸の前で両手を組み合わせた。


「逃げないわ。決して。あの家にいるよりは、これから辿るかもしれない運命よりは、あなたの奴隷の方がいい!」


キリアンの夏の森の色の瞳がぴかぴか輝いた。結界の向こうで子供たちの社交界が繰り広げられ、騎士と衛兵がそれを守り、侍女たちが忙しく立ち働く。何の気配も感じない。オルタンシアにはキリアンしか見えない。


彼は頷き、丸い円となったオルタンシアの血をぱくりと一呑みにした。どくん、と心臓が痛む。オルタンシアは胸元のリボンを握りしめて耐えた。


目に見えない無数の糸がざわざわと彼と彼女の間を結び、皮膚と骨と肉の間、そして魂と精神の間に複雑に絡みつく。編み合わされ複雑なレース飾りになった糸が二度とほどけないように、二人の間に絆が結ばれる。


キリアンの肉体の中に入ったオルタンシアの貴族の血が、天使の末裔の血が、百年前の王の呪いを少しだけ弱めた、感覚がした。たわんだ呪いの隙間にすみやかに臣従の契約が入り込み、オルタンシアへと結ばれる。


「これでひとまず王の目はくらませる」


と彼は言った。らしくなく肩で息をする美貌の少年は、それでも不敵に笑う。


「思ったより天使の血が濃いな。これなら俺が王宮から出られるのももうじきだろう。――感謝するぞ、小娘」


「……これで、契約成立?」


「そうだ。さあ立て。そろそろ茶会も解散だろう。行かなければ怪しまれるぞ」


「む、無理、肺が痛くて、」


ぜえぜえ息をするオルタンシアにキリアンはちっと舌打ちすると、小さく何かを唱えながら彼女の前髪に触れた。黒髪から額へと温かさが流れ込むような気がして、荒い呼吸と痛みが落ち着き、オルタンシアははっと顔を上げる。


「主とは奴隷の体調に責任を持つものだ。……まったく。もう行けるな?」


オルタンシアはがくがく頷いた。


「ならば、行け。呪いは完全に解けたわけではない。また血を受け取りにいく」


キリアンはにやっと獣のように笑う。


「せいぜいそれまで死ぬなよ、小娘!」


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