逃亡令嬢の魔法人形店

重田いの

第1話



オルタンシア・フォール・ノアイユがその記憶に気づいたのは八歳のときだ。


「はじめまして、御意を得ます王子殿下。オルタンシアでございます」


「はじめまして、オルタンシア嬢。第二王子のアルノーです。モリニエール城へようこそ。よろしければ庭を案内いたしましょう」


という、周囲の大人たちがほっと顔を見合わせるお手本のような挨拶を、第二王子と交わしたときから。


ノアイユ侯爵家は血筋こそ別だが永らく王家に仕えてきた一族で、父は宰相である。引き合わされた両家の子供たちは親の意図をよくわかっていた。


将来は婚約者、ゆくゆくは王子妃に……とひそかな声がするのを、オルタンシアも耳に挟んでいた。そのときには大人にみだりに質問してはならないという躾を受けていたから、詳しいことまで知らなかったけれど。


自分は侯爵家の令嬢であり、将来はこの庭の花を一緒に覗き込んだ男の子の妻となって一緒に歩んでいくのだと、なんとなく自覚した。それから、ぐらりと視界が回った。


なんてテンプレ。ぶっ倒れたオルタンシアは目覚めると、その頭には前世の記憶がインストールされていた。


それから大熱を出して一週間、寝込み、寝込んでいる間にどうやらアップデートもすんだらしい。オルタンシアはいくつかの記憶と認識を当然のものとして受け取った。


ここが前世、日本で読んだ小説の世界であること。主人公はこれから侯爵家にやってくる父がメイドに産ませた私生児の女の子であり、オルタンシアは異母妹を妬んでくだらない嫌がらせする幼年期編の敵役なこと。


次に始まる学園編でオルタンシアはとうとう異母妹の命を狙い、それを婚約者の第二王子はじめとするイケメンたちに断罪されること。


「……こんな損な役回りってあるぅ?」


と情けない声を出した。周りの侍女やメイドたちが慌てふためき、お姫様がうわごとを! 早く医療魔導士を呼んで! とぱたぱた走り回る。


心配させてごめん、と思った。オルタンシアは侯爵家のみんなに大切にされてきた。一番最初の子供。死んだ正妻の子供。唯一の忘れ形見。


「うえーん」


と嘆いてオルタンシアは再び卒倒した。熱は下がってはぶり返し、返しては高くなり低くなった。まったくもって、うえーん。としかいいようのない状況だった。


さて、なんとか起き上がれるようになったオルタンシアは状況を整理する。


結界魔法で温度を調整された庭に、涼しい風が吹き渡る。外界に出ればこの風は身を切る冷たさとなってオルタンシアなど凍えてしまうだろう。


池の庭に映る女の子はふわふわの猫っ毛の黒髪、ぱっちりした薄紫色の瞳、それから締め付けの少ない白色の子供用ドレス。肩に羽織るショールと髪を結ぶリボンが目に合わせた紫色。貴族らしい整った顔立ちだと思う。けれどそれ以上の感慨はなかった。お人形さんみたい、以上に思うところがないのだ。おそらくはオルタンシアにまだ、自我らしい自我がないから。


ここに来たのは医療魔術師のすすめで落ちた体力を回復するため侯爵家の庭を散歩するためだ。お付きのメイドを追い払い、オルタンシアは小さな東屋があるのでその壁に隠れた。コンパクトな手帳を懐から取り出して、子供用の万年筆でカリカリ書いていく。


だいたいの己の末路は自覚した。学園編で断罪されるのはオルタンシアが十八歳、異母妹である主人公ジャンヌ・ピコリが十六歳のときである。まだ時間はある。それまで逃げ道を見つけなければならない。


原作の小説というのは『光の少女と黒の王』という、前世の日本人女性が十代だった頃に爆発的に流行った少女向け小説なのだが、今にして思うとまあヒロインに都合のいい展開ばっかり起きたな、という印象だ。当時は楽しかったしドラマCDもアニメもウキウキで視聴したが、今、通算精神年齢四十近い状況になってはちょっとご都合主義がすぎる。しかも自分がオルタンシアなんて。


光の少女はもちろんヒロインのジャンヌのこと。黒の王とはこの国の王太子エドゥアール、第二王子アルノーの兄のことである。正妻の子でありながら父に疎まれたエドゥアールと、天真爛漫な愛人の母と優しい父に愛情たっぷりに育まれたジャンヌが出会い、悪者を蹴散らして幸せになるというストーリーだ。


幼年期編でのオルタンシアは、すごく典型的ないじめっ子キャラクターだ。世界ナンタラ劇場並みにあらゆるいじめをジャンヌに行う。ジャンヌは健気にもそれを恨むことなく美しい少女に成長し、貴族魔法学園でみごとエドゥアール王子の心を射止めるのだ。


「……よしっ」


オルタンシアは手帳にまず大きくこう書いた。


――ジャンヌをいじめない。


小説で書かれていたようなねちっこいいじめはそもそも自分には無理だと思う。そりゃあ八歳のオルタンシアが六歳のジャンヌをほら、いもうとだよと出されたら憎むだろうが、今の彼女は精神年齢も高いし小説の内容も知っている。父であるノアイユ侯爵がどれほどどうしようもないオッサンかも知っている。命がけで生んでくれた母親には悪いが、どことなく、他人事のような気持ちさえあった。


「私がうまくやれば……ジャンヌをいじめず、アルノー王子と仲良くして、エドゥアール王太子ともそつなくやっていればされなくてすむ?」


その旨を書きつけ、不明、と書く。不確定な未来だ。小説通りに現実が動くかもわからない。けれど。


「人生をかけた大博打を打つ気にはなれないわね……」


と思うし、何より幼年期編の暗ぁいいじめ描写とその中で燦然と輝くヒロインの美貌とまっすぐな性根! みたいのをいざ目前にしたらウゲェとなってしまいそうだ。


さやさやと風が前髪を撫でる。東屋は大理石づくりで、全体的にひんやりと冷たい。今は二月下旬。暦は地球と同じ十二か月だから、もうすぐ春。いや、陽気だけでいえばもう春そのものと言っていいくらい。


オルタンシアは手帳に書きつける。


――来年の春、四月、ジャンヌたちが侯爵家にやってくる。


そして眉を寄せ、いやいやながら続きを書く。


――この家はジャンヌの母親の天下となる。


彼女がオルタンシアの母親の肖像画を大広間から取り外したのをきっかけに、オルタンシアのジャンヌいじめは加速していく。庭の池に突き落としたり、学習用具を壊したり、食事にゴミを入れたり。ジャンヌは母親に泣きつくけれど、彼女は贅沢に夢中でおねえさまと仲良くねと笑うばかり。子供と大人の社会は残酷なまでに断絶していた。


父親は愛人に『貴族社会に馴染めない繊細なボク』を癒してもらうのに夢中で、子供たちの確執に気づかない。と書かれていたけれど――たぶんめんどくさくて放置したんだろうなあ、と思う。父はそういう男である。


ジャンヌの母親は身分が平民なので正妻にはなれない。しかも正妻の仕事もせず、アクセサリーやドレスを山ほど買って侯爵家の財産を食い潰すのだ。オルタンシアの鬱憤ときたらとんでもない。


「そんな人生はいや。冗談じゃないわ」


原作のオルタンシアにとって、第二王子アルノーは心の支えだった。けれど学園編ではその彼さえジャンヌに味方する。孤立無援になったオルタンシアは学園を追放され、田舎の領地に追いやられ、トボトボあぜ道を歩いているときに川に落ちて溺れ死ぬ。父の暗殺者にやられたのかも、とファンブックでは語られていた。


「ドロドロ愛憎劇に巻き込まれるのはごめんだし、若くして死ぬのもいやよ。憎しみに心を食い潰されるのもいや」


オルタンシアは細いペン先をノートに叩きつける。


――私はこの家から逃げる。


――この家も父親も、ジャンヌと母親にくれてやれる。


イケメンいっぱい愛され学園生活に興味はない。愛憎劇に巻き込まれたくないのだ。


前世ではとくに誰とも深く関わり合いになることはなかった。両親ともきょうだいともなんとなく疎遠になって、友達も転居や相手の結婚で距離が開き、そのうち一人、職場と家とスーパーを行き来するだけの日々。それでも図書館で本を借りたり、SNSでそれについて語ったり、けっこう充実していたと思う。


それでよかった。それがよかった。寂しい人と嗤われることもあった。気にならなかった。彼女にとって人生は輝きに満ちていた。病気で早死にしても未練はなかった、はずだ。結果としてこうしてオルタンシアに転生したわけだから、実際のところは違ったのかもしれないけれど。


今の自分が『誰』なのか、オルタンシアにはもうわからない。八歳のオルタンシアが異なる世界に生きた人間の記憶を継承したのか。オルタンシアの幼い自我が前世の女性の記憶に飲み込まれてしまったのか。ただひとつだけ、確かなことがある。


「私は悪役令嬢にはならないわ」


一人、頷いた。ペンは走る。オルタンシアの薄紫の目は不穏な真剣さに剣呑にを帯びる。


――【王の塔】に囚われた魔導士を探す。百年前の王の呪いで男の子の姿のままの闇の魔導士。外伝の主人公。魔導士キリアン。


――キリアンと契約して、この家から助けてもらう。対価は私の血と、臣従の契約。


貴族の血は特殊な魔法の素材になる。この国、フランロナ王国の王侯貴族の家々は、すべて始祖に天使を持つとされる。また実際に魔導的に特別な効力を持つのだ。純血貴族のオルタンシアなら猶更である。キリアンはこれを欲しがるはずだ。


臣従の契約とはその名の通り、魔導士に忠誠を誓いその配下となるための契約である。血と魂に刻まれる、決して背くことは許されない契約だ。隷属といってもいい。古くから魔導士たちは自分自身のため、主である王侯貴族のためにこの契約を用い、魔物や人間を使役した。歴史には万を超える人間と契約を結び、決して斃れない無敵の軍勢を指揮した魔導士もいたのだという。


危険な賭けだ。ただ、オルタンシアはキリアンの事情を知っている。小説に書かれていた範囲内だが、間違ってはいないはず。知識をフル活用して交渉するのだ。失敗は許されない。


オルタンシアはきりりと細い眉を吊り上げ、鬼気迫る勢いで手帳に最後の一文を書く。


――やるしかない!


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