百四十二話 祈りよ、すべての束縛から自由であれ

 霧と幻影の中で今、私にできることは祈ることだけだった。

 選択肢が他にないということは、ひどく不自由なことのように思う。


「うーぁ、あうーぁ、おー、ぇえーお」


 しかし、けれど、そうであっても。

 私は、祈りたくて祈っている。

 義務感でなく。

 やむにやまれぬ状況で、やけっぱちになっているわけでもなく。

 自然に、自分から望んで祈る。

 むしろどこか楽しむ気持ちで、昇る朝日を待ち、願うのだ。

 うろたえていた想雲(そううん)くんも、じきに私の横に並んで座り、祈り始める。

 

「天に照る大いなる神よ。地に伏すこの小さき子らに、どうかご慈悲を与え給え。進むべきしるべを指し示し給え」


 謙虚で誠実な祝詞が、想雲くんらしいなと私は思った。

 ちゃんと古式ゆかしく礼に則り、天には地、大には小と対句を用いて神さまを讃えている。

 しっかり勉強してるんだねえ、偉いじゃないか。


「ああ、うううう、あーい、えうううう」


 拝跪、そして唱(しょう)を繰り返していると、いつしか涙が流れてきた。

 漣(れん)さまを妃として高い位に就かせるために、陰に日向に策を弄し続けた姜(きょう)さん。

 その気持ちを受け止めず、勝手な判断で姜さんや皇帝陛下さえも裏切ってしまっている漣さま。

 二人の罪悪感が、今こうして首のない死体たちの姿を形成し、私たちの行く手を阻んでいる。

 別に、私たちをどうこうしようというわけではなく。

 ただ単に、現状を維持したいと強く願う塀(へい)貴妃の心、他者を戒め束縛する呪力と、強力に結びついてしまったのだろう。

 現状を変えようとする私たちに対して、歩みを止めて欲しいと願う人たち。

 彼らの思いが、霧の中に結界を作ったのだ。

 私の身体を縛ることができないなら、閉じ込めてしまえばいいという発想だね。

 けれど私の両目から流れる雫は、決して彼ら彼女らへの同情、憐憫などではないし、物言わぬ幻影たちに行く手を阻まれている悔しさからでもない。


「ぁあー、はーぁ、うおぉー、あーん」


 一生懸命に声を出して祈ることが、気持ち良いのだ。

 全身の細胞が歓喜に踊り、温度を高く上げている。

 無意識にそこから溢れ出す涙の、なんと清々しいことか。

 漣さまってば、毎日こんな快感に身を委ねてたのかよ、けしからんなあ。

 これは、クセになるかもしれん。


「東の果てより天と空に高く昇られる大神よ。その暖かき光明に小さき子らが深く篤く敬拝いたします。どうかどうかお受けいただきますよう」


 霧の中に包まれていても、わけのわからない幻影に取り囲まれていても、罪悪感にさいなまれていても。

 なにがどうなろうと、日はまた昇る。

 それがどれだけありがたいことだろうか、喜ばしいことだろうか。

 私は幸福に涙し、ただただ感謝を捧げ尽くす。

 自分たちを救ってほしいだとか、邪魔な亡霊を打ち払って欲しいだとか、そんな他意は一切なく。

 ただそこにある、いつも変わらぬ世界の営みへと、素直に首(こうべ)を垂れるのみ。


「ぼ、亡霊たちが……」


 私の肩に手を置いている想雲くんが、驚きの声を小さく呟く。

 今までじっと私たちの方を向いて、見張るような構えを続けていた首なし亡者や私の関係者が、みんな揃って東の方に向き直っている。

 霧が薄まり、周囲がぼんやりとした光に包まれて行く。

 朝日が昇る瞬間は、風景が金銀の色と輝きに染まると、なにかの映画で見た気がする。

 まさにそのように辺り一面が、白銀色に染まって輝いていた。

 目に見えるものすべてが、来光に祝福されているかのように。

 すべての罪と後悔を消し去ってくれるかのような強く優しい光に、あらゆるものが包まれていた。

 ぴかぴか、きらきら、しゃららんと、音が立ちそうなほどに、光の粒と波が楽しげに踊り散っていた。


「綺麗……」


 するべきこと、目の前の困難をすっかり忘れて、馬鹿みたいな感想を私は漏らす。

 毎日の祈りの果てに漣さまが望んでいたのは、きっとこの景色なのだろう。

 私と漣さま、残念ながら言葉を交わすことで分かり合うことはできなかったけれど。

 でもこうして、同じ景色を望んで願い、祈っている。

 分かり合いたい、分かち合いたい。

 理解して、許して、受け入れて。

 同じ朝日を臨みたい。

 たったそれだけのこと、簡単なことのはずなのに、私たちは遠回りして、躓いて、思い違って、ぶつかり合って。


「あ、あわ、あわわわ……」


 横にいる想雲くんが、慄いて尻餅をついた。

 太陽が顔を覗かせるその方角から、光に溶け込む白銀色の大きく、太く、長い筋が立ち昇る。

 火柱のように。

 いや、生き物のように、左右に全体をくねらせて、巨大ななにかが東庁のあるべき場所に現れた。


「龍だ」


 ぽつりと言った私に答えるかのように、突如として現れた白銀の龍が、ぐおおと啼き、首を振るった。

 周囲を覆っていた霧がすべて、龍の口に吸い込まれ、飲み込まれて行く。

 居並んでいた亡霊、幻影たちも、全員が龍の姿を前に膝を屈し、拝礼して一人、また一人と光の中へ消えて行く。

 視界が開けた私たちの背後、少し遠い場所には翔霏(しょうひ)たちがいて、みんなが大口を開けて鎌首をもたげる龍の姿に言葉を失っていた。

 そしてその場に、もう二人。


「れ、漣さま、危険です。お部屋に戻りませんと」

「かめへん、かめへん」


 珍しく南苑から外に出て来た漣さまと、それを連れ戻そうとする孤氷(こひょう)さんである。


「じぶんが呼んだんか?」


 漣さまが私に尋ねた。

 目の前の大きな龍神を、私が呼んだと思っているのだろうか。

 そんなことがあるわけはない。

 ふるふる、と横に首を振って、否定の意を示したけれど。


「じゃあ、みんなで、呼んだんやな」


 漣さまはそう納得して、白銀龍に向かい、拝跪叩頭なされた。

 あれはつい先日のことだったね。

 私も漣さまも、龍が見たいと願ったのだった。

 本当に出て来るなんてなあ。

 漣さまに従って私も想雲くんも、孤氷さんも、離れて見ていた翔霏や軽螢(けいけい)、椿珠(ちんじゅ)さんや塀貴妃たち、その場に見える全員が跪いた。

 霧も晴れ、謎の亡霊たちも姿を消し、すっかりいつもの光景を取り戻した皇城の朝。

 しかしその東区画には、見上げる首が痛いほどの高さで私たちを睥睨する、巨大な白銀の龍がそびえ立っている。

 この尋常ならざる状況にあり、漣さまはいつもの朝と同じく、東を向いて祈っている。

 

『フゥォーーーーーーーーッ……』


 龍が、なにか語りかけるかのように息を吐いた。

 再拝したのちに漣さまは後ろを振り返り。


「お招きされとるわ。そっちの子もな」


 そう言って、私と想雲くんの手を引き、龍が屹立するたもとへと歩みを促した。


「ど、どういうことにございましょう?」


 きわめて当然の想雲くんの疑問に漣さまは、真っ直ぐ答えるではない言葉をかける。

 聞かれた質問に素直に答えないのも、いつもの漣さまであった。


「坊やん、司午(しご)の貴妃さんの親戚かなにかやろ。きらっとした目がよう似とるわ」

「は、はい。甥になります。僕の父は角州(かくしゅう)左軍の玄霧(げんむ)です」

「ふうん。せやから突いて破るちからが漲っとんのやろかなあ。立派な亥(いのしし)の子やね」


 司午家の祖先神、八畜(はっちく)の亥(がい)を引き合いに出し、漣さまは一人で合点していた。

 そして寂しげに笑い、こう言った。


「うちも、祈って待っとるだけの女やのうて、そないな男の子に生まれたかったわ」


 彼女の頬に涙があったのかどうか、光でまぶしくてわからなかった。

 言われてみると漣さまのご実家、除葛氏(じょかつし)も、亥族の末裔である。

 けれども漣さまには微塵たりとも攻撃性と言おうか、現実に立ちはだかる問題を力尽くでも打ち破るような、エネルギッシュな荒々しさはないのだ。

 そんな自分を、今までずっと嘆いていたのだろうか。

 尾州(びしゅう)の反乱で縁のある人たちを多く失ったのに、なにもできず祈るだけの自分に、嫌気がさしていたのだろうか。

 わからないながらも私たちは三人並んで龍の膝元、そんなものはないけれど、そのような位置に進み出る。

 すうううう、と白銀龍はその首を地表近くにゆっくりと下げて這わせた。

 龍の視線が私たちと同じ高さになる。

 漣さまは言葉にならない龍の息吹に対し、こくこくとなぜかすべてわかったかのように頷く。


「行こか」


 迷いもなく、漣さまは龍神の顔の横から、その首後ろによじ登った。

 え、どうして、なんの意味が?

 混乱して見守るだけの私たちに、漣さまが子どものような笑顔で問いかける。


「乗せてくれるっちゅうとんのやで。乗りたくないん?」

「すごく乗りたいです」


 素直な欲望が、勝った。

 ワクワクが止まらない私と、まだ少し怯えている想雲くんは、漣さまに続いて龍の首根っこ、背中の始まる部分に乗り込むのだった。

 胴体部分は鱗のように固いけれど、背には鬣(たてがみ)のような毛がふさふさと生え茂っている。

 そのおかげで、非常に腰の収まりは良かったのだった。

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