百四十三話 白銀龍の背に乗って

 白銀龍の背に乗って、私たちは皇城の上空を周遊している。

 漣(れん)さま、私、想雲(そううん)くんの順に、龍の鬣(たてがみ)が始まる部分に跨っている形だ。


「あ、馬蝋(ばろう)さんたち」


 眼下で驚愕している人々を私は発見する。

 なにごとが起きたのかと建物の外に出て様子を見たら、龍が飛んでいるのだ。

 彼らの驚きは言葉にできないだろう。

 ある人は立ち尽くし、ある人は騒いで走る。

 またある人は静かに頭を下げ、悠々と飛び回る龍を厳かに崇め奉っていた。


「うひゃーい、素晴らしき絶景かな」


 清少納言に見せてあげたいと思いながら、私は感嘆にはしゃぐ。

 初春の山際から昇る曙光に世界は白く照らされ、細くたなびいた雲だけが紫色の陰影を持ち、色付いている。


「こ、こんなに……」


 震えた涙声で、想雲くんも感動していた。


「この国が、この地がこんなに美しいだなんて、僕は今、はじめて知ったかもしれません」

「ええもん見られたな、坊やん。これからはたまに早起きしいや」


 機嫌良さそうに、漣さまが返した。


「はい……はい……いつかこの美しい国を守れる、強い男になります……」


 想雲くんは泣きじゃくりながら、この景色を決して忘れまいと、努めて目を見開き、旭日を凝視する。

 神を畏れ慄きつつも、決して臆することなく目を開けられる想雲くんだからこそ、龍の背に乗る資格があったのだろう。


「漣さま、私」

「言わんでええよ」


 声をかけたけれど、途中で制止された。

 私にとっても、彼女への罪悪感が、とても重くある。 

 今この状況に置いても、漣さまの侍女になり切れていないことだ。

 私はあくまでも翠(すい)さまのために、仮の南苑勤めをしているつもりだった。

 もっともその行動はモヤシの姜(きょう)さんが仕向けた無駄なことだったのだけれどね。

 不誠実なニセ侍女のまま、問題ごとを暴くだけ暴いて、事態をややこしくして、漣さまとお別れしなければならないのだろうか。

 そう思うと、どうしたって涙が出た。

 開き直って知らんぷりできるほどに、私の心は枯れても擦れてもいないんだよ、ちくしょうめ。

 幻の中に立っていた漣さまの姿は、塀(へい)貴妃だけではなく私の罪悪感の投影だったのかもしれない。


「すべて、知ってらしたんですか?」

「なーんも知らんよ。うちはアホやから、難しいこと言われても、どうせわからんし」

「そんなことはありません。漣さまは素敵な人です」


 彼女の背中を後ろからギュッと抱いて、不遜と知りつつも涙に濡れた顔を押し付ける。

 もしも翠さまに会う前に、漣さまの侍女として勤めていたら。

 きっと私は、誠心誠意、全力でお仕えしただろう。

 毎日気持ち良く、一緒にお祈りし続けたことだろう。

 出会いのタイミングというのは上手く行かないものだし、これも運命だろうか。

 後ろから回された私の手を、優しく撫でて漣さまがおっしゃった。


「姜おいちゃんのこと、許してはくれへんのやろね」

「はい、それはいくら漣さまのお気持ちであっても、無理です」


 あいつには、どうしたってぎゃふんと言わせてやらねばならない。

 それはもう決定事項で、誰になんと言われようと曲げられるわけはないのだ。


「あはは、難義するやろな、あの人も。そこまで慕われて司午の貴妃さんも幸せやね」


 ひゅううと鳴る風を浴び、漣さまは朗らかに笑った。

 どうしようもないことだと、そのまま受け止めてくれたのだ。

 私は眼下で心配そうにしている孤氷(こひょう)さんや塀貴妃を遠目に見て、言った。


「漣さまも、良い人たちに深く愛されていらっしゃいます」

「せやね。あっ」


 地上で私たちを見守る人たちの中に、漣さまは気になる人を見つけたようだ。


「わーい、皇(おう)さまー、上から失礼やでー」


 漣さまが呼びかけ手を振る、視線の先には。


「あ、あれって」

「しゅ、主上……」


 私と想雲くんが同時に呟き、その後の言葉を失う。

 黄色い絹地に赤と青の差し色が入った袍衣の男性が、漣さまに笑って手を振り返していた。

 まだ若く、真面目そうな、優しそうな人であった。

 昂国(こうこく)八州の中に、黄色い絹織物の服を着るのが許されている人間は、たった一人しか存在しない。

 紛れもなく、皇帝陛下その人だった。

 隣には正妃の柳由(りゅうゆう)さま、後ろには宦官の川久(せんきゅう)太監が一緒にいる。

 早く、早く降りて平伏しないと。

 そう思っていた私の戸惑いを見透かすように、漣さまが諭す。


「龍の神さん、せっかく来たんやからもう少し飛んで回りたいみたいや。あとちょっと付き合うてな」


 なぜ漣さまが神の言葉を聞くことができるのか、私にはわからない。

 本物、正真正銘の巫女ならそれができるのだろうと、納得するしかなかった。

 白銀龍と空の散歩の中、私は視界の先に高山(こうざん)を見る。

 先日まで翔霏(しょうひ)が滞在していた大海寺(たいかいじ)が、山の裏手にあるはずだな。

 私が地上にいる翔霏たちに手を振ると、みんなもこっちを見て楽しそうに手を振ったり広げたりしてくれた。

 ヤギだけは大した興味もなさそうに、椿珠(ちんじゅ)さんの服の裾をかじっていた。


「央那さん、父上と獏(ばく)さんも、東城門のところにいます」


 想雲くんが指す先。

 相変わらず頭痛を抱えていそうな難しい顔をした玄霧(げんむ)さんと、隠れてなきゃいけないはずの軽薄バカ野郎の獏がいた。


「結局はあの人たち、様子を見に来てくれたんだね」


 私が仮に乙さんたち尾州(びしゅう)の情報員に拘束されてしまったとしても?

 情報を共有している彼らが各所にゴネれば最悪の事態は回避できるだろうという、後詰め要員である。

 玄霧さんには毎度のことながら心配心労をかけてしまっているので、いつかちゃんとした形でお礼をしないとなあ。

 そもそも借金がまだ、膨大に残っているし。

 いかんいかん、せっかく神さまの背中に乗せていただいて上空をぐるりと飛んでいるのだから、こんなしみったれた考えは捨てなければ。


「こないな高い所からみんなを見るなんて、ないなあ。今更やけど変な感じやわ」


 皇城と河旭(かきょく)の街並みを俯瞰し、遠くに見える連峰を眺めて、漣さまはふわふわした口調で楽しんでいた。


「中書堂の最上階も、こんなに高くはありませんでしたから」 

「せやね。新しい方が、前より低くなるんやろ?」

「はい、強度とか防災とか避難の関係で、丈夫にはなるけど高さは減ります」


 以前から中書堂の再建を気にしていらした漣さま。

 あの建物が単に好きなのではと孤氷さんは話していたけれど、続く言葉は予想もしないものだった。


「次の中書堂からは、魔人なんか生まれんとええね。燃えてもうたのも、ちょうどええ厄落としやったんや」


 私はその発言だけで、察した。

 漣さまは、憎んでいたのだ。

 首狩り軍師を生んだ木造五階の建物を、魔窟のように忌んで、怨みとともに眺めていたのだ。

 覇聖鳳(はせお)たちが中書堂を焼いたときに漣さまが泣いたというのは、悲しかったからではない。

 尾州の反乱鎮圧、同族殺しの災厄を招いた中書堂が燃えて失せたことが、嬉しく、感激に震えた涙だったのだ。

 あそこで学ばなければ、姜さんと尾州の悲劇は、違うものになっていただろう。

 姜さんは前線軍師として出陣しなかったかもしれないし、漣さまの婚約者である幼馴染のお兄さんも、処刑されなかったかもしれない。

 でも。

 それは確かに、一つの可能性かもしれないけれど。


「れ、漣さま、今までそんなこと、おくびにも出さなかったじゃないですか。私が再建の手伝いをしに行ってるのも、快く送り出してくれていたじゃないですか。私、私、てっきり漣さまは喜んでくれているものだと」

「そら、じぶんらは関係あらへんし、なんせ楽しそうにしとったでな。うちが余計なこと言うて水差すわけにいかんやろ」


 ああ、本当に私はなんと愚かだったことか。

 超然として万事にこだわらず、日々を愉しんで祈りと歓びに生きているのだと、勝手に思い込んでいただけで。 

 漣さまだって、耐えて忍んで、気を遣って、言いたいことを我慢していたんだよな。

 人間だもん、そりゃそうだよ。

 なにか超越した存在なんだと思うのは、私の狭い了見から来るレッテル貼り、都合の良い押しつけでしかなかった。


「ごめんなさい、申し訳ございません、漣さま。私は本当に至らない侍女でした」


 さらにべしょ濡れの顔を、漣さまの背中に預ける。

 最後の最後、今この段階にあって、私の罪悪感はマックスである。

 それを知ってか知らずか、祈りと赦しの美妃は笑って言う。


「うちも欠けたとこばかりのご主人やからね、ええよ、それでええんよ」


 ダメな私たちだけれど、それでもいいじゃないか、と。

 そう思える心根の、なんと優しくふくよかで、温かいことだろうか。

 地上からこちらを見守る皇帝陛下を見つめ、漣さまは言を続けた。


「うちが体の調子で薬を飲んどるんは、皇さまも素乾(そかん)の大妃(おおきさき)さまも、うすうす気付いとんねん。そのことで今更ごちゃごちゃ言われることはあらへん。じぶんが心配することはあらへんねや」


 漣さまが避妊薬を飲んでいる動機は、必ずしも子どもを拒否しているからだけではない。

 女としての体の都合、月経不順を整えるためでもある。

 偉い人たちも、身体に関わることなら仕方がないと、暗黙のうちに容認しているということか。


「そうだったんですか。でもそれが発覚したら大変だって、塀貴妃もずいぶんと心配なさっていましたけど」

「紅(こう)ちゃんは気にしすぎやねん。なるようにしかならへんのになあ。まあ、そこが可愛えとこなんやけど」

「確かに」


 貴族にしては気安い小市民のような面がなかったら、私も塀貴妃に親しみを覚えなかったであろう。

 みんな、少しずつ足りなかったり、余計だったり、いびつなのである。

 でも世界は、人はそういうものだし、それでいいと受け入れなくてはね。


「し、しかし、主上が薬のことをご存じでございますれば、その……?」


 想雲くんが、疑問を抱きながらも口ごもった。

 ああ、そうだよね。

 子作りを前提としていないのに、皇帝陛下は漣さまを寝所に呼んでいたことになる。

 それが意味する男女の機微を想像して、恥ずかしくなってしまったのだろう。


「皇さまは皇さまの好きにしとるんやろ。うちが考えることとちゃうわ」


 あっけらかんと言った漣さまだけれど、その口調はどこか、嬉しそうだった。

 皇帝陛下に愛されている自覚と自負が、きっと強くあるのだろうな。

 うーん、その分野は私も不勉強なので、想雲くんに教えてあげられることはなさそうだよ、ごめんね。

 私も今回のことで、まだまだわからないこと、思いもよらないことは多いのだと、謙虚に学ぶことができた。

 なにより龍に乗ってお城の上を飛んで回るなんて、想像も予見もできるわけはないのだ。

 姜さんや私が小賢しく知恵を弄しても、届かない深奥と高みは、どうしたって、あるのだから。

 次第ににょきにょきと顔を出していく太陽を眺めながら、しみじみ思っていると。


『おのしらの想いが、いちいち五月蠅(うるさ)くて適わぬ』


 突然、腰の下から体全体に響く重厚な声を感じた。

 だ、誰ェ~!?

 と不思議に思うまでもなく。


「堪忍なあ、神さん。うちらそうやって、ごちゃごちゃ考えてまうんや」


 申し訳なさそうに漣さまが弁解する、その相手。

 私たちを乗せて飛翔する白銀龍の神が賜った言葉が、聴覚を通り越して体の中に入って来たのだった。

 最初に神さまから聞こえた声がダメ出しというのも、実に今回の私たちらしいなと思ってしまったよ。

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