百四十一話 罪悪感の檻の中
みんなにかけていた禁術呪縛が解けてしまった、塀(へい)紅猫(こうみょう)貴妃殿下。
力を失うようにその場にへたり込み、うなだれて彼女が言う。
「私は、漣(れん)と一緒に南苑でいつまでも静かに暮らしていたいだけなの。大それた望みもないし、国やお世継ぎのことも、他の方たちがどうにかすればいい。なにか大きな務めができるような器量なんて、私にはないのだから……」
護る女、塀貴妃の一番の願いは「現状維持」であった。
彼女らしいというか、皮肉めいているというか、私にはコメントしにくい。
塀貴妃はきっと、他の貴妃さま、翠(すい)さまや玉楊(ぎょくよう)さんに比べて、尊貴の極みたる女の園の統括者として自分がふさわしくないのではという劣等感に、常にさいなまれていたのだ。
優しく常識的な人だし、なによりこんなにも強力な術を使えるというのに。
自信や自己肯定感を、強く大きく醸成する機会が、得られなかったのかもしれないな。
この自慢の術にしたって、行使する局面が、人生の中でそもそも少なかったに違いない。
気軽に使えるような力じゃないしね、強すぎるせいで。
加えて塀貴妃はすでに、自分の手であれこれとなにかしなければならない立場ではない。
細々としたことは侍女や宦官たちがすべて片付けてしまうし、平和な後宮の中では人を無理矢理縛りつけるような呪術を使うチャンスなど、滅多にありはしないのだ。
しかし、である。
「……いくら虚を突かれたからと言って、こんなに簡単に他人に制圧されたのは物心ついてから、一度もなかった。私もまだまだ修行が足りないということか」
翔霏(しょうひ)が悔しそうに口を歪めて、うずくまる塀貴妃の手を優しく取った。
「完全に私の負けです、塀殿下。私を負かしたたった一人の人間が翼州(よくしゅう)公のご息女であられたことを、同じ翼州の女として誇りに思います。胸を張っていただきたい。私たちは素晴らしい方の縁ある土地に生まれた」
「いや、誰も今そんな勝負してねえけど。それどころじゃねえけど」
軽螢(けいけい)が冷静に突っ込む。
翔霏が空気を読まないのはいつものことなので、私は生温かい目で見守るのみ。
自分を負かす人間がこの世にそうそういるわけがないと、本気で思っていた翔霏も大したものだけれどね、その自信自負のほどは。
「ともかくだな。この場は俺たちに任せて、お前さんは早く東庁に行くと良い。こっちがぼやぼやしてると、それだけ除葛(じょかつ)軍師に次の手を打つ時間を与えちまうぞ」
椿珠(ちんじゅ)さんがそう仕切り直し、私は頷く。
乙さんたちだって馬鹿ではないから、きっと今回の作戦が破綻したときの構えをしているはずだ。
私は想雲くんの手を握り、引っ張って言った。
「なにはなくとも、今わかってることを馬蝋(ばろう)さんたちに知らせよう。皇太后陛下にお目通りが叶えばいいんだけど」
「え、ぼ、僕もですか?」
「そりゃ、被害を受けたのは司午家(しごけ)なんだから、想雲くんはその場にいるべきだよ。言いたいことがあったらガンガン言って良いんだよ」
明確な利害当事者ですからね、彼も。
本来であれば玄霧さんが同席して欲しいくらいのことだけれど、急なことだったし色々と難しい事情はあるだろう。
後日、正式に司午家から姜(きょう)さんにクレームを出すかどうか、国の偉い人たちがこの事件をどう処理するかは、今の私たちにはわからないとしても、だ。
こんなことされてムカついてます、どうしてくれるんですか、とハッキリ主張するのは大事だよ。
「わ、わかりました。僕も叔母上のために、堂々と務めたいと思います」
「うんうん、その意気その意気。頼りにしてるからね」
キュッと握り返したその手から、想雲くんの力強い意志を感じた。
「しかし夜が明けるというのに、いつになったらこの霧は晴れるんだ……?」
さらに密度を濃くして行く霧を眺めて、翔霏が不安げに言ったのだった。
そう、もうじき日が昇る。
漣さまや孤氷(こひょう)さんたちは今頃、南苑の中庭でお祈りの準備にかかっているか、なんなら祈祷を始めているだろう。
心の中で日昇に祈りながら、東庁の入り口を目指して歩みを進めた、そのとき。
「あれ? こっちで合ってるよね?」
「そのはず、ですが……」
あまりに濃すぎる霧のせいで一瞬、私と想雲くんは方向感覚を見失ってしまった。
「翔霏ー! 軽螢ー! 聞こえるー!?」
大声で仲間たちに呼びかけるも、返事はない。
いくら霧が濃くったって、見当違いの方向に歩いているはずなどないのに。
そう思った矢先。
「お、央那さん、誰かいます!」
想雲くんが私の身体を庇うように、前に立つ。
視線の先にはおぼろげながら、人の姿と影が、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
いやいやいや、どんどん増えてるよ。
気が付けば私たちは、数十人単位の物言わぬ人の群れに取り囲まれてしまっていた。
なんだなんだ、姜さんの手がかかった人間がまだこんなにいて、私たちの邪魔をしようとするのか?
何者だ、名を名乗れ!
と、叫ぼうとしたわけじゃないけれどそのとき、私はあることに気づき、力無く漏らす。
「く、首が、ない」
私と想雲くんを包囲している人の群れ。
彼らには首から上、頭部、顔が、なかった。
危うく絶叫して、おしっこ漏らすところだった。
毒で寝てる最中に出し切ったので、今この場で出ることはなくて助かったわ。
ほら、年下の男子の前で失禁とか、乙女にあるまじきことですからね。
眼前に居並ぶ連中は、まるで刃物で切り飛ばされたかのように、真一文字に頸部から上が、切断されていたのだ。
「ゆ、幽鬼か、邪妖の類か! 術者がどこかに潜んでいるな!?」
私を守りながら、想雲くんが左右の様子を窺い、問いかける。
意外とお化けとか、怖くないタイプなんだ、頼もしい。
しかし頭も口も存在しない亡霊の群れから、その返事が聞こえることはなかった。
黙ってこっちを向いている首なし人間たちは、特にこちらに危害を加えるようなアクションには移らない。
私は後ずさりしながら彼らの様子をじっくり観察する。
彼らが身を包む白地の綿の衣服、その首元はどす黒い血痕のような汚れが付着していた。
まるで、断首刑でも受けたかのように。
「首を、斬られた人たち?」
「なんでそんな連中が今ここに表れるんです!?」
私が驚くのとノータイムで、想雲くんが疑問を返してきた。
いや、私に聞かれても知らんけどさ。
ん、待てよ。
首を刎ねられた人たちがいるということは、首を狩る誰かがいたわけで。
「まさか尾州(びしゅう)の反乱で、姜さんに処刑された人たちかな?」
「なんでそんな連中が今ここに表れるんです!?」
「想雲くん、質問が一字一句さっきと同じなんだけど」
「す、すみません。動転してしまって」
私は天丼芸風を許さない女。
同じ言葉を強引に繰り返すなんて安直なやり口で、笑いが取れると思うなよ?
なんてバカなことを考えている場合でもなく、目の前にいる彼ら彼女らは。
「……ひょっとすると、この亡霊たちは姜さんの罪悪感かもね」
私がその答えにすんなり辿り着いた理由は、視界の端にあった。
だって。
埼玉県入間市にいるはずの私のお母さんと、秩父のおじいちゃんも、首なし幽霊たちの後ろに、静かに立っていたのだから。
突然いなくなって、親不孝、爺不孝を続けている私にとっての、最大の罪悪感が、寂しそうな顔で、それでも優しげに、そこに見えたのだから。
この昂国(こうこく)にどれだけ達者な術者、幻惑や呪いの使い手がいたとしても、私のお母さんやお爺ちゃんの顔、姿までは、知るわけもない。
そう考えればこれは、誰かの心が見ている幻である。
それを私たちは見せられていて、お母さんやお爺ちゃんは私の心が霧のスクリーンに投影されて、そこにいるということだ。
「あれ、漣さままでいるじゃん」
ぼーっとした顔で佇む、ゆるくて色っぽいお姉さんを見て私は呟く。
あれは間違いなく、私が今お仕えしている、除葛(じょかつ)漣美人であった。
おそらくは、塀貴妃の心に強くわだかまるなにものかが、こうして像を結んで表れているのだろう。
「か、彼らを打ち倒して前に進むわけには……」
「無駄だと思うよ。おそらく私たちは今、閉じ込められてるんだと思う。誰かの、たくさんの人たちが作り出した罪悪感の檻の中に」
想雲くんの勇ましい提案を、私はやんわりと却下する。
なぜだろう、不思議とわかる気がするのだ。
力で押し通っても、この場から脱け出すことはできないのだと。
それは私自身が、いつの日か罪悪感や後悔でがんじがらめに縛られる日が来ることを、覚悟していたからかもしれない。
母にとって良い娘、祖父にとって良い孫でなかったかもしれないこと。
焼かれていく神台邑(じんだいむら)を前に、無力に泣くしかできなかったこと。
覇聖鳳(はせお)一人を殺すためだけの旅で、大勢の人たちを巻き込み、傷付け、死なせたこと。
そして今、翠さまが倒れているというのに、モヤシ男の口車に乗って、こんなところで立ち往生していることもだ!
ああ、後悔ならいくらでも、掃いて捨てるほど、山と積んで売るほどにあるからね!!
「な、ならば、どうすれば……」
悩み迷う想雲くん。
私は一つの気になることを、彼に尋ねる。
「想雲くんの気にかかってる相手とかは、いないの? 幻の中に見えたりしない?」
「は、いえ、特にこの場には見当たりませんが……」
え、ちょ、すごっ。
この子、誰に対しても、罪悪感のわだかまりとかないんだ?
人に会えば信あるのみ、その一期一会が性根から染み付いているのかな!?
私は以前、寒さとあかぎれに震えていた子に想雲くんが手袋や薬を差し出したことを思い出した。
一事が万事あの調子で生きているなら、そりゃあ罪悪感も後悔も、ありゃしないよね。
きっとここに来る前、お父さんの玄霧(げんむ)さんともちゃんとお話しできたんだろう。
漣さまとは別のジャンル、別方向で、この子は超然としてこだわらない生き方を、すでに身に付けているんだ。
「じゃあ、一緒に祈ろうか」
私は想雲くんの手を取って、その場に膝をつく。
どちらが日の出の方角、東なのかはすでに分からないけれど。
なんとなく、そうであるだろうと信じられる方向に向かって頭を下げる。
「お、央那さん……?」
「こんなわけのわからない呪いだか幻術だか、私にはどうしようもできないからさ」
立ちはだかる人の群れ、罪悪感の林立を見渡し、私は。
今回の後宮暮らしで学んだ、唯一にして最大の解答を、想雲くんに教示する。
「祈るしか、ないんだよ。そういうときは」
毎日見ていた、漣さまのお祈り。
それを真似して、私は陽光の訪れを願い、歌うように呼んだ。
「あぁー、はーぁ、おーう、あーい」
調子っぱずれな声で太陽を四度呼び、四度拝礼する。
四は始を呼ぶ、聖なる数字。
始まれ。
私たちの、迎えるべき朝。
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