百二十三話 興味、悪意、信頼、疑念

 若い宦官と、官僚志望の学生さんたち。

 多くのモヤシ男に囲まれて、どっしりした体躯の馬蝋(ばろう)さんが、東庁(とうちょう)で待ってくれていた。


「ようこそ、麗女史。人数が必要な作業とおっしゃっていましたからな。声を掛けられる限りは集めてみたのですが」


 これから私たちで、濡れたまま乾いてヨレヨレになってしまった書籍の、復元作業に取り掛かるのだ。


「こんなにたくさんの方にご協力いただけるなんて、助かります」


 さすがは司礼(しれい)総太監(そうたいかん)であるな。

 私がぺこりとお辞儀すると、若い書生が前に出て、自虐するように言った。


「本がないと僕らもすることがないからね。穀潰しと思われない程度に、多少は働かないと」


 どこかで見た顔の主は、なおも馴れ馴れしく私に話しかける。


「ところで僕のこと、覚えてる? ほらきみ、よく中書堂で百憩(ひゃっけい)僧人と話してた子だよね。確か翠蝶(すいちょう)貴妃殿下のところで働いてるって」

「いえ、全然覚えてません。ごめんなさい」


 きっぱりと答えて、私は歪んだまま固まった本の山に向き合う。

 あうあう、と口をパクパクさせて、書生は肩を落とし人の群れに戻った。

 嘘だよ、ちゃんと覚えてるさ。

 中書堂で私に変に絡んできた、青びょうたん男だろ。

 こんなやつでも、元気に再会できて、少し嬉しい私である。

 それはそれとして、相手をしていると仕事が停滞するので、無視を決め込んで説明を始める。


「生乾きのまま曲がってしまった本や、歪んだまま乾いて固まってしまった本の直し方には、いくつかのやり方があります。今は冬なので冷凍するという方法もあるんですけど、多少の問題がありまして」


 など、本を実際に手に取って、ページの間に布巾を挟んだり、重し石を乗せて曲がりを強制したり、焼いた石をアイロンとして使って紙を伸ばしたり。

 色々なやり方を提示して、本の状態に合ったふさわしい方法を選択して欲しい、とお願いした。

 のは、いいのだけれど。


「そもそも紙はなぜ曲がりくねるのだ?」

「水気を含んだり乾いたりするのが繰り返されるといかんのか」

「ああ、凍らせれば紙の水気が氷の粒として表に出るから、乾きやすくなるのだな」

「温石(おんじゃく)を本に直接当てるのではなく、四角い箱に湯を入れて、それを温石で温めたものを重しに使うのはどうだ」

「なんだそれは、まだるっこしい。焼いた石板に一度、水をかけて熱を落とした方が楽だろう」


 などと、インテリ同士で議論を始めてしまった。

 いやまあ、性質を理解するために議論を深めるのは、悪いことじゃないけどさ。

 今はさっさと手を動かしてほしい、マジで。

 しかし、さすがに中書堂で学ぶ高級官僚予備生である。

 言っていることは科学的論理的にもだいたいは適っているし、何人かは自分の理論が正しいことを証明するために、すでに実験的に本を成型し直している。

 フットワークが軽いやつも、中にはいるんだね。

 言いだしっぺになるのは嫌だけれど、みんなと一緒に作業をするとなると張り切るタイプが多い、と見たぞ。


「手順さえわかれば、麗女史がいない間でも、作業は進みましょうな。ひとまず安心でございます」


 馬蝋さんがホクホク顔で言った。

 捨てるかどうか微妙だった半不良在庫の山が、立派な本にまた、復活するかもしれないのだ。

 本好きとしては嬉しい作業である。

 なんか、本を捨てたり中古屋さんに売って手放すのって、私は心理的抵抗が激しい方なんだよね。

 読み終わって、もう二度と読み返さない本だとしても。

 私を導いてくれた先生であり、私を楽しませてくれた友だちなんだから。

 なんだかんだ、神台邑(じんだいむら)が焼かれてから今までの間ずっと、私は恒教(こうきょう)と泰学(たいがく)の二冊を、手放さずに携えている。

 この場に加わってくれたみなさんも、きっと大なり小なり、本が好きな気持ちを持ってくれていることに疑いはあるまい。

 作業の指針も定まり、晴れやかな気分の私。

 その気分に反して、今日の曇り空のようにどんよりした話題を、馬蝋さんに持ちかける。


「正妃さま、お加減がよろしくないと聞きましたけど」

「ええ、その通り。臥せっているというほどでもありませぬが、気分が晴れぬようで。環家(かんけ)に関わる追及や審問で、心労が重なったのでありましょうか」


 相手の弱みに付け込むようで気が引けるけれど。

 正妃さまに元気がないこのタイミングで、環家追及の手が緩むような工作を仕掛けられないか、あとで椿珠(ちんじゅ)さんに話してみよう。

 本の修繕をこれからもよろしく、とみなさんに挨拶し、私は東庁をあとにした。

 外は心配した通りに小雨がぱらついていた。

 濡れるのを最小限にとどめるため、上着を頭にひっかぶり、小走りで朱蜂宮に戻る。


「ふふ、小賢しい田舎娘が男漁りから戻って来たわ」


 南門から入った私の耳に、ぶしつけな言葉が飛び込んできた。

 なんだぁ、テメェ!?

 って反射的にガン飛ばして言い返すところだったけれど。


「なあに? この私に、なにか文句でもあるのかしら?」


 相手の姿を見とめ、私はなにも言えずに固まる。

 昨日のお祈りに来ていた顔だから、私は彼女を知っている。

 名は欧(おう)鈴風(りんぷう)と言い。

 漣さまと並んで、南苑の「美人」の位階にある妃だった。

 要するに、かなり偉い人である。


「いえ、特になにもございません」


 私は礼を違えないように恭しく拝し、その場を去ろうとする。

 なんだこの女!?

 私になにか文句でもあるんか、あぁ!?

 たまには男漁りの一つでも、ゆっくりしてみたいっての!!


「ふん。あれだけやかましい司午(しご)貴妃の婢(はしため)だった割に、ご主人と違って意気地がないのね。つまらない」


 貴様ーッ!

 私だけでなく翠さまにも舐めた口を叩くつもりかーッ!


「面白いことをご所望でしたら、ニワトリの真似などお見せいたしましょうか。手前味噌ではございますが、なかなかの迫力と自負しております」


 私はジト目でそう答える。

 デカい声の芸なら、そんじょそこらのやつには負けねえよ。

 斜め方向から予想外の反応が来て、欧美人は面食らったのか。


「な、なによ、気持ち悪い女。頭がおかしいのじゃなくて」


 少し怯えた顔で言い捨てて、逃げて行った。

 ふん、その程度の気合いで私や翠さまにどうこう言おうとするつもりか、片腹痛いわ。

 よくそんな体たらくで、南苑の美人が務まるもんだ。

 あーあ、早く元気を取り戻した翠さまに会いたいのう。

 私たちが角州(かくしゅう)でお世話になっているときに、ニワトリ芸を披露したことがある。


「やかまし過ぎてお腹の赤ちゃんが怖がるから禁止!」


 と、笑いを噛み殺しながらおっしゃった、愛しき翠さまに、会いたい。

 なんてしょぼしょぼと思いながら、漣さまの部屋に戻ると。


「はあ……あぅン……あン……」


 塀(へい)貴妃殿下が、顔をピンクに上気させ、喘ぎ声を出していた。

 いや、漣さまが肩を揉んであげているだけなんですけどね。

 耽美、眼福、地上の楽園。

 ここに百合畑を作りましょう。


「紅(こう)ちゃんの肩と背中、凝り過ぎやろ~。ぐりぐり、うりうり」

「ンぁっ……そ、そこ、ダメッ……」


 なんだか無料で観覧してはいけない気分になり、小銭入れからお金を出すところだったよ。

 しかし漣さま、マッサージが意外と上手なのだな。

 骨の隙間、筋肉の境目、ちょうど凝りの溜まる痛気持ちいいポイントを的確に見抜いて、器用に、かつ力強く、慣れた手つきで攻めている。

 子どもの頃に、ご家族の肩を揉んであげたりした経験が、豊富なのだろうか。 


「今日からしばらく、塀貴妃も夕方のお祈りに参加いただけるそうです。ありがたいお心遣いです」


 目の前の扇情的な花園展開に動じることなく、孤氷(こひょう)さんが言った。

 先日の占いで悪い結果が出たことを、塀貴妃は気にしているのかな。

 とろーんとした目つき、弛緩しきった体で、塀貴妃は私がいることに気づき。


「……あっ。れ、麗ですか。ご、ごほん、お祈りの後で少し、話があります」


 バツが悪そうに居住まいを正し、真面目な口調で言った。

 もちろん私に断る理由はないけれど、いったいなんの話だろう。

 翼州や神台邑に関する話題だと嬉しい、そう思いながら、私は漣さまの後ろで、今日の夕陽に祈った。


「散らかっていてごめんなさい」

「いえ、そんな。お招きに与り、光栄です」


 拝礼後、私だけが塀貴妃のお部屋に呼ばれた。

 漣さまと一緒だと、話しにくいとかあるのだろうか。

 そしてこの部屋は、塀貴妃が自分で言うように、物がごちゃごちゃと多い部屋であった。

 家具や花は当然のようにあるとして、大きな棚には食器も本も楽器も、なにかのお土産らしき調度品も、果てはハサミやトンカチのような手工芸の道具も。

 置ける場所があるなら置いてしまえという勢いで並べられ、積まれている。

 片付けができない女! 片付けができない女じゃないか!

 まさか後宮にもいたとは!!

 塀貴妃の部屋に就いている侍女たちが、これらの雑品をびしっと整理整頓しないということは。


「私はこの状態が使いやすいからこうしているの! 変に触らないで!」


 とでも、言われているのかなあ。

 いや、これはうちのお母さんの読書部屋を、私が勝手に片付けようとしたときに言われた言葉なんだけれどね。

 室内をあまりじろじろ見ないように、縮こまって固まっていると。


「環貴人の紅玉は、銀月(ぎんげつ)太監から、確かに受け取りました。気を遣わせてしまったみたいですね。お礼を言います」


 ルビーの件を、まず感謝された。

 確かにこれは、漣さまのいるところではできない話だ。


「いえ、私はただ運んだだけですので。けれど喜んでいただけたのなら、私も嬉しいです」 


 こうしてじっくり話す機会も得られたからね。

 考えられる限りにおいて、今のところ、順調に物事が運んでいるぞ。

 しかし、好みの宝物が手に入ったにしては浮かない顔で、塀貴妃は私にこう尋ねた。


「それで、環貴人はどうしても、もうお戻りになられないの……? あなたは、詳しいことを知っているのでしょう?」

「ええと、それは」


 どう言ったものかと私が言葉を探していると、塀貴妃は私の手をぎゅっと両手で包む。


「絶対に他言はしません。あなたの知っていることを教えて。同じ翼州の女じゃない。信じて」


 切なく懇願する塀貴妃の掌の温もり。

 さて、この情と熱意に負け、塀貴妃を信頼して正直に話してしまうか。

 それともここはまだ腹芸を使い、誤魔化し通してやり過ごそうか。


「環貴人は」


 数秒の迷いの末に決断し、説明を始める私。

 この選択肢が、果たして正しいのか。

 それともバッドエンド直行のフラグを建ててしまったのか。

 どちらにしても、もう、取り返しはつかない。

 一度でも出してしまった言葉は、元の口に引っ込んで戻りはしないのだから。

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