第2話
必死になって走った道のりは、近かったはずなのに、歩くのとあんまり変わらないような僕の走力。
家に帰るのとどっちが良かったのかわからないぐらいに濡れた。
「最悪……」
そんな中でも救いだったのは、びしょ濡れになっても、寒いなんて思う必要のないぐらいの気温。
太陽が出て来れば、すぐにでも乾いてしまうだろう。
目当てだった大けやきの木の下で空を見上げた。西の空が明るく見えるから、雨もそのうち上がるはずだ。
「お天道様の、機嫌が悪いかぁ」
おばあちゃんの言葉が頭の中で反芻される。
天気予報すら予想できないような雨が、突然降り注ぐ。去年よりも、今年の夏はそれが多かったようにも思う。
「はぁ? 機嫌?」
僕の独り言に返事をするように、頭の上から声が降り注いだ。
「え? 誰? どこにいるの?」
「上だよ。上」
その声に導かれるように、頭上を見上げれば、見えたのは誰かの足。
「誰?」
「ん? ちょっと待ってて」
声の主は、ガサガサとけやきの木の枝を揺すると、僕の目の前に降り立った。
「機嫌って何? 強い雨が降るのは、夏が終わる証拠だぜ。そんなことも知らねぇの?」
「知ってるよ。機嫌が悪いって言ったのは、おばあちゃんだ」
バカにされた様な口ぶりに、つい僕の口調も荒れる。
こんな口のききかた、母さんが聞いたら顔を真っ赤にして怒るかな。
絵本に出てくる赤鬼に負けないぐらいの顔をして怒る母さんを思い出したら、つい顔がにやける。
「何笑ってんの」
独りでニヤついた僕を見て、目の前の彼の顔が歪む。
あぁ。こういう癖、止めないとなぁ。
僕の頭の中は、いつも気がつけばどこかに旅立ってて、独りでしゃべったり笑ったり。
小学校でも変な顔をされてるのを知ってる。
直そうとしてるんだけど、なかなか止められない。
「別に、笑ってない」
「嘘だ。笑ってたじゃん」
「笑ってないって!」
むきになって否定して、その場から立ち去ろうとしたけど、目の前に広がるのは雨の柵。
結局その場から離れることはできないと、雨を見つめてがっくり肩を落とした。
「ざーんねん。まだ、止まねぇよ」
僕の動きを見ていた彼が、バカにした様な声を出す。
なんだって言うんだよ。もう、放っておいてよ。
こんなの相手にせずにいれば、そのうちに飽きてくれるだろう。
そしたら、僕のことなんて、その辺の石ころと同じように、無視するはずだ。
「なぁ。お前、名前何て言うの?」
心のなかに苛立ちを隠したまま、放っておけば、彼から僕に話しかけてきた。
なんだよ。気にすんなって。
「りつ……」
「はぁ? 聞こえねぇって」
ぼそっと呟いた僕の声は、雨の音にかき消されてしまったようで、彼が声を張り上げた。
「りつ!
「なんだ。でかい声出んじゃん。俺は、いつき。
そう言って笑った下平くんの白い歯が、雨で暗くなった景色の中に浮かんで見える。
「そう……」
歯がどれだけ白く見えたって、正直僕には関係のない話で、どうでもいいと考えてることを隠そうともせずに、相づちを返した。
「何それ。俺に興味ないって?」
まぁ。興味はないよね。どうせ、今だけなんだし。
雨が止めば、彼はすぐにここから立ち去るだろうし。
「あんまり」
「うわ。ひっでぇ。なぁ、お前何年?」
「ろ、六年」
「一緒じゃん。年下かと思った」
僕がどんなに無愛想に返事をしたって、下平くんの興味は削がれてくれないようで、どんどん距離を縮めてくる。
それは、気持ちだけじゃなくて、物理的にも。
背中に雨粒の柵。
目の前に、笑顔の下平くん。
逃れられない状況に、体だけじゃなくて僕の心までびしょ濡れだ。
「下平くんも、六年なの?」
この時間だけだからって、この場所にいる間だけだからって、覚悟を決めて話を返した。
「いつき!」
「うん? わかったよ。それで? 下平くんも六年?」
「だからぁ! いつきだっての!」
下平くんがいらいらしたような声を出すけど、僕には何を怒られてるのかもわかんない。
「下平 樹君でしょ? わかってるって」
「律さぁ。空気読めねぇ? 樹って呼べって」
「な、名前ぇ?」
ここまできて、ようやく下平くんの言いたいことが理解できた。
「だから、樹だっての」
「い、いつき?」
「そう! みんなそう呼ぶ。だから、律もそう呼んで」
樹の笑顔の中で、一際目立つ白い歯。
今日のことを思い出すのなら、一番最初に浮かんで来るだろう。
猫のように真ん丸の目を、つり目のはずの目尻を思いっきり下げて、樹が僕に笑いかけた。
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