夏の終わりに前を向く
光城 朱純
第1話
逃げた
逃ゲタ
ニゲタ
夢の中でどんどん大きくなる声。ノイズ混じりのその声は、僕を責めたてるように頭の中に響き渡る。
「うるさい!」
脳内を占拠したノイズを振り払うように、それ以上に大きな声をあげて飛び起きた。
目を覚ましたはずなのに、夢は終わったはずなのに、鳴りやまないノイズ音。
「あ、アブラゼミの声……」
僕の家じゃ滅多に聞こえないアブラゼミの声が、目覚まし時計よりも早く、大音量で鳴り響いていた。
「りっちゃん? 起きた?」
「おばあちゃん。うん。今起きた」
「りっちゃんは早起きだねぇ」
「蝉の声で起きたんだよ」
「そっかぁ。窓、閉めておけばよかったね」
「ううん。大丈夫」
「ほら、そんなに汗かいて。暑かったね。朝ごはんの前にシャワー浴びておいで」
僕の汗は暑いからじゃない。
あの変な夢を見た朝はいつもこうだ。
冷や汗で、パジャマもびしょ濡れで。それをわかってるおばあちゃんが、暑さのせいにしてシャワーを勧めてくれる。
「はぁーい」
少し子供っぽく、わざと間延びした返事をして、僕はお風呂場に走った。
シャワーから流れ落ちるお湯の音に混じって聞こえる声。耳に残るその声は、隙あらば僕のことを責めてくる。
誰かに言われた言葉じゃない。
僕の中から出てくる声。
確かに僕は逃げたけど。
立ち止まることは許されない。
動き続けなければ、この声は僕の中で鳴り響く。
「朝ごはん、もう食べる?」
「うん」
おばあちゃんの作る朝ごはんは、しっかりした和食。お母さんの作る朝ごはんと違って、ちょっと特別。
「今日も、どこか行くの?」
「うーん。どうしよっかな」
「たまには、家でゆっくりしたら? 毎日行くところもないでしょう。それに、最近お天道様の機嫌が悪いから、突然降ってくるよ」
毎日毎日慌ただしく動き回る僕のことを、おばあちゃんが心配してくれるのは知ってる。
せっかく、おばあちゃんの家に来たのに、居座ろうともしない僕。
ごめんなさい。
でも、立ち止まったら、あの声が追いかけてくる。
僕は逃げてここに来たのに、今度はあの声から逃げ続けてる。
「傘持って行くから大丈夫。今日はね、神社にある大けやきまで行きたいんだ」
「そう。気をつけて行っておいで。お昼までに戻ってね」
「うん!」
まだ途中だった朝ごはん。お味噌汁を最後のひと口まで飲み切って、僕は食卓から離れた。
おばあちゃんの家を出れば、朝の太陽はこの世界で一番目立とうと、必死になって地上を照りつける。
その日差しに負けないように、アブラゼミも全員が一団となって応戦中だ。
その戦場から急いで立ち去りたくて、神社までの道を早足で歩いた。
神社までの道のりは、ちゃんと舗装されてる道もある。それでも僕は、わざわざ田んぼのあぜ道を進む。
じゃりじゃりと足が砂や石を踏みしめる感覚や音を味わって、真っ青な空に浮かぶ少し固くなったわたあめみたいな白い雲を見上げる。
ここで見上げる空は、いつだって広い。
左右をビルに囲まれて、視界を横切るように這う電線。
僕の知ってる空は、額縁で囲まれたような空。
テレビで見るような、視界一面に広がる青い空なんて、別世界の話だと思ってた。
青空から視線を落として、左右の田んぼに目をやれば、若草色の葉の塊の中、守られる薄黄色の粒。まだ一人前には程遠い稲が、少しずつその体を重くしていた。
鼻から入り込むのは、土と水の混ざった泥水の匂い。
むせかえるような熱気が、ただでさえ曲がったあぜ道をさらに歪ませて、その先にあるはずの神社が、遠くに感じる。
田んぼを抜ければ、一本道なはずの神社は、夏の暑さのせいで思った以上に遠く感じて、半分を過ぎた頃には息も上がって、汗だくで。
神社までの道の途中、足を止めてわずかばかりの風を全身で感じようとした。
「あ、雨の匂い……」
吹き抜ける風に全身を預けていた僕は、その中に混じる雨の匂いをすぐに感じることができた。
それと同時に、大きな失敗を思い出す。
「傘、忘れたのに」
僕が独り言を言い終わるのを待たずに、頭に水が落ちてきたのを感じた。
最初のひと粒を実感したら最後、認識された雨は、ここぞとばかりにその威力を増していく。
さっきまでカラカラで、砂埃が巻き立つぐらいだった道が、徐々にその色を変えて、その地面から立ち込める雨の匂い。
灰色のTシャツにドット柄がつき始め、徐々に全体へと広がる色。
「やば……」
元来た道を振り返れば、既にその距離は遠く、体力のない僕が焦って走ったとしても、びしょ濡れになる未来しか見えない。
雨が降る前は歪んで見えたその道は、神社への距離が思ったよりも近いことを僕に教えてくれる。
神社まで走って、雨やどりして、雨が止んでからゆっくり帰ろう。
そんな風に自分の動きに計画を立てて、僕は足の裏の地面を大きく踏み込んだ。
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