第15話

 初めて兄さんと会った日のことは、今でもよく覚えています。


 私には、父と母がいました。あの人たちのことじゃなく、私のことを生んでくれた本当の両親の話です。

 東条の性を名乗る前は、実の両親と私の三人で暮らしていました。

 家はそれなりに裕福だったと思います。両親は仕事で家を空けることが多かったけど、当時は家政婦さんが私の相手をしてくれたので、そこまで寂しくはなかったです。

 それに、私の誕生日やクリスマスに夏休みなどはふたりとも必ず休暇を取ってくれました。

 記念日は家族で過ごすのが一番だと、両親は楽しそうに話してくれたこともよく覚えています。

 欲しいものは言えば買ってもらえましたし、プレゼントもたくさん貰いました。

 目には見えない贈り物、愛情と言えばいいのでしょうか。それも注いでもらえていたと思います。

 仕事で忙しくても、両親のどちらかは夜には必ず家に帰ってくれましたし、寂しくさせてごめんと謝られながら、頭をよく撫でてもらいました。

 私は大丈夫だからと、両親を安心させるために笑って答えていたと思います。その代わり、もっと頭を撫でて欲しいと要求しては、眠りにつくまで傍にいてもらいました。


 寂しくないと強がってはいても、私はやはり寂しかったのでしょう。

 それでも、寂しいという気持ち以上に、私は両親のことが大好きでした。

 怒られたこともなく、私のことを常に考えてくれることが分かっていたからです。

 両親は、私のことを愛してくれている。そのことを、直感的に感じ取っていたのかもしれません。

 ふたりからの愛情を疑ったこともないし、これからもないでしょう。

 ワガママも特に言ったことはありません。先ほどの、頭を撫でて欲しいとお願いしたことくらいでしょうか。

 ふたりの困った顔を見るより、喜ぶ顔を見ることのほうが好きでした。


 両親に褒めてもらいたい。喜んでほしい。幼いながらにそう思っていた私は、当時の習い事でよく賞を取っていました。

 当時から、私は人より要領が良かったんだと思います。教えられたことは、大抵すぐに覚えました。そうでなくても、二度か三度繰り返せば、コツを掴むことが出来ました。


 天才。良くそう言われました。

ですが、私はそれをあまり快く思ったことはありません。

 別に他の人より優れた人物になろうとは思っていなかったのです。

私にとって大事なのは両親に喜んで貰うこと。それだけでした。

多くの人に認められるより、自分にとって大事だと思える人に、私は喜んでもらいたかったのです。

 そんな私の考えを、ふたりは察してくれており、コンクールで結果を出したときは必ず外でご飯を食べました。

 よくやったね。頑張ったね。両親はそう褒めてくれました。その際、他の子の名前を出したことは、一度もありませんでした。


 私は、私が賞を取ったことで、褒められなかった子がいることを知っています。

 影で怒られている姿も見たことがありました。なんであの子に勝てないんだと、そう𠮟られている光景は、両親に怒られたことのない私には衝撃でした。

 その光景が忘れられず、落ち込んでいた私を両親が心配して尋ねられたことがあります。

 ありのままに思ったことを打ち明けた私を父と母は抱きしめてこう言ってくれました。


 他人と比較する必要はない。アリスはアリスのまま、健やかに育ってくれればそれでいい。

 それが私たちの願いなんだと。


 その言葉を聞いて、私は心の底から安堵しました。

 この人たちの子供に生まれてよかったと、そう思いました。



 でも、その考えは間違いでした。



 安心した私は、その後とあるピアノのコンテストに出ました。

 規模は大きくも小さくもない、ごく普通のコンテスト。普通にやれば普通に優勝できるくらいの難易度。もう慣れていた私は、緊張もしていませんでした。

 ただ、両親が間に合うかどうかだけが気がかりでした。私のことを父が会場まで送り届けてくれたのですが、着いたときに丁度母から連絡があり、仕事が早く終わったので自分も私の演奏を聴きたいとのことでした。

 

 それを父から聞いた私は、母を迎えに行くように急かしました。

 最寄りの駅にいるからタクシーでも来れるとは言われたそうなのですが、私はふたりに揃って私の晴れ舞台を見て欲しかったのです。

 今から迎えに行ったら間に合うかギリギリだなと、ちょっと困った顔をしながらも嬉しそうに控え室から出ていく父の横顔を、私は一生忘れることが出来ないでしょう。


 それが私にとって、最期に見た生きている父の顔でした。

 母の顔は、前日に眠りにつく前に見たものが最期でした。

 そして、撫でてもらったあの暖かい手の感触も、もう二度と感じることは出来なくなったのです。


 私の演奏は、両親の耳に届くことはないまま、静かに奏でられました。


 私が、ふたりの子供でなかったのなら。そして、あの日父を急かさなかったら。

 ふたりはきっと、事故に遭うこともないまま、生きていたはずでした。


 失意のまま、ただ茫然となにも分からないまま。気付けば私は引き取られていました。

 つらく冷たく、温かみのない、私の知っている「家族」がいない家へと。

 

 そして、ひとりの男の子と――兄さんと出会ったんです。

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