第13話
「ふぅ……」
帰宅後、僕は私服に着替えると、自室のベッドの上に寝そべっていた。
真新しく、まだ荷解きも全て終えていない部屋は、少し殺風景でもある。天井は染み一つない真っ白だ。幼い頃から育った家からこのマンションに引っ越してそこまで経っていないが、まだこの場所が自分の部屋であるという実感が乏しい。
ただ、どこか遠くまできたという感覚だけが、僕の中にある。両親の喧嘩する声も、怒声も叫びも聞こえない、僕だけの居場所だ。
「疲れた、な……」
瞼が妙に重かった。身体もだるく、どこか倦怠感がある。
別に体力を消費したわけではないのだが、眠ろうと思えばすぐ眠れそうだ。
もっとも、アリスが今頃ダイニングで夕ご飯を作っているはずだから、ここで眠るわけにはいかないのだが。帰る途中スーパーに寄った際、荷物を持ちはしたけれど、それくらいで疲れを感じるほどじゃない。
単純に、精神的に疲労したのだろう。今日は朝から色々あったから、自分でも気付かないうちに積み重なっていったものがあるのかもしれない。
「明日も、天音と会うことになるのかな」
多分、そうなるだろう。
僕に呆れて去って行ってくれるならそれでいいけど、天音はきっと僕を見捨ててはくれない。
昔から優しくて、情に厚い子だったから。付き合っている時は、それがとてもありがたく、彼女の存在が心の支えになっていたのだけど、別れてからも僕のことを忘れてくれないというのは、決していいことではないだろう。
(他に誰かいい人が見つかればいいんだろうけど)
そう簡単にはいかないだろうな……。僕なんかの何がいいんだか。
思わず自嘲してしまうのは、天音のことを考えながら、もうひとり頭の中に浮かんでいる女の子がいたからだ。
それが誰かは、言うまでもないだろう。アリス。僕の妹。帰りもずっと手を離してくれず、買い物袋を持った反対側の手が痛かったことを思い出す。
制服同士が触れそうな距離を保ちながら、僕らはマンションまで帰って来たのだ。
途中で誰にも会わなかったことは幸いだったが、この距離感がこれからも続くというのなら、住民の人にも見られるかもしれない。
その人は、僕らのことをどう思うだろう。
兄妹だと思ってくれるだろうか。どう見ても似ても似つかない、同じ学校の制服を着た男女のことを。
親の姿が見当たらず、ふたりで暮らす僕らのことを、周りの人はいったい――。
「やめよう」
こんなこと、考えたってキリがない。ここが今の僕らの家だ。どう思われようが、僕らはここで生きていくしかないのだ。少なくとも、卒業までは。
僕は一度寝返りをうつ。身体を包みこむような倦怠感こそ消えていなかったものの、頭は妙に冴えてしまった。
「はぁ、ダイニングに行くかな」
僕はため息をつきながら、ベッドからゆっくりと起き上がる。
このままゴロゴロしていても、あまりいいことはなさそうだ。それならいっそダイニングに行き、アリスの手伝いでもしていたほうがよほどいい。
そんなことを考えながらドアに手を伸ばしたところで、ノックの音が聞こえた。
コンコンと小さく二回。次いで、控えめに話しかけてくる声がする。
「兄さん、御飯が出来ましたよ」
「え、もう? 随分早いね」
ガチャリとドアを開けて答えると、目の前にはエプロン姿のアリスがいた。
ピンクの花柄のエプロンを、上着を脱いだシャツにかけており、下はスカートのままだ。髪もまとめており、現在はポニーテールである。このほうが効率がいいからと、帰宅してすぐ料理に取り掛かった結果だ。
僕としては料理を作ってくれるだけでもありがたいので、どんな格好で作ろうと文句はないのだが、アリスのエプロン姿は僕にとってもまだ見慣れておらず、新鮮さがある。
一緒に暮らしている僕でさえそうなのだから、学校の男子たちが今のアリスを見たらどう思うかはお察しというものだ。きっと羨ましがることだろう。
自慢するつもりは一切ないので、あくまで僕の心の中に仕舞っておくけどね。
「ええ。今日は新しい調理法を試してみたので。これで効率も前より上がるはずです」
「おお。向上心があるようでなによりだ」
「えっへん」
嬉しそうに胸を張るアリス。すると、エプロンの向こうにあるものが輪郭を帯びて浮き出てくる。
「っ……」
それを見て、僕は慌てて目をそらした。
意識してしまいそうだったからだ。この目の前にいる女の子が、妹ではなく女の子であることを。
この時の僕の判断は、きっと正解だったと思う。ほんの数秒。数秒間だけ、僕はアリスを視界から外した。アリスを見ないようにして、密かに心を落ち着かせる。
視界の隅でアリスの手が僅かに動いたような気がしたが、そのことはすぐに僕の意識から外れていった。
「兄さん?」
「あ、いや、なんでもないよ。うん、アリスは偉いね」
そうして落ち着いたことで、僕は妹の髪へと手を伸ばす。
誤魔化すように――いや、実際誤魔化すためだったんだけど、アリスは僕の手を避けることはしなかった。
伸ばされた手はそのままアリスの銀色に光る髪へと触れた。
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