第5話
動き出した電車の中、肩口でそろえられたカラスの濡れ羽のように艶やかな黒髪が、僅かに上下に揺れていた。
振動と騒音にまみれた場所のはずなのに、彼女の黒い瞳だけは、まっすぐに僕をとらえて離さない。
「うん。一応だけど、元気ではある、かな」
「そっか、良かった。引っ越しちゃってから、大丈夫かなって、ずっと心配してたんだよ」
吸い寄せられるかのように、僕も天音だけを見た。
声も口調も、中学の頃と変わっていない。明るくてしっかり者だった幼馴染は、今もそのままの姿でそこにいる。そのことが、僕は少し嬉しかった。身勝手な話とは分かっていても、だ。
「とりあえずはなんとかなってるよ。慣れないことばかりだけど、それでもあの頃よりは――」
「兄さん」
まるで世界に僕と天音だけしか存在しないような感覚に陥りつつあったが、その世界は急速に閉じられた。
というより、引っ張り上げられたというべきだろうか。
視線を落とせば、僕よりずっと白い手が、僕の右手を握っていた。いや、ちょっと訂正。この場合、握り締めてると言った方が正しい。右手がすごく痛い。
あまりの痛さに注意しようと顔をあげるのだけど、アリスと視線は合わなかった。
妹は俯いていて、前髪に青い瞳が隠れている。さっきまでとは打って変わってほの暗ささえ漂っている妹に、僕はとっさに声をかけた。
「どうしたの、アリス」
「兄さん。私、急に気分が悪くなってきました。次の駅で一度降りましょう」
そう一気にまくし立ててくるアリス。
気分が悪くなったというが、その口調に弱々しさはまるでなかった。むしろ力強さすらあったように思う。
「そうなの? それじゃあ……」
とはいえそんなことを妹に言われて心配しない兄はいない。
言われるまま、僕は次の駅でアリスと一緒に降りようとしたのだが、
「ああ。いたんだ、妹さん」
僕らの間に、声が割って入る。
その声はどこか冷たくて、一瞬僕は誰が発したものなのか分からなかった。
「元気だった? というか、元気じゃないはずないか。あたしのこと、さっきからすっごく睨んでたしね」
「……元気じゃ、ないです。たった今。悪くなりました。本当にもう、すごく」
「そっか。じゃああたしと同じだね。いや、ちょっと違うかな。あたしの場合、最初からすごく気分が悪かったから。妹さんが秀隆くんの隣にいるのを見かけたときから、ね」
「…………」
バチリという音を聞いたような気がした。
まるで火花がなったような。外は快晴で、雷が鳴るような曇り空でもないはずなのに。
「本当に、よくあんな楽しそうな顔が出来たものだよね」
天音の視線は鋭かった。
僕に向けていた柔らかい目ではない。なにか汚いものを見るかのような目で、天音はアリスのことを見据えていた。
「私、は」
「全部、貴女のせいなのに。全部貴女が壊したのに。私たちが別れたのだって……!」
「天音」
僕は天音の言葉を遮った。同時に、天音の視線から守るように、僕は彼女と距離と縮めて正面に立つ。
「それ以上は言っちゃダメだよ」
「でも……!」
「僕は納得してるんだ。アリスは悪くない。だから、責めるようなことはしないで欲しい……約束したろ?」
まだなにかを言いたげな天音だったが、丁度その時、電車が次の駅に到着した。
ある意味グッドタイミングだ。僕は背中越しにアリスの手を取ると、そのまま駅のホームへと降りる。
「秀隆くん、なんで……その子には、守る価値なんて――!」
「僕にはあるんだよ。たったひとりの妹なんだから」
それだけを言い残して僕はかつての恋人を振り払う。
そう、僕は恋人より、妹を選んだ。以前のように。そしてきっと、これからも。
そのことに、僕は納得していた。だけど――。
「あたしは、納得なんてしてないから」
最後にドアが閉まる瞬間、そんな声が聞こえた気がした。
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