ひかりあつめ

川辺 せい

ひかりあつめ


 それが病だなんて、知らなかった。わたしには、とっておきの秘密がある。それが見えるようになったのは物心がついてすぐのこと。それを手のひらのなかに集めることは、まだ幼かったわたしの日課だった。


こう、わたし、赤光病せきこうびょうなのかもしれない」


 幼馴染の彼は、すぐに電話に出た。久しぶりに聞いたその声はいつ聞いても変わらない。リビングのテレビが垂れ流しているワイドショーは、赤光病患者へのインタビューを放送している。


「なら、僕と旅をしよう」

「え、旅?」


 少し間を置いて返ってきた言葉の意味が一瞬理解できなくて、頭のなかで反芻する。どうして、旅を?


「そうだな、とりあえず一泊二日分の荷物をまとめておいて。あとで、迎えに行くよ」


「ちょっと待ってよ、仕事は?」


「うまくやるから、帆乃ほのはなにも心配しないで。じゃあ、十七時ごろに」


 それきり、ぷつりと通話は切れてしまった。私はぽかんとしたままスマホの画面を眺める。洸の勢いにはいつも圧倒されてしまうけれど、その勢いに便乗して後悔したことは一度もない。小さいころからそうだった。


 わたしは長らく使っていなかったリュックを引っ張り出して、言われた通り一泊二日分の荷物を詰め込む。夏は薄着だから荷物がかさばらなくて楽だ。荷造りを終えてリビングに戻ると、赤光病の特集は終わっていた。洸が赤光病の研究センターで働いているから病名だけは知っていたけれど、その病が先天性であることや近年発症者が増加していることは今日の特集をみてはじめて知った。




「帆乃、お待たせ。準備はできてる?」

「洸、久しぶり。準備万端だよ」


 約束通り17時に迎えにきてくれた洸は、まぶしいほど鮮やかなコバルトブルーのシャツを着ていた。彼もリュックひとつという軽装備だ。最近髪を切ったのか、毛先が綺麗に揃っている。


「宿取ってあるから、そこに荷物を置いてから目的地に行こう。電車に一時間くらい乗るけど大丈夫?」


「ありがとう、大丈夫。どこに行くの?」


「ついてからのお楽しみ」


 彼が着ているシャツの色も、いつか見えなくなってしまうのだろうか。最寄駅から洸と乗り込んだのは、私の職場と反対方面へ向かう電車だった。


「こっちに乗るの、新鮮」


「用がないと乗らないよね。僕も久しぶりに乗ったよ」


「ねぇ、なんで旅?」


「帆乃に、見せたい景色がたくさんあるから」


「見せたい景色……?」


「そう。一度は見たことがある景色ばかりだろうけど」


 穏やかに微笑んだ洸はいつ会っても透き通ってしまいそうなほど白く清涼で、ラムネの瓶のなかに入っているビー玉のようにきらきらしている。子どものころは、中性的な雰囲気の洸を揶揄う子たちをわたしが追い払うようなこともたくさんあった。今では身長も大きく追い越されて、わたしが頼ってしまっている。


 仕事の話や昔話に花を咲かせながら電車に一時間ほど揺られてたどり着いたのは、たしかに訪れたことのある駅だった。近くには海や水族館がある。洸はどうやら、海辺のホテルを予約しておいてくれたらしい。時間も時間だからとチェックインを済ませて、一旦部屋へ向かう。


「え、すごい! オーシャンビューだ」


「奇跡的にこの部屋だけ空いててさ。せっかくなら、綺麗な景色が見える方がいいでしょ」


「ありがとね。旅費は後日まとめて請求して」


「はは、いいよ。せっかく久しぶりに会えたんだし。気にしないで」


 ワイドショーで赤光病について知っただけの悲しい休日だったはずが、洸の手にかかればあっという間に特別な日になってしまう。洸と過ごす時間は、いつでもなにかが特別だった。カラオケへ行っただけでも、ふたりでラーメンを食べただけでも、思い出すたび不思議と心があたたまるような時間。たぶん、洸の笑顔や言葉が、そうさせる。特別な条件なんてなくても、洸と過ごす時間はきらきらしていた。


「ちょっと海辺に降りてみようか。まだ、日も出てるし」


「うん。ビール買って行かない?」


「いいね。下で買っていこう」


 この部屋にたどり着く途中、フロントの近くに生ビールが入っている自動販売機があった。お酒が買える自販機はホテルならではで、見つけるとちょっとワクワクする。キンキンに冷えた生ビールの缶を片手に、私たちは海辺へ向かった。ホテルを出て道を渡り、階段を降りればもうそこは砂浜。


「まだ、空も青いね。夕焼けはうっすら見えるけど」


「青い場所に来るから、そのシャツなの?」


「いや、そういうわけじゃないけど理由はあるよ。秘密だけどね」


「秘密が多いなぁ」


 不意に手を引かれて、わたしはつんのめるようにして踏み出した。振り向いた洸はいたずらっ子のような笑みを浮かべていて、子どものころを思い出す。


「みて、水面も深い青だ。この空と海をさ、なるべくよく見てほしいんだ」


「ほんとだ。なんで、空と海?」


「綺麗だから」


「洸って、そんなに青が好きだったっけ」


「今は好きだよ、すべての色のなかで、いちばんね」


 私たちは海岸の階段に腰掛けて乾杯すると、暮れなずむ空と水面を眺めた。穏やかな波の音がさらさらと響いて心地いい。夕暮れの風が、もうすぐそこまできている秋をわたしたちのもとへ連れてくる。だんだんと深まってゆく空の色は夕陽のオレンジとうっすら混ざり合いながらも、いつまでも青かった。


「これから、洸にはずっと赤い服を着ていてもらわなきゃ」


「えぇ、いやだよ」


「なら、赤い口紅を塗ってくれる?」


「赤はちょっとなぁ。青い口紅なら、検討するけど」


「唇が青かったら、怖いよ」


 想像して、思わず吹き出す。斬新な青リップ、案外流行るかもしれない。


「帆乃はさ、なんで自分が赤光病かもしれないって気づいたの?」


 やさしい瞳があまりにも澄みきっていたから、わたしは一瞬息を呑んだ。空の紺青や海の深藍を混ぜて染み込ませたような色が、その双眸には映っている。


「たまたまやってたワイドショーで、赤光病の特集をしてて。症状に、心当たりがあったから」


「そっか。その症状って、子どものころからだよね」


「え、なんでわかるの?」


「ちっちゃいころ、よく話してくれたから。赤光病を知ったときは、もしかしたらって思ったんだけどさ。そのときは治療法がなにも見つかってなかったし、確証もなかったから言えなかった」


「洸に話したことあったっけ。よく覚えてたね」


 帆乃は覚えてないのか〜、と洸が笑う。赤光病研究センターに就職することを選んだ洸が、わたしよりも先にその病について知っていたのは考えてみれば当然のことだった。


「帆乃は、僕にだけ教えてくれるって言ってたよ。みんなには内緒だよって言われた」


「えっ、全然覚えてない」


「ひどいなぁ、話してくれたこと、僕は嬉しかったのに」


「ごめん……」


 夏の終わりを知らせる風が、洸とわたしの間を通り抜けてゆく。わたしたちはあたりが真っ暗になるまで海辺で過ごして、コンビニに寄ってから部屋へ戻った。明日は、どこへゆくのだろう。コンビニで適当に買った夕食を食べながら、洸と同じ場所に寝泊まりするのは20歳ハタチになったばかりのころにふたりで潰れたとき以来だなぁと懐かしくなる。今では缶を三本ほど空けても、潰れることはない。


 くだらない話をしながら缶を空けると順番にシャワーを浴びて、ツインベッドの片方に潜り込んだ。洸が入り口側を選んだから、わたしは窓際。わたしたちは、眠くなるまで中身のないしりとりをした。暗がりのなかに浮かぶちいさな赤い光の粒たちが、今はちょっとだけ悲しい。暗がりのなかにいれば、誰にでも見える光だと思っていたのに。その光をたからもののように集めていたあの日々は、もう、戻ってこない。




 翌朝わたしを目覚めさせたのは、窓から射しこんだ陽の光だった。海辺の朝陽は容赦がないまぶしさで起き抜けの目を突き刺す。まぶしい、とつぶやきながらカーテンを閉め切ると、「せっかく明るいのに」と洸に笑われた。寝起きが悪いわたしと違って、洸は朝から爽やかだ。朝食はふたりでホテルのビュッフェを食べた。お腹いっぱいだねと笑い合いながらホテルをチェックアウトすると、今日も行き先を知らされないまま洸に連れられて海が見渡せる道を歩く。見えてきた看板は、何度か目にしたことがあるものだった。


「定番コースだけど、水族館をみよう」


「水族館かぁ。遠足以来かも」


 水族館のなかは、どこもかしこも青かった。水槽も、きらりと光る魚の鱗も、青かった。館内をすべて見終わるころには日が暮れていて、太陽の光を懐かしく感じる。そういえば洸の服は今日も青系だったなと思いながら帰りの電車に揺られた。いつか、この服を着ている洸の姿がみえなくなる。暗がりにいるときや目を瞑ったときに、赤い光の粒が見えるのは赤光病の初期症状だ。いつかその光が広がって、赤以外の色を視認できなくなる。洸の顔も水色のシャツも、ぜんぶ。


「一生分の青を、帆乃に見せられたかな」


 洸のつぶやき声を聞きながら、わたしはとろりと微睡んだ。暗く黒い夢のなかに漂った赤い光の粒を、わたしは手のひらのなかに集める。布団の中でこっそりその光を集めたこと、暗い夜の部屋でその光を追いかけたこと、たくさんのたからものがわたしのなかで行き合って、それから弾けて消えた。一縷の青い光が射し込んで、わたしは手のひらに集めた赤い光を手放す。目が覚めると、隣には淡い水色のシャツを着た洸がいた。次の駅で、降りないと。


「ねぇ、洸。わたし、青い光をはじめて見た。みんなには、内緒だよ」


 洸が一瞬泣きそうな表情をしたから、わたしはどきりとして、「どうしたの、洸」と問いかける。洸はわたしの頭にぽんと手を乗せると、ふっと柔らかく笑った。


「青い光をたくさん集めると、赤い光が見えなくなるかもしれないんだって。帆乃のたからものは奪ってしまったけど、研究は成功だね」



Fin.




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