張り合いをなくした沼姫

崇期

>>>

 わたしがまだボゥ島と名乗り〝人形ひとがた遊び〟に繰り出していたころの話ですが、「ゼログラビティ城と諸々群氏の世界遺産登録記念パーティー」に出席したこともあったのです。


 蒼穹そうきゅうを背景に雲海が棚引く粛々しゅくしゅくとした会場に、ぽうっと星々が灯るように姿を現す面々。皆、世界各国に鎮座する代表的な絶景、美景たちでありました。それぞれ、ギリシャ彫刻風であったり日本人形の姿であったりしながら、人間さながら乾杯のグラスを交わし語らう心地よい空間でした。


 ただ一人、日本からの参加で、印象に残るお姿でありながら早々にどこかへ引っ込んでしまって、ご挨拶できないままになってしまった方がいらっしゃいました。

 あとでアンビリカル湖嬢から聞いたのですが、のっぴきならない事情というものがあり、「ご挨拶は遠慮させてもらった」とのことでした。


 そう、お名前は「唐巻沼からまきぬま様」でした。参加者の半分以上は「著名人」といったところでしたが、彼女は彼女でそこまで名を知られていなくとも、古い歴史を持つ東洋の姫君の一人には違いないのです。

 わたしとて、実は数千年前にすでに海底に沈んでしまった身ですから、本来、こういった祝宴に顔を出していい身分かどうか、迷う気持ちもあります。




「唐巻沼さん」

 氷のように半透明なドレスに身を包んだアンビリカル湖嬢は、名国の令嬢に似つかわしくない、気さくで世話好きな方でしたから、分厚い雲に遮られた薄暗い一角に身を縮こませている沼姫を放っておけなかったようで、声をかけたそうです。


「お久しぶりね。五年ぶりかしら? 〈神無月かんなづきの集い〉以来じゃない?」


「アンビリカル湖さん」唐巻沼様は、苔色の鱗をわさわさと鳴らして──それは衣装のスパンコールみたいなものでしたが──顔を持ち上げると、アンビリカル湖嬢を顧みてこう返しました。「ほんと、お久しぶりで。お変わりないようで、なによりですわ」


「今から商談相手を呼び出して密談でもするつもり? こちらへいらっしゃいよ。さっき、与呂豆魚よろずお川様にもご挨拶させていただきましたのよ。日本の方々もほとんど勢揃いしてらっしゃるわ」


「わたくしは……」


 アンビリカル湖嬢は、彼女の袖口に巻きつけてある黒い腕章を見逃しませんでした。


「それ……もしかして、喪章? 近隣の村でも無くなりましたの?」


「ええ」蛙の喉のようにふくらんだ顎を上下させる唐巻沼様。「実はね、無くなったのは〈ヌシ〉なの」


「ヌシ? もしや、人間?」


「いいえ」頭頂に貼りついた海藻のような髪が左右に振られます。「ヌシは……魚ですわ。二十余年と幾星霜いくせいそう、わたしの体内で共に歳月を歩んできた大魚のことなんですが、先月の中頃、とある釣り人に釣りあげられてしまいましてね。人間たちはアレのあまりの貫禄に舌を巻いて〈ヌシ〉と呼んでいたのに、それを、針にかけ、水から引きずりだし、連れ去ってしまったのです。以来、この身はからっぽ、張り合いのない日々ってわけよ」


「まあ」アンビリカル湖嬢は口に手を当て、遺憾を表情にて伝えました。「それはお気の毒に。人間が、そんなことを」


「悲しみに貫かれたこの身でパーティーで大はしゃぎするのもどうかと思うじゃない? ゼログラビティ城と諸々群さんの世界遺産登録はわたしたちも待ちに待った名誉ですし、ぜひとも直接にお祝いの言葉を差し上げたいのですわ。わたくしのような、無名の、いつ消えて無くなっても不思議じゃないちっぽけな自然物だからこそ、存在を忘れ去られないうちに。ですが──」


「それは愉しめる気分ではないわよね」アンビリカル湖嬢は二人の間にため息を落とします。「それって、あれかしら。人間たちの食糧問題というか、ほら、日本人は魚が大好きだというじゃない。なんか……ありましたよね? レーンがくるくると回って、そこを魚とご飯が盛り付けられたお皿が流れてくるというものが」


「まさか……」唐巻沼様は緑の顔を青ざめさせます。「回転寿司のことをおっしゃって? たしかに日本にはそういうフード・アトラクションというか特殊な配膳方法がありますが、あんなプクプクした淡水魚が好まれるものなのかしら?」


「そうでなければ」アンビリカル湖嬢は肩をすくめます。「なぜ釣りあげちゃうのよ。日本はぐるりと全部海ですのに、意外なところに目をつけられましたわね」


「そうなの」唐巻沼様は段々畑のようにでこぼこした額にそっと指先を当てて。「この世の生きとし生けるもの、いつか塵・藻屑となり、姿形をなくしてしまうことはこの宇宙の摂理だわ。そう知っていながら、二十余年と幾星霜、この体内に棲まっていたものが急にいなくなるというのは、なんだかねぇ、心にぽかぁっと穴があいたような感じがするものでしてね」


「わかりますわ。わたしも同じく生命を湛えた者として」


「そうは言ってもアンビリカル湖さん? あなた、また繻子しゅす社の旅行カレンダーの八月を飾ることになったとお聞きしたのですけれど。もう、専属モデルといっても過言じゃないらしいじゃない」


「あそこは小さくともヨーロッパの会社ですから」アンビリカル湖嬢は気を遣って、その賛辞にも表情を緩めることはせず言いました。「十二か月のうちの一枚よ。皆、交代交代に選ばれるものなのよ」


「日本の一年が三百か月に増えたとしても、わたくしのような醜女しこめには叶わぬ夢ですわ」今度は唐巻沼様が丸っこい肩をすくめてみせます。「遠い昔に、こもなぁんて呼ばれてね、和歌に詠まれたことはあったけれど……」


「和歌って?」


「日本古来の、短く美麗な言葉で綴られる歌よ」


「まあ、素敵」


「とんでもない……」唐巻沼様の顔は深い皺が寄ったまま。「あとは『唐三手からみて村殺人事件』という小説で一度取り上げられたくらいかしらね。人間って、ほんとに……」


「稚魚の放流とか、そういった話はないわけ?」


「川ですわね、あるとしても。そして育つのに二十余年と幾星霜、かかるわけよ」


「無念ね」


「無念よ」




 とにかく、そのような事情で、不幸な沼姫はお仲間たちから遠く離れた場所で愚痴をこぼし続けていたということでした。

 また人づでに聞いたのですが、東京の美術館で著名な写真家による「世界の『沼』展」というめずらしい写真展が行われ、世界遺産とは真逆の美としてもそれなりに話題となったそうなのですが、そこにも沼姫を収めたパネルは残念ながら見当たらなかったということでした。

 二十余年と幾星霜で六尺以上もの体長にまで育つ生き物というのも、そうそうは現れないそうで、その後もお寂しく過ごされているのかと思うと、わたしも同情を禁じ得ません。わたしが海底に沈んだときにも、体内のものは皆、一緒の運命を辿りましたからね。道連れというやつです。なので、わたしも人間の姿に変わっての社交の場は、これを最後に辞するようにいたしました。次の世界遺産登録パーティーが開かれたときには、それが同郷の日本の方なら喜ばしいことでしょうし、そのとき唐巻沼様の元気なお姿があればいいのですが。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

張り合いをなくした沼姫 崇期 @suuki-shu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画